「男女平等推進に貢献」フィンランドが上野千鶴子さん表彰 (2019年6月17日) - エキサイトニュース
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「そこに自分のこぶしを入れてみたりしたが、少しも痛くも気持ちよくもないので、一体なんだ、これは、と思ったりしたものだ。
あなたはあきれ返るかもしれないけれど、荘子や古事記を読む程度に教養のある娘が、自分の性器がどこにあるかも知らなかったのだ。
中産階級の子弟が、つけのいい家庭でコミュニティから切れて育てば、このくらいの情報の隔離はふつうだ。
あとになってわたしが自分に十穴めの穴があることを発見したと時 ー 最初の性交はほんとにスッポンと穴を開けてもらった感じだった − わたしはその穴の存在に夢中になった。
そしてそんなに遅くまで十穴めの存在を知らなかったことが口惜しくて、もっと早くに<貫通>しておくべきだったと悔いたものだ」
「わたしは良家の子女(!)だったから、思春期にひそひそ話や意味ありげなくすくす笑いとともに性情報が伝わる悪ガキ集団から、隔離されて育った。
大きくなってから、おまんこというコトバを覚えたが、それはカントという英語や、ヴァギナというラテン語や、またはボボという九州方言と同じくらい、わたしには「外国語」だったから、
カントと聞いてもちっとも顔が赤らまないのと同じ程度に、おまんこと言っても解剖学用語のようにしか響かないのだった。
ちょうど性に目覚める頃、自分のうつぼつたる生理感覚や、周囲の反応で直観的にそれがタブーだとわかってしまうような禁止の感覚と、おまんこという四文字コトバがふつうなら結びつくところが、その連想がうまく形成されなかったのだろうと思う。
おまんこ、というコトバを覚えてからのわたしが、おまんこ、と口にしてみると、周囲の狼狽ぶりや眉のひそめようがおもしろくて、それからというもの、おまんこというコトバは、他人がイヤがる反応を引き出すための、マジック・ワードになった。
知り合いの六歳のコドモが、チンチン、と言うと母親がイヤな顔をするもので、ただ母親の反応を引き出したいためにだけ面白がってくり返しチンチン! と叫ぶのに、それは似ていた。
母親がなぜイヤな顔をしたり、やめなさい、と怒ったりするのかよくわからないけれども、この魔法のコトバは、そのつど確実に母親の反応を機械的にひきおこすものだから、コドモはその呪文の威力をくり返したしかめては喜んだ。
そして、その呪文の威力をつうじて、母親に力を行使できる自分をたのしんでいるふしがあった。
コドモは母親以外にも呪文の威力がためしたくて、出会う大人にのべつくまなしにチンチン! とやっては、母親のヒンシュクを買った。
わたしはこのコドモのオバである。
このコドモが一二歳になった頃、チンポのケが生えてきた、と言う。
この年齢までに、コドモはさすがに、チンポのケ、と叫んで大はしゃぎするほどのコドモらしさを失なっていた。
わたしがチンポのケ! と叫ぶとコドモはオバに呼応してくれなくなって、それどころか恥ずかしがって顔をそむけた。
オバはますますチンポのケ、と言いつのり、チンポのケを一本くれたらお年玉をはずむのになあ、とコドモをからかうが、コドモはもう一緒にはしゃいでくれない。
コドモは性の情報をどこからか身につけてオトナの世界に行ってしまったのだろうか、とオバは遊び相手を失ったさびしさで、もう一度だけ、チンポのケ、とつぶやいてみる。
おまんこ、というコトバを口にしたり、おまんこについて語ったりする時のわたしは、チンチン! と叫ぶときの六歳のコドモのようなところがある。
すまし顔のオトナがとつぜんやーねと顔をしかめるのがうれしくて、ただそれだけの反応をひき出すおもしろさに夢中になっているところがある。
こんな楽しみはたあいのないもので、相手が反応しなくなったら、おしまいである。
動かなくなったおもちゃを捨てるように、わたしはおまんこというコトバをあっさり捨てるだろう。
逆に言えば、周囲が眉をひそめつづける間は、おまんこと言いつづけるだろう…。」