紙おむつは、生理用ナプキンの技術を活かして開発されたのだが、ナプキンもかつては下水道に流すことができた。そもそも1961年に発売された世界初の生理用ナプキンである「アンネナプキン」は、「トイレに流せる」という点を重視して開発されたのである。
日本で水洗トイレが普及し始めたのは、1950年代のことである。都市の住宅難を解消するため1955年に日本住宅公団が設立され、各地に大規模団地が建設されるようになった。団地に標準装備されたのが、水洗トイレとダイニングキッチンだった。また、大都市の企業や公共施設でもトイレの水洗化が進んでいた。
当時、女性たちは生理用品として脱脂綿を使用しており、使用後は便器(汲み取り式)の中に捨てていた。しかし水洗トイレで同じことをするとすぐに詰まってしまう。そこで便器の中に金網をつけるといった提案がされるようになったのだが、アンネナプキンの産みの親である坂井泰子さんは、トイレに流せる生理用品を作ればいいと考えたのである。
坂井さんがナプキンを製造販売するために立ち上げたアンネ社で、PR課長を務めた渡紀彦さんも、水洗トイレに流せる生理用品に拘った。
彼は生理用品の研究と称し、女性用トイレに忍び込んで「汚物入れ」の中から使用済み脱脂綿を拾い集めていたが、それを初めて見たときの衝撃を著書『アンネ課長』(日本事務能率協会)にこう記している。
あけた! 見た! あった! だがそれは、むごたらしく、乱雑に、吐き捨てるように投げ込まれた、女性の恥部の乱舞であった。それは、悲惨でみじめで虚無的であり、残酷でさえある。いいようのない女性の業の集積である。
私がかすかに想像した白地に赤点などとは思いもよらぬ、異様な臭気につつまれた女性のぬけがら、残骸である。もはやここには社会生活のルールも秩序も自律も他律もない、無国籍者の無法地帯である。すべてのバランスを崩した生活の醜悪な構図であった。
それは無造作に、呪われたもののごとく、怒りをさえこめて投げこまれた、山のような残骸であった。それは、赤い色でもなく、黒色でもない、名状しがたい何ものかである。女性の最後の抵抗でもあったのか?
渡課長は、マッチ棒とトイレットペーパーを使って、「いちばん代表的なものを二つばかり」取りだすと、その回りに「トイレットペーパーを五〇メートルほど」ぐるぐると巻いて持ち帰った。
私は、会社にかけこむなり、そこに居合わせた全社員に向かって、「おい、見ろよ」とグルグルとまかれた獲物をほどいてみせた。
皆、好奇心から遠巻きに寄ってくる。だんだんけまりのほどけていくように中身が現れたとき、おそるおそる覗きこんでいた連中も、いっせいに異様な嘆声を上げて目をそむけてしまった。それほど、このものズバリは凄惨で、強烈であった。誰一人、間近に寄ってくるものはいない。
見るのではなかったというように散っていこうとする連中の背中に、私は浴びせるように叫んだ。
「こんなに、みじめなことを女はしているんだ! 絶対、水洗トイレに流せるものを、われわれは作らなければいかん。技術課の連中をすぐ呼んでくれ」
渡課長は、使用済み脱脂綿の「凄惨」さにショックを受け、それを残さないことが重要だと考えたのである。「みじめなこと」をしている女たちに同情した彼の“騎士道精神”は遺憾なく発揮され、ナプキンの製品化は一気に進んだ。
完成したアンネナプキンは、トイレに流すことができるように紙綿(紙に特殊なシワ加工を施して水分を吸収しやすくしたもの)で作られ、広告でも「水に流せる小さな下着」というキャッチコピーが使われた。
続く
以下ソース
http://wezz-y.com/archives/52430
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