「日本人のここが変」を問うような企画は、本当は大嫌いなんです。いつから日本人は、外からどのように見られているかを気にするようになったのでしょうか。
かえって過剰な承認欲求を感じます。私の専門である江戸・明治時代の文学にはほとんど出てこない考え方です。
ここに通じるのが「空気を読む」です。イメージするのは、お吸い物に浮かぶジュンサイ。
ジュンサイは透明の膜に覆われている。この膜が「世間」であり、ぶつかりながらもお互い傷つけ合わないようにお椀という狭い世界の中でたゆたっている。
一つの標準化された価値に対し、みんなで歩調を合わせることが求められる。これが現代の「空気」なのです。
江戸、明治時代では違う意味合いを持っていました。当時、儒者は塾生たちとよく外に出かけ、高い山に登り、空を眺めた。
そこには空気の「気」でできた雲が浮かんでいます。雲は自在に変化する。
それを見て塾生たちは自在に想像力を働かせ、自由に文章を綴りました。
雲を突き詰めて考えるとどういう形か。雲の中には雲散霧消するものもあれば、恵みの雨をもたらせてくれるものもある。
それをどう見極めればいいか。そこには正解も間違いもなく、自由な意見の交流がありました。
「あれは変だよね」「普通じゃないよね」とだれかが口にし、周囲がどっと笑うシーンをよく見かけます。
その輪に入っていると居心地が良いでしょうが、外から見るとそうではありません。普通って一体なんなのでしょうか?
みんなが共有している規範を身につけつつ、「普通」とされることをそのまま受け止めず、斜め45度くらいから眺める。これが現代の日本人には必要だと思います。
ただし、相手の「普通」と自分の「普通」がぶつかり合っても、どうにもならない。私の提案ですが、「迎え読み」はどうでしょう?
相手の立場でその「普通」がどう生じたのか、掘り下げて考えていくのです。
人はそれぞれの世界観を持っています。それは海の波打ち際のようなもの。砂を蹴散らかして相手の領域に無理やり侵入するのではなく、
波打ち際を崩さないように桟橋を一本かけたり、潮が引くのを待てば、違う世界との融合が成り立ちます。
大きい波が来るかもしれません。それに応えたり、避けたりする弾力性のある強さを身につける。
「空気を読む」日本人の中で、それが自分を救ってくれるのではないでしょうか。(構成・ライター/羽根田真智)
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