●1回目。
20歳。昭和4年(1929年)12月10日夜半、弘前高校3年時のこと。
下宿でカルチモンを嚥下する。
翌日夕方まで昏睡状態になった。時は「地主一代」第1回分を執筆後のこと。
●2回目の自殺。
21歳だ。
昭和5年(1930年)11月28日夜。広島出身銀座バーホリウッドの女給田部あつみと鎌倉の海岸で心中。
太宰一人だけ7ヶ浜恵風園療養所に収容。田部はすでに絶命。ときは、津島家から分家除籍された直後。
●3回目の自殺。
26歳。昭和10年(1935年)3月16日。太宰は鎌倉に訪問(深田久弥)。鎌倉八幡宮でその夜、裏山で縊死をはかる。
だがしかし、紐が切れて未遂。時は、東京帝国大落第、新聞採用試験失敗のあと。
●4回目の自殺のこと。
29歳。昭和12年(1937年)3月20日。前年(1936年)にパビナ−ル中毒のため武蔵野病院に入院中、
妻が親戚の美校生と間違いをおこしていたことに衝撃をうける。妻初代とともに谷川岳山麓でカルチモン心中自殺。未遂に終わる。
●5回目の自殺。
見事、完遂。38歳のこと。
昭和23年(1948年)6月13日深夜から明暁まで普段着の軽装で山崎富栄とともに下宿(富栄)を出て、服毒。玉川上水に入水。
遺体発見は6月19日早朝(6日後)。6月19日は太宰治の誕生日であった。
戦争も行かず作文書いて芸者遊びで自殺って完全に甘え
初志貫徹は立派。自殺未遂繰り返しモメンは参考にするように
これ自殺じゃなくて富栄による無理心中だからね
ボーダーの太宰がいつもの調子で「一緒に死のう(死ぬ気はない)」って言ったら
ガチメンヘラの富栄が真に受けて太宰殺して一緒に川に飛び込んだ
絶縁したのに共産党のシンパ活動の勧誘が何度も来るので自殺騒動起こして有耶無耶にしてきただけなんだが
国語教育学の太田正夫先生が散歩中に玉川上水で入水した太宰治の履き物を目撃していた
当日の警察発表と場所がズレていたので警察に駆け込んで事情を説明して情報を訂正させたよ
その縁で三鷹市が玉川上水畔を「ロマンス街道」と命名させたときに先生は住民運動起こして「桜桃通り」と改めさせた
芥川龍之介芥川龍之介芥川龍之介芥川龍之介芥川龍之介芥川龍之介芥川龍之介芥川龍之介芥川龍之介
太宰の周囲の人間は太宰は死ぬ気なんて全く無かったと言っている
今日桜桃忌なのか
たしか太宰の誕生日も近かったよね
正直、昭和期の作家の中で文体が一番今のラノベ作家に近い
心中未遂で度々注目されて味をしめて
また未遂で注目集めようとしたら
間違って成功してしまった例
伊藤潤二でみた
潤二は美少女だけでなく色男を描くのもうまいなあ
今の玉川上水は膝を擦りむくくらいの水量しかないけどな
471 名前:サキオタ ◆SAKIxpI.9k [] 投稿日:2014/06/21(土) 00:39:36.85 ID:KIRCyG+50
嫌儲民はバカだから、バカでも分かるように書いて、煽るように書かないと食いつかないからな(´・ω・`)
ニュースの見出しそのまま書くと、全然伸びないこともある
そういう場合は、バカに分かるように、バカが過剰に反応するように書いてあげるんだ
玉川上水で入水したところに石が置かれていて、ポケモンのジムになっている
散々未遂してるしそれネタにしてたから自殺志願者が集まってきてたんじゃないの?
それにつき合わされたのかもな