女性性市場批判 - 生きるための思想
http://nagne929.hatenablog.com/entry/2018/06/18/210124
ポルノなどの性表現は女性の猥褻化である。公共空間において女性を猥褻化すれば、それは女性に対する敵対行為であり差別行為である。
つまり、女性に対する侮辱でありセクハラである。
フェミニストのマッキノン、ドゥオーキンらは、「ポルノを女性全体への侮辱であり、脅迫であり、支配であり、すなわち女性差別行為そのものである」と述べている(p.196-197)。
ポルノなど性商品に対して、「空想だからよいではないか」という説があるが、女性を陵辱する言説や行為が空想にとどまり個人の内面において完結するだけでなく、それらが市場化され公然となることが問題である。
「性は解放されており、猥褻を公然化してはいけないという性道徳など無くなっている」と、「非公然性の原則」の性道徳を「頭の固いPTAのおばさんの言うこと」とあしらわれるが、
ポルノなどの性商品が猥褻たり得るのは性行為や性表現が猥褻であるという性道徳があるからである。
つまり、性商品の猥褻性は現行の性道徳によって成り立っており、「性の商品化」肯定論者は私たちのもつ性道徳を否定することはできないのである。
よって、性の商品化(市場になり公然化されること)は私たちの性道徳に反するからダメであるという明快な結論が出る。
道徳はそれ以上さかのぼることができない最終根拠=公理である。
道徳には根拠がないと言われるが、どんな命題でも最終的な根拠はない。
道徳は無根拠で可変なものである。
無根拠ゆえに、常に「何が正しいか」が言い争われる。
今のところ、売買春やポルノなどは「非公然性の原則」に照らし合わせると、道徳的に「悪」となる。
大っぴらに取引がなされていないことが不道徳なものと考えられている証左である。
これが、現代において私たちが採用している道徳であり、この道徳を守るためにも性の商品化を公然と認めることはできないという結論が導かれる。
女性性市場が公然化すると、すべての女性は「性的魅力」という財をもつことになる。
本人が売る気がなくても、勝手に価格がついてしまう。
私たちは所有する財を取引する自由をもっている。
しかし、その財を売る意思がなくても、その財の市場が成立したとたんに、その財は無条件に「価格付け」がなされ値踏みされることになる。
女性性市場が成立したとたん、すべての女性は「女性性」という財の所有者となる。
つまり市場が成立した瞬間に、すべての女性は「自分の性的サービス」の所有者となり、それを処分する権利と管理する義務を負うことになる(p.145)。
事実として取引されなかったとしても、それらには潜在的に価格がついているのである。
そういう意味でならば、この市場が成立している限り、すべての女性は潜在的に売春婦である(p.145)。
女性性市場には、売春行為など風俗がになう「下級財」から、ミスコンなど観賞用としての「上級財」まである。
直接、性を売るのではないミスコンやアイドルや女優などの「上級財」女性性市場も批判されるべきだと私は考える。
これらは、「性的魅力」のメルクマールとなり、女性性市場を補強する。
一般的な労働において、女性の美醜や性的魅力を採用基準として公然と掲げている企業はないだろう。
それは、女性性が売り物でないことが建前とされているからである。
つまり、女性性市場は公然化されていない。
それが、現代において私たちが採用している性道徳である。
しかし、女性性市場が成立している場合、企業が女性の美醜や性的魅力を採用基準に堂々と掲げることになる。
その場合、自らの女性性を売り物にしたくない女性にも無理やり女性性を売ることを強いることになる。
このように、女性性市場が公然化されると、不都合を被る人々があらわれる。
全ての女性がその女性性を値踏みされることが公然化され、女性性を取引の財としたくない女性も女性性を売ることを強制される。
これは、私たちが採用している性道徳に反する。
性道徳に反する取引がおこなわれる市場は公然化されるべきでないとう結論がえられる。