東京新聞デジタル
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2025年1月3日 16時00分
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〈追い詰められて 20歳女性の「東京入管収容所日記」〉②
東京出入国在留管理局(東京入管)に3カ月にわたって収容されたブラジル国籍のミサキ(20)=仮名=が、2024年11月8日に強制送還された。支援者に託した日記には、厳しい収容所生活に追い詰められていく様子がつづられていた。日本への好感を打ち砕いた入管行政は、これで良かったのだろうか。(池尾伸一)
ブラジルの施設で孤児として育ったミサキは、日系人夫婦の養子になり、12歳だった2016年に一家で来日。在留資格は「留学」で、高校を卒業したものの、夫婦には実子がいるため疎遠になり、専門学校在学中にうつ病も発症。学校の出席日数が足りずに退学となり、在留資格を失い2024年8月に東京入管に収容され、11月8日に強制送還された。
◆最後の日
〈あと1日だけだ。自分の国にはなにもないけど入管か自分の国かでえらぶとしたら100%自分の国にいきたい〉(11月7日)
※日記からの引用は、読みやすくするため誤用や仮名遣いを修正している場合があります。
日本に残りたいと思っていたはずのミサキだったが、ブラジルに強制帰国させられる日の前日の日記には、そう書いた。厳しい東京入管の生活には、一日たりとも耐えられなくなっていた。
12歳で養父母に連れられて来日した時は、希望に満ちていた。
「何でもできる国じゃないか」。胸をふくらませた。
◆1人ずつ引き取られ
幼い頃、ミサキはブラジル内陸部のマットグロッソ・ド・スル州のある街で7人のきょうだいたちと路上で生活していた。
橋の下で寝泊まりし、空き缶や段ボールを集めて生活費を稼いでいた。10歳以上年上の兄が父親代わりでいろいろ面倒をみてくれた。弟や妹も計3人。力を合わせて生活していた。
父親と母親は育児放棄し、ほとんど姿を現さない。後に「薬物中毒」だったと聞いた。
はたから見れば悲惨な暮らしのはずだが、ミサキは「あの頃は幸せだった」と振り返る。「本当の家族と力を合わせて生活していたから。大変だけど、大変じゃなかった」
しかし、6歳だったころ、どうしても食べ物がなくなり、2歳下の弟とともに、街の大人たちに「食べ物をください」と頼みに行った。
食べ物をくれ、シャワーも浴びさせてくれたが、警察に通報された。これをきっかけに、ほかのきょうだいとともに児童養護施設で暮らすことになった。
いやだったのは、仲良かったきょうだいたちが1人ずつ養父母たちに引き取られていったことだった。
「あの子は、いいパパとママのもとで幸せにくらすのよ。喜ばないと」
施設の人に言われた。だが、きょうだいがいなくなるたびに、さみしくつらい思いをした。
◆希望を胸に
最後まで施設に残っていたのはミサキだったが、9歳になったとき、日系人の夫婦がミサキを引き取ってくれる話が決まった。
少しだけ年上の実子の女児がおり、その子の「妹」として育てられることになった。
そして、12歳で、日系人の養父母と一緒に日本に行くことになった。
養父が日本で仕事を見つけたのだ。
日本は海外から受け入れる労働者は、専門技術や知識がある人や、期限が切られた「技能実習生」などしか認めていない。ただ、かつてブラジルやペルーに移民した人の子孫である日系2世、3世については就労制限のない「定住者」として日本で暮らせることになっている。
養父母はこの特例で「定住者」として日本に渡った。
しかし、ミサキの在留資格は、不安定な「留学」だった。
入管行政に詳しい丸山由紀弁護士によると、日系人の2世、3世が「定住者」として来日する場合、法務省の告示により実の子供は同じく定住者として認められるが、血縁のない養子は6歳未満の幼い子でない限りは「定住者」の資格は認めない規定がある。「血縁のない養子について厳しいルール」(同弁護士)だ。
◆必死で勉強
それでも、ミサキはうれしかった。
自分の可能性が、先進国である日本で一気に広がるように思った。「ポルトガル語しかしゃべれないけど、日本語をがんばって身に付けよう」と意気込んだ。
四国の中学校で2年生に編入された。
言葉も勉強も難しかった。
孤児だったミサキが学校に通い始めたのは、施設に入った9歳から。学力にも大きなハンディキャップがあった。
いじめもあった。肌の黒さをからかわれ、仲間外れにされた。
しかし、必死で日本語を勉強し、友達もできた。日本の食べ物も好きになった。肉じゃがやすしが大好物に。やがて「すてきな国だな」と思うようになった。
(略)
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