「邪馬台国はどこにあったのか?」は江戸時代から論争になっている日本史のミステリーだ。歴史の探究に書物の存在は欠かせないのだが、日本最古の書物とされる「古事記」でさえ8世紀に書かれたもの。邪馬台国があったとされる3世紀のことを書き記した書物は日本にはない。その意味では、歴史には「空白」がある。 ■日本史最大のミステリー 邪馬台国に行った使節団の足取りを追う だからこそ「邪馬台国論争」はなかなか決着を見ることがないのだが、一つのヒントとなるのが当時中国大陸にあった魏の国の人が日本について書いた「魏志倭人伝」だ。 『魏志倭人伝と大和朝廷の成立』(藤田洋一著、幻冬舎刊)は、この「魏志倭人伝」を紐解きながら邪馬台国の立地と今の日本につながる大和朝廷の成り立ちを解説する。 邪馬台国が存在した場所については「九州説」と「畿内説」が有力だとされてきたが、近年注目を集めているのが「畿内説」の一つで、邪馬台国が現在の奈良県にあったのではないかとする「大和説」だ。 「魏志倭人伝」によると、今から約1700年前、魏の国の使節団が倭国(現在の日本)を訪れた時の描写に、「南至投馬國 水行二十日(船で南に20日航行すると投馬國に着く)」「投馬國の後、水行十日 陸行一月(船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く)」とある。 使節団は魏から九州に上陸し、近隣の国々を回った後、現在の福岡近くの不弥国から船で邪馬台国に向かったとされている。 実はこれが邪馬台国論争を難しくしている一つの要因だ。福岡から船で20日間も南に行ったら、太平洋に出て沖縄近辺まで来てしまうからである。ただ、いずれにしても九州から船で20日間行くのだとしたら「邪馬台国九州説」は説明がつかないことになる。 本書では、ここでユニークな仮説を立てている。 わざと魏の国が策略のため嘘を書いたのだと解釈すれば問題は解けます。 何故嘘を書いたのかというと、それは当時の魏のとある事情があったからです。(P23より) つまり先述の邪馬台国までの道のりについての記述は、あえて嘘が書かれていたということである。 本書によると、当時の中国は魏・蜀・呉の三国が互いに争っていた。地形的に、呉からすると魏と親交のある倭がすぐ東にあるということになり、地政学的な脅威となる。逆に魏にとっては、倭は呉に揺さぶりをかけるのに都合がいい。そんな事情から魏は倭の場所をあまり知られたくなかった。 では「魏志倭人伝」の中で魏がついた嘘はどのようなものだったのか。 本書では「南に20日」が実は「東に20日」だったのではないかとしている。そうすると「20日航行」した先の投馬国は、山陰地方の出雲あたりとなる。そこからの「船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く」は、「船で水上を十日航行=さらに東に十日航行すると、京都の舞鶴付近に到着」、「徒歩で陸上を一月歩く=舞鶴から徒歩で一月」となり、「邪馬台国=畿内説」に信憑性が出てくる。 本書では畿内の中でも現在の奈良県にあたる大和にあったとする理由として、「魏志倭人伝」のオリジナル版(写本ではない原本)の中で「邪馬台国」の「台」が旧字の「䑓」ではなく「壹(トウ)」を使って「邪馬壹国」とされていたことを挙げている。つまり「邪馬台(やまたい)」という読み方がそもそも間違いで「邪馬壹(やまとぅ=大和)」だったのではないか。 ◇ 邪馬台国はどこにあったのか。 おそらく結論が出る日はまだ遠いはずだが、本書で紹介されている「邪馬台国大和説」は「魏志倭人伝」の解釈だけでなく、当時の中国と朝鮮半島の情勢が織り込まれ、思わず引き込まれる厚みを持っている。 この邪馬台国がいかに大和朝廷に繋がっていくのか。ユニークな歴史解釈に触れられる一冊として、歴史が好きな人は楽しめるのではないか。(新刊JP編集部) 2022.07.16 15:00 https://biz-journal.jp/2022/07/post_307086.html ★1:2022/07/17(日) 08:07:46.68 http://2chb.net/r/newsplus/1658212626/ 奈良みたいな内陸のクソ田舎に邪馬台国なんてあったのかね 常識から言っておかしいと思わなきゃ
やまたいこく から やまと がネーミングされたと思ってたが今さらなのか
>>3 というか繋がってると思いこんでるのがおかしい 大和朝廷も中国の記録も両者に繋がりがあるなんて言ってない 大和朝廷の始祖は神武天皇で卑弥呼も台与も関係ない 中国も両者の系譜を別と考えてる 歴史的、考古学的には奈良にあった邪馬台国が大和朝廷に取って代わられた形になる >>1 もう邪馬台国は茨城にあったでいいよ 茨城なら誰も文句言わないだろう 邪馬台国が中国と交流があって、金印を貰ったことがあるから 畿内大和が邪馬台国の後継を僭称した 僭称することによって日本列島での正当な国家であることを中国に納得させやすい
臺与ちゃんとかいうロリキャラはたぶん創作だと思うな
ライターが無知なだけで、新説でも、なんでもないんだが。
少なくとも時代は一致する古墳とか物証ある畿内説と、 福岡にあった、大分にあった、宮崎にあったと適当な九州説が議論されるのが不思議だわ
短里とか放射説はキチガイ理論 そんなの利用しなくても九州説は成立するのにね
東征した神武のひい爺さん 【筑紫城・倭奴國】の何代目かの国王(漢委奴国王)の大綿津見神(豊玉彦)を始祖とするのは安曇氏 神武東征後の大和王権の航海を担った 【出雲王国】の6代目王「臣津野(八束水臣津野)」の息子、隠岐の島の吾田片隅を始祖とするのは宗像氏 ここからも 東征前に奈良にあったのが 出雲を併合した邪馬台国・親魏倭王 ということがわかる
>>20 上でも書いたけど後継なんて言ってない むしろ積極的に無視してる 神功皇后の所も要は「王じゃない」と言ってる 中国も繋がってるなんて考えてない 別政権扱い なぜか「大和朝廷が邪馬台国の後継を名乗ってる」とか変な事言う人が多いよな >>12 ダメだ、カルト宗教の教祖が、 自分は邪馬台国の一族の子孫とか言い出すからな。 >>30 邪馬台国と大和王権が別物だと認識できてるならそれでいいよ 邪馬台国九州説は、江戸時代、新井白石や本居宣長らが提唱した設定で、大陸に屈辱的な朝貢を行って金印を下賜された国は、 今の朝廷とは無関係な、九州の地方政権である、と言うことで、始まった。 倭の五王も朝貢してるけど、朝鮮半島の権益を認めさせてるので、それはオッケーなんだとか。
おっ?続くねー 外敵ワズラカ!tiến độはあったの?🤔
>>3 邪馬台国の卑弥呼(ヤマトのヒミコ)は 倭姫命(ヤマトのヒメミコ)で、 一族から神功皇后を輩出し、 大和朝廷とも関連が深い。 >>33 普通に読めば九州だからなぁ 結果的に正解しただけだろう ヒメミコヒメミコ言う奴がウザすぎるwww そんなの誰でも一度は思いつくんだよ
>>34 VIDEO 煩わしい👈ペルシア語じゃね? 伊邪那美神の死後に産まれた 天照大神、月読命、須佐之男命は、三貴子とはいうものの 父は伊邪那岐神だけれども、母は???で 神世七代の「伊邪那岐神」と「伊邪那美神」の間に産まれた大綿津見神(豊玉彦)により追い出され 天照大神は奈良に、月読命は死亡、須佐之男命は出雲に、伊邪那岐神も淡路に転封させられる この 天之御中主神から始まる九州筑紫城 中国の皇帝が呼ぶところの倭奴國から追い出された 伊邪那美神の死後に伊邪那岐神が作った 母が誰かがわからない一族が、邪馬台国・親魏倭王
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%B0%E5%BA%9C 九州王朝説では、大宰府が、古代北九州王朝の首都(倭京)であったと主張している。 大宰府には天子の居所であることを示す「紫宸殿」「朱雀」「内裏」といった地名が残っていること、山城である神籠石の分布が畿内ではなく大宰府を防衛していることが明らかであること、条坊築造時期が藤原京条坊築造時期より古い可能性があり、その場合、日本最古の条坊がなぜ大宰府に築造されたのかの合理的説明が難しいなど、一概に俗説に過ぎないと言い切れない面もある。 井上は、第一期大宰府政庁の条坊築造時期について7世紀末との説を発表したが、さらに観世音寺よりも条坊が先行する可能性も示している[19][20][21]。観世音寺創建が7世紀後半とされることを考え合わせると、大宰府条坊築造時期はそれ以前ということになり、日本史上最古とされる藤原京条坊築造時期と同時期あるいはより古い可能性が出てくる。 神籠石 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%B1%A0%E7%9F%B3 また、仮にこれらすべてが単純に古代山城であった場合でも、それらが戦略拠点たりえた状況を含めて、そのようなものが西日本の広範な地域に存在していること、現在までほとんど知られていなかったことは、大和王朝成立前後や、その過程の古代史を考える上で非常に重要なはずであるが、現代(21世紀初頭)の歴史研究を取り巻く環境の中で強い興味を持って捉えられることは少ないことから、歴史がどのように形成されていくのかを現代において知る極めて有効な事例であるとの声もある。 古代の日本の中心はやっぱり九州だね 旧唐書 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%94%90%E6%9B%B8 「倭国伝」と「日本国伝」の2つが並立しており、「巻199上 列傳第149上 東夷[3]」には「日本國者 倭國之別種也 以其國在日邊 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地[4]」とあり、倭国が国号を日本に改めたか、もともと小国であった日本が倭国の地を併合したと記述されている。 小国の日本が倭国を併合したという説があるね 当時の天皇は神の子孫だと主張するカルト国家だったから、前の国の業績も自分のものに取り込んでいるかもしれない 東征は九州の権力争いに負けて近畿まで逃げた そのあとヤマトタケルが九州を征伐して 「ヤマト」の名前と銅鏡を奪って行った
いまだに見つからないなら全部作り話だったんじゃないの?だから敢えて方角がおかしいんだよ
伊邪那美神の死後に産まれた 天照大神、月読命、須佐之男命は、三貴子とはいうものの 父は伊邪那岐神だけれども、母は???で 神世七代の「伊邪那岐神」と「伊邪那美神」の間に産まれた 【正統な後継者】大綿津見神(豊玉彦)により追い出され 天照大神は奈良に、月読命は死亡、須佐之男命は出雲に、伊邪那岐神も淡路に転封させられる この 漢委奴国王の【正統な後継者】大綿津見神(豊玉彦)により 天之御中主神から始まる九州筑紫城、中国の皇帝が呼ぶところの倭奴國から追い出された 伊邪那美神の死後に伊邪那岐神が作った 母が誰かがわからない一族が邪馬台国連合 その女王が「親魏倭王」なんかになっちまったもんだから、そりゃあ 天之御中主神から始まる九州筑紫城、中国の皇帝が呼ぶところの倭奴國は、 討伐するために東征するわな
>>49 VIDEO どうみてもアボジだろ?wwww👉🇲🇳👱 >>37 記述が本当なら中国から渡ってきた移民だしね >>56 石川県はどうなの? 関係あると思うよ? 単一言語な訳絶対に無い >>43 イザナギ、イザナミは奴国の王と女王と考えられる。 遺跡で言えば須玖岡本遺跡だ。 というのは、出雲の荒神谷遺跡の主が、 スサノウだと考えられるため、 コレが前二世紀のため、 前二世紀の奴国=高天原の王は、 須玖岡本遺跡の主だからである。 で、天照大神は、同時期の巫女の墓、 三雲井原遺跡の主と考えられる。 で月読命は恐らく玉垂宮の主で、 月齢によって、有明海の干潮を管理し、 玉垂宮の港を管理した。 >>34 🇻🇳tiến độ [進度]: 進度、進捗状況 倭人伝以外の記述はどれくらい正確なの 案外どこも適当に書いてたんじゃないの
>>1 > 魏の国が策略のため嘘を書いたのだと解釈すれば問題は解けます 問題が解けるんじゃなくてお前の都合が良くなるだけ 嘘だと仮定した場合に自分の説の弱点が解消されるから嘘に間違いない、って頭が悪すぎる >>1 ウチナンチュ(沖縄の人) ヤマトンチュ(大和の人) サンチュ(レタス) 万葉集(中古音) 夜麻登 jĭa ma təŋ 古事記(中古音) 夜麻登 jĭa ma təŋ 日本書紀(中古音) 夜摩苔 jĭa muɑ dʱɑ̆i 隋書倭国伝(中古音) 邪靡堆 jĭa mie̯ tuɑ̆i 魏志倭人伝(上古音) 邪馬壹 jĭa ma dʱɑ̆i
また、卑弥呼の死亡時期と同時期に 築造されたと考えられている、 祇園山古墳と伊都国平原遺跡は、 殉死がそれぞれ確認され、 また、平原遺跡からは、 魏から贈られた方格規矩四神鏡が、 多数見つかっており、 邪馬台国と伊都国の関係の深さを物語っている。
道に迷ってるうちに方角も距離もおかしくなっちゃいましたテヘペロ
>>64 Doğu'da gün doğusunda 🐴突厥の呼び方🌄 これってさ、素人中の素人がテキトーぶっこいてるだけなんだね
魏より派遣された張政は、 実に19年も滞在し、 狗奴国との戦いで一定の役割を果たしたと考えられ、 地理を間違える様な事は想定できない。
当時の情勢 ・朝鮮半島北部の高句麗(紀元前37年から7世紀) 首都は卒本城→丸都城(-427年)→平壌城(427年-668年) ・朝鮮半島南部の三韓(紀元前2世紀末から4世紀) 言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。 朝鮮半島南西部の馬韓52カ国〔後の百済〕、朝鮮半島南部の弁韓12カ国〔後の任那・加羅〕、朝鮮半島南東部の辰韓12カ国〔後の新羅〕 (346年):百済は国際舞台に初めて登場する。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。蘇我氏の出自は半島南西部の全羅道とされている。 『三国史記』(1143年執筆)では紀元前18年建国になっており、韓国・北朝鮮の国定教科書ではこれを引用している。 歴史的な建国時期に関しては、三国史記の記述自体に対する疑いもあるため、韓国でも紀元前1世紀説から紀元後3世紀説までさまざまな説がある。 またその当時に書かれた中国・倭等の文献と後年になって書かれた三国史記の内容には隔たりがある。 中国の史料で百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。 (369年):百済から倭国へ七支刀を献上している。 4世紀後半以降、倭国(ヤマト王権)が朝鮮半島南部へ進出したことを示す文献史料・考古史料は少なからず残されており、 史実として立証されている。〔広開土王碑・七支刀などの考古物や中国朝鮮の文献など、全く別の史料によって実証されており研究がすすめられている。〕 (413年から478年):倭国(ヤマト王権)の倭の五王〔允恭天皇、安康天皇、雄略天皇など〕は、 東晋→宋〔中国南北朝時代の南朝〕に断続的に朝貢を続け、朝鮮半島南部での倭国の支配権の国際的承認を求めた。 南朝は朝鮮半島南部の徴発権、軍事指揮権、裁判権は倭国(ヤマト王権)にあると認めた。 (7世紀中葉):倭国が白村江の戦の敗北により大陸での影響力を完全に喪失する。国号を「日本」と改める。
🇹🇷トルコに占領されていたのに この大人の対応! 朝鮮半島ならぶっ壊されてるだろwwwww
>>66 これが正解だと思う どっから持ってきたのこれ? 神功皇后の三韓征伐(4世紀後半)について ・中国側の視点 宋書(479年)等の記述は、倭国が朝鮮半島南部の小国家群に対して支配力を及ぼしていた傍証であり、 南朝梁の梁職貢図(469年〜530年)には、新羅が或るときは韓の属国であり、或るときは倭の属国であったと記載されている。 ・朝鮮側の視点 朝鮮側の史書三国史記(1145年)からも度重なる倭の侵攻や新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたことが知られる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。 また、韓国南部の旧加羅(任那)地域の前方後円墳の発掘で倭国産の遺物が出ていることも証拠の1つとなる。 ・高句麗側の視点 広開土王碑文(414年)には、4世紀末に倭国が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが記録されている。 ・日本側の視点 日本書紀(720年)等の史書では、百済が倭国に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが記述されている。 391年、倭が百済と新羅を破り臣民とする。393年には倭が新羅の王都を包囲する。397年、百済が倭国に阿シン王の王子腆支を人質に送り国交を結んだ。 いったん高句麗に従属した百済が、399年高句麗を裏切り倭と通じる。400年には倭が新羅の王都を占領していた。 高句麗の広開土王が新羅の要請に応じて軍を派遣し、倭軍を任那・加羅に退かせ、高句麗軍はこれを追撃した。 402年、新羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結ぶ。404年には高句麗領帯方界にまで倭が攻め込んでいる。
卑弥呼の時代(3世紀中頃) 狗邪韓国(3世紀中頃)朝鮮半島南部〔後の任那・加羅〕にあった国。中国正史の『三国志』や『後漢書』に見え、『三国志』では「其(=倭国)の北岸の狗邪韓国」とある。『後漢書』では「倭の西北端の国」とする。 ・『三国志』「魏書」東夷伝韓条には、 韓は南方では陸続きに倭と接すると述べている。倭国(または倭人居住地)の領域内とする説、領域外で対岸とする説、倭の海と岸が接する意味とする説の3説が挙げられている。 ・『後漢書』東夷伝(列伝第七十五)は三韓の位置関係をより具体的に、「韓」の西岸に馬韓が、東岸の北部に辰韓、東岸の南部に弁辰(辰韓)があり、馬韓と弁辰が各々その南方で「倭と接する」と述べ、ここでも朝鮮半島の南海岸部から「倭」の領域であるとしている。 ・『後漢書』東夷伝倭人条では、邪馬台国は楽浪郡から「一万二千里」、倭の西北端である狗邪韓国は楽浪郡から「七千里」と記されている。
韓国の欲知島新石器時代個体はmt-M7aで、これは結局縄文人女性が普通に九州から半島に渡っていた傍証になる https://www.kyushu-u.ac.jp/f/46087/21_11_26_02.pdf >韓国の欲知島Yokchido遺跡出土の女性人骨のDNAが95%縄文という結果が得られた。 >年代は新石器時代中期、紀元前3500―2000年と推定される。 >九州と韓国の間、黒曜石や貝製品などの交易が縄文時代にあったことは考古学的な調査で既にわかっていたが、DNA分析で証明できたことは重要である。 >また、従来の考古学者はこの縄文時代の日韓交易は男性を中心とした漁猟集団が行ったと考える研究者が多いが、 >欲知島遺跡の縄文系人骨は女性 であったことから、男性と女性の両方がこの交流に参加したと考えられる。 半島に住む縄文人と大陸北部から南下して来た華北との混血が初期の渡来系弥生人 弥生初期の福岡新町遺跡では、大陸式の支石墓(ドルメン)に完全な縄文人(在来系弥生人)が埋葬されていたことから ぽつぽつと渡来する少数の渡来系弥生人を圧倒的数で勝る在来系弥生人が受け入れながら共生する様子が伺える。 伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる 海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している 有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう 製鉄関係はもう少し南まで続いているので、>>86 の図のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る 狗奴国との国境は菊池川だろう 鉄鍛冶工房の分布は貝輪の分布とほぼ完全に一致しており、鉄加工の技術は半島からの鉄材料とともに海人が各地に進出した際に広めたもの 免田式土器だけじゃなく、海人の宝である貝輪や弥生時代の鉄工房の分布とも一致する >>82 卑弥呼の時代にオンタイムで書かれたのが 『魏志』(倭人伝、韓伝を含む) >>37 都合が悪いから、江戸時代の皇国思想家が 邪馬台国は大和ではない、九州の蛮族だとか言い始めた 本居宣長なんかは九州の熊襲がヤマトを偽り勝手にシナに朝貢しやがったに違いないとか言ってた それ江戸時代より前の公家とかの解釈では、邪馬台国=ヤマトだろって感じだった >>80 奈良盆地は大物主の國造以前の未開の地で、 荒神谷遺跡の銅剣とも無関係。 考古学的に見ても文献的に見ても海人族の最大勢力・安曇が伊都王家なのは明白 伊都の安曇族を味方につけて海運を掌握したからこそ邪馬台国は強大になれた 特に鉄原料が国産化されておらず弁韓からの輸入に頼っていた時代には、海運を制するものが圧倒的優位であった 纏向を発掘した当事者である関川氏も畿内は違うと仰っている 考古学の立場からみた「邪馬台国大和説」への疑問 奈良県・纒向遺跡出土の大型建物について http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku335.htm > 1.考古学の立場からみた「邪馬台国大和説」への疑問 (関川尚功先生) > ・出土品と大陸系遺物の存在 > これまで副葬品を伴う例は古墳時代初頭の壷棺のみです。ただし中期には壷や高坏を供献した例がある。 > 大陸系の遺物はまったく出ていない。九州の弥生遺跡と比べると副葬品が少ない。 > (2)纒向遺跡の実態 > ・大陸系遺物の出土量とその比較【対外交流のあとはみられるか】 > 断面が三角形の特徴的な木鏃で、儀礼用と推定される。3・4世紀の日本ではめずらしい。朝鮮半島南部の > 大成洞古墳群に副葬されているような骨鏃がモデルと思われる。纒向からは10本以上がみつかつている。 > 木鏃や土器から、朝鮮南部とのつながりがあったことが分かるが、楽浪郡あたりとの関係がないようだ。 > 大陸系の土器が出てこない。 > 纒向は大陸との交易が終わった邪馬台国時代以後の遺跡ではないか。 > 九州では博多湾での交易が古墳時代の前期まで続いている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%B7%9D%E5%B0%9A%E5%8A%9F > 関川 尚功(せきがわ ひさよし)は日本の考古学者。橿原考古学研究所の所員として纒向遺跡の発掘調査に携わり、 > 石野博信とともに報告書『纒向』を著した。 > 概略 > 1971年(昭和46年)から奈良県立橿原考古学研究所の所員として奈良県桜井市の纒向遺跡の調査に携わった。 > 石野博信とともに報告書『纒向』(1976年)を著したが、とくに外部から搬入された土器の分析と整理は関川がおこない、 > 古墳時代の考古学的な研究において、きわめて重要で画期的な資料となった。 大和王権の航海を安曇氏の変わりに担った宗像氏は 【出雲王国】の6代目王「臣津野(八束水臣津野)」の息子、隠岐の島の吾田片隅を始祖とする ここからも 東征前に奈良にあったのが 出雲を併合した邪馬台国・親魏倭王 ということがわかる
>>89 大和王権の航海を安曇氏の変わりに担った宗像氏は 【出雲王国】の6代目王「臣津野(八束水臣津野)」の息子、隠岐の島の吾田片隅を始祖とする 考古学的に見ても文献的に見ても 大和王権の海人族の最大勢力・出雲王安が伊都王家なのは明白 卑弥呼「…と未来人はたぶん思うじゃん?」 王弟「たしかに!ハッハッハッ」
𐰖𐰆𐰍𐰲𐰃:𐰾𐰃𐰍𐱃𐰲𐰃:𐰇𐰭𐰼𐰃:𐰰𐰇𐰤: 𐱃𐰆𐰍𐰽𐰴𐰑𐰃:𐰋𐰇𐰚𐰲𐰃:𐰲𐰇𐰠𐰏𐰠: 𐱃𐰉𐰍𐰲:𐱅𐰇𐰯𐰇𐱅:𐰯𐰺:𐰯𐰆𐰺𐰢: 𐰶𐰃𐰺𐰴𐰕:𐰇𐰲𐰸𐰆𐰺𐰃𐰴𐰣:𐰆𐱃𐰕𐱃𐱃𐰺: 𐰶𐰃𐱃𐰪:𐱃𐱃𐰉𐰃:𐰉𐰆𐰨𐰀:𐰉𐰆𐰑𐰣:𐰚𐰠𐰯𐰤 :𐰽𐰃𐰍𐱃𐰀𐰢𐰾:𐰖𐰆𐰍𐰞𐰀𐰢𐰾:𐰦𐰍: 𐰚𐰇𐰠𐰏:𐰴𐰍𐰣:𐰼𐰢𐰾: 𐰦𐰀:𐰚𐰃𐰾𐰼𐰀: 𐰃𐰤𐰃𐰾𐰃:𐰴𐰍𐰣:𐰉𐰆𐰞𐰢𐰾:𐰼𐰨: 𐰆𐰍𐰞𐰃𐱃𐰃:𐰴𐰍𐰣:𐰉𐰆𐰞𐰢𐰾:𐰼𐰨:𐰦𐰀: 𐰚𐰃𐰾𐰼𐰀:𐰃𐰤𐰃𐰾𐰃:𐰲𐰃𐰾𐰃𐰤:𐱅𐰏: チーナなんか出てこないんだよなw
>>93 全く意味不明。 東征以前に奈良にあったのは、 ニギハヤヒとナガスネビコの 鳥見族の国だぞ。 >>97 あれ? 支那って国、唐の頃は無かったの?? >>89 大和王権の航海を安曇氏の変わりに担った宗像氏は 【出雲王国】の6代目王「臣津野(八束水臣津野)」の息子、隠岐の島の吾田片隅を始祖とする 考古学的に見ても文献的に見ても 大和王権の海人族の最大勢力・出雲王が伊都王家なのは明白 出雲から隠岐の島、磯竹(イソタケル)島経由で半島に渡るんだから、そりゃあ、『魏志倭人伝』には阿蘇山なんか出てこない おまけに 266年に壱与が、帰国する張政に随行させて 倭の大夫で率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣したとき 西晋(265年 - 316年)の中央官庁に参上し 白珠五千孔、靑大勾珠二枚を、朝貢しているけれど これは出雲の玉造の白めのうと青めのうだし 古代出雲王国の西の端の山口県には、のちに 伊都都比古(いつつひこ)という豪族も現れるし >>97 高句麗滅亡した後なのにBöklüが葬儀に訪れてるし 色々ウソついてね? >>98 つまり、東征前にあったのは、ニギハヤヒの祖母の アマテラスの国 父は伊邪那岐神だけれども、母は???で 漢委奴国王の【正統な後継者】大綿津見神(豊玉彦)により 天之御中主神から始まる九州筑紫城、中国の皇帝が呼ぶところの倭奴國から追い出された 母が誰かがわからない、天照大神、月読命、須佐之男命の一族が邪馬台国連合 神武の東征以前に、 ニギハヤヒが河内を拠点にして、 大和に進出し、一部は長野県安曇野に進出したことが、 記紀や伝承で伝わっている。 近年、長野県安積野から大阪湾型銅戈が見つかった事で、 ニギハヤヒの天孫降臨が大阪湾型銅戈の分布とリンクする、 歴史の事実であることが判明した。 この大阪湾型銅戈が後2世紀の話なので、 神武の東征は2世紀以降の話になるが、 そこから4世紀までに、神武から崇神までの 10代の天皇史を入れ込むのは難しいだろう。
邪馬台国と狗奴国、ヤマト政権と葦原中国、現世と常世 裏が表に表が裏に、倭国大乱から600年、紆余曲折を経て平安が訪れる
>>66 万葉集は万葉仮名遣いの為、漢字はあて字になってる 一つの漢字では表してないよ 倭をやまとと読ませるものや、日本をやまとと読ませるもの、山跡、八間跡など、10種類くらいの書き方がある 古墳時代前期から中期に該当する4〜6世紀には、前方後円墳・箱式石棺や横穴式石室・横穴墓が東北南部にも数多く造営され、北限は岩手県奥州市にまで分布域を広げるようになる。 しかしこれとは別に、東北北部では、土坑墓と考えられる独自の遺構群の存在が確認されている。さらに7〜10世紀には高塚古墳に似て非なる「終末期古墳」が築かれ、北上川流域を主たる分布域とするようになる。 しかし東北北部の土坑墓や終末期古墳では、断片的な骨格の部位が確認されればまだましな方で、土壌中における腐食や盗掘による撹乱あるいは風化によって、人骨が完全に消失しているケースがほとんどである。 実際に保存状態の良好な古人骨が出土するのは、もっぱら東北南部における横穴墓、洞窟遺跡に限られているのが実態である。 顔面平坦度に関する項目を含めた頭蓋計測値18項目に基づいて集団間でペンローズの形態距離を求めると、 宮城県塩竈市清水洞窟や仙台平野熊野堂横穴墓集団などは西日本弥生人・東日本古墳人に類似するが、東日本縄文・北海道アイヌとはまるで正反対の領域に位置づけられる。 東北南部には開拓を期して特に関東を中心とした各地から数多くの移民が入ってきたことが、この墓制が彼らによって導入されたとみてよい。 また、銅鐸の時代編年と分布密度の変遷から、 銅鐸が、大国主の國造の変遷に、 一致することが分かった。 これによると、大国主と大物主との 共同作業による國造が、 後1世紀中期頃の事になり、 崇神纏向王朝の4世紀まで、 出雲大和連合が、 本州を束ねていた事になる。
ミトコンドリアDNA分析の結果 核ゲノム分析の結果 参考文献 JSPS 科研費 26440257 基盤研究 (C)エミシとは誰だったのか―学際的研究で探る東北古代人の人類学的・考古学的実像―(代表:安達登) JSPS 科研費 16K18631 若手研究 (B)古代ゲノム分析による関東古墳時代人の親族関係と遺伝的構造の解明(代表:神澤秀明) Prefecture-level population structure of the Japanese based on SNP genotypes of 11,069 individuals 日本人個人間の遺伝的関係を調べるために、1KGからの11,069人の日本人と103人の漢民族(CHB)の遺伝子型をPCAにかけました。 f2統計に基づくNJツリー(都市部から離れる程、縄文的特徴が表れやすい) 古墳人(こふんじん)とは古墳時代に日本列島に居住していた人々の総称。弥生時代以後にユーラシア大陸東部から渡来して、古墳文化を担った。 在来の縄文人や弥生人と混血し、現日本人を形成していった[1]。 本州の「現代日本人」におけるゲノムにおいては約7割近くを占める[1]。 各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値 (池田次郎・京都大学名誉教授による) +2.12…畿内 +1.47…南近畿 +1.08…四国 +0.76…東中国・西近畿 +0.70…西中国・北東九州 +0.51…関東・南東北 +0.40…北陸 -0.87…南九州・西九州 ※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側 >>97 中国、新羅がいなくて ギリシャがいたの?極東にw 人類学者レヴィンの日本人研究 調査の対象となったのは、日本人男性一万三〇〇人。年齢は一八歳から四九歳までであるが、大多数は二〇歳から四〇歳まで。年齢の平均は二七・八である。 比較的よく地域差傾向を示す例として、顔高の分布がある。これによって、顔高の高い地域が近畿地方から東海をへて関東南部にのびていることがわかる。 ひげの発達度の平均評点の地方差をみてみると、平均評点のいちばん高いのは琉球、いちばん低いのは朝鮮である。それ以外では北海道と九州がやや高く、近畿・中国・四国が比較的低い。 次に蒙古ひだの発達度をみると、ひげの場合とはちょうど反対に琉球でいちばん低く、朝鮮で最高である。のこりの地域では、近畿・中国が高く、次いで関東が比較的高い。 レヴィンはさらに、四七都道府県の相互間について、一二項目の形質により、一種の総合的な距離を求めた。 その結果、まず琉球がほかの地域ととくにへだたっていること、それにやや近いのが鹿児島と宮崎であること、 北海道と青森がひとつの地域群をなすこと、東海から関東にかけての地域が日本人の平均型にいちばん近いこと、 近畿地方では平均的日本人にくらべて短頭、狭鼻に傾き、モンゴルひだが多く、ひげが薄いこと、 四国と山陰の鳥取・島根では、ほかの地域にない独特な形質の組みあわせがみられること、などを明らかにした。
>>107 父は伊邪那岐神だけれども、母は・・・で 天之御中主神から始まる九州筑紫城にはいられず 天照大神は奈良に逐われた ニギハヤヒは、その母が誰だかわからん天照大神の孫なので奈良にいて当然 我らは天磐船で天より降りた天神の御子饒速日命(ニギハヤヒ)に仕えてきた。あなたは天神を名乗り土地を取ろうとされているのか? と、神武を疑う長髄彦に対してニギハヤヒが 天神と人は違うのだと長髄彦を諌めるのも当然 東アジアの遺伝系統ネットワーク ADMIXTUREを用いた解析結果 アジア集団のDNAサンプル地 アジア集団の遺伝系統樹 北京--韓国--愛媛県--兵庫県尼崎市--愛知県北名古屋市--日本人--東京都--岩手県花巻市大迫町--島根県--沖縄県・福岡県 当時、倭や日本をヤマトと読んだかどうかはわからない。 平安時代の記紀の脚注で 倭をヤマトと読む也、とわざわざ出てくるから 書かないと、普通はヤマトとは読まなかったということ
EIGENSOFT分析 各遺伝子クラスターにおける主成分値の分布(左が縄文側、右が大陸側) Midland(岩手県花巻市、東京都、愛知県北名古屋市、兵庫県尼崎市)n=840 Fukuoka(福岡県)n=197 Ehime(愛媛県)n=158 Shimane1(島根県大田市)n=77 Shimane2(島根県出雲市)n=82 Ryukyu(沖縄県)n=184 日本人集団の微細な遺伝的構造と進化 竹内文彦(京都大学)、勝谷友宏(大阪大学)、木村亮介(琉球大学)、並河徹(島根大学)、磯村実(島根大学)、大久保孝義(東北大学)、田原康玄(京都大学)、山本健(九州大学)、横田充弘(名古屋大学)、加藤規弘(国立国際医療研究センター) 主成分分析による比較結果 『地域別に見たる外鼻,顔面並に頭部形態の変化 及びそれらと鼻中隔畸形との関係』若盛宗雄 戦前長谷部,松村氏等により日本における全国的調査が行われ,戦後にも生体測定班により大規模な全国的研究が行われて,日本人の地方的差異は漸時明らかになりつつある, 地域的差異についての原因の詳細は不明であるが,鈴木教授は「恐らく遺伝因子に基ずく真の地方差のほか,他の因子即ち広義の環境の影響も加わって甚だ複雑な理由によるものと思われる」と述べている. 附田氏は20~60才の成人について北海道を除き全国各地を調査し,都市人がより広頭かつ短頭で高頭であること,これに対し農村漁村民がより長頭かつ狭頭で低頭であることを明らかにし, 又,古くから文化の中心地であり先進的地方であった近畿人が最も広頭短頭高頭であるのに対し,これと遠隔にありかつ文化的に後進的地域であった東北九州北陸地方人がより長頭狭頭低頭であることは, 正しく頭部形質が文化度と密接な関係にあることを物語るものであると報告している. 私の成績では何れも都会は農村より一定の有意性を以て短頭であり上記成績と一致する. 近畿地方人は,頭長短く,頭幅並びに頭高大にして,最も短頭且つ高頭型を示し,これを遠ざかる東北,北陸,九州地方人は比較して長頭且つ低頭である. その中聞に位置する中国,四国,関東地方人は,頭径においても,その中間を占め,比較的短頭型に属する. これらを10年乃至20年前の先人の成績に比較すると,その間多少の異変はあるが.頭長において約1.5mm内外の短縮が認められ,頭幅,頭高においては若干の伸長はあるが大差がない. 対馬島民の頭形は島村漁民でありながら町型に類似しており,九州地方に近接していながら,近畿地方人に近似した頭型を示している.これは特異な現象で所謂,種族差を表示せるものと認められる.
>>115 これ、どうやって辻褄合わせたらいいんだ?? 新羅👈ギリシャ?! 頭長幅示数平均 80.37 九州 80.48 東北 80.61 北陸 81.28 関東 81.39 中・四国 81.94 対馬島 82.48 近畿 頭長耳高示数平均 65.81 北陸 66.70 九州 66.83 東北 67.07 関東 68.10 中・四国 68.12 対馬島 69.38 近畿 調査集団及人数の分類 東北8,086、北陸1,824、関東3,852、近畿10,917、中・四国10,017、九州9,437、対馬1,592、総計45,725 倭人伝はページ稼ぎのフィクションと思っておる(´ω`)
>>92 纒向編年の関川が担当した部分はお粗末すぎて全部やり直しになってる件