後回しにされる「差別」 トランスジェンダーを加害者扱いする「想像的逆転」に抗して - wezzy|ウェジー
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ここで私が思い起こすのは、田中玲の論考「クィアと「優先順位」の問題」[14]である。
2007年の日本女性学会で、FTXトランスジェンダーの田中はシンポジストとして自身のドメスティック・バイオレンスの被害について報告した。
「トランスジェンダー・フェミニズム」を提唱した田中にとって、その場は残念ながら、トランスジェンダーとフェミニズムの「不幸な出会い」になってしまった。
そこで田中は聴衆の女性(おそらくは、ヘテロセクシュアルでシスジェンダーの)から、「優先順位が違う」という言葉を投げつけられたのである。
あるトランスジェンダーのDV被害は、ヘテロセクシュアルでシスジェンダーの女性のDV被害よりも「優先順位が低い」とみなされたのだ。
だが、果たして、差別や暴力に「優先順位」など存在するのか。
「後回しにされていい差別」など存在するのか。
誰かの「安全」のために犠牲にされていい差別や暴力など、存在するのか。
吉原令子はアメリカ合衆国におけるフェミニズム運動について考察した著作で、
「一九六〇年代に台頭した女性解放運動は、「女」という同一性を基盤としていたことは言うまでもない。
しかし、運動の担い手であった中産階級の白人女性が「女」という同一性を強調すればするほど、運動内に存在する女の差異が蔑ろにされた。
レズビアンや有色人種の女性、労働者階級の女性から、「女」というカテゴリーそれ自体への問いかけが、一九六〇年代後半に早くも運動内で噴出」[15]したと述べている。
このように、すでに運動の初期から「女」の内部の「女たち」の差異が問われるようになったのであり、第二波フェミニズムの歴史が私たちに教示するのは「性差別と闘う時、その抑圧の複雑性・重複性・同時性を考え」[16]ることの大切さである。
日本のフェミニズム運動にしても、例えば在日朝鮮人やレズビアンの立場から「女たち」の差異が問われ、その「共闘」が模索されてきた歴史がある。
あえて言えば、私にとってのフェミニズムとはつねに「ともにあるためのフェミニズム」である。
フェミニズムこそ、「私たち」が「ともにある」ことを模索してきた/いる思想であり運動ではないのか。
マイノリティ間の連帯はいつの世も難しい課題である。
だが、それにもかかわらず、「ともにある」ことを諦めず、模索してきたのがフェミニズムではなかったか。
最後に、先に言及した論考「クィアと「優先順位」の問題」で田中がその結論部で述べた以下の言葉を引用して、本稿を閉じることにしたい。
今までずっと、私はいろんな側面でヘテロセクシュアル・フェミニストの人たちとも繋がれると思って来た。
そう、私たちにとっての「敵」とはお互いではないはずだ。
私たちがそれぞれ属しているカテゴリーが大きかろうが小さかろうがどんな種類のものだろうが、現在の社会の中の性別二元制への疑いのない信仰と、ミソジニー(女性蔑視)、ヘテロセクシズム(異性愛至上主義)、その権力志向が私たちを抑圧する。
お互い共感するところがあったり、歩み寄ろうとしても、まだまだお互いの間のハードルは高く、問題は山積みだ。
理解しあうためには恐らくもっともっと話し合いをたくさん重ねなければならない。[18]