白豪主義とアボリジニの悲劇
1803年にはタスマニアへの植民が始まる。
入植当時3,000〜7,000人の人口であったが、1830年までには約300人にまで減少した。
虐殺の手段は、同じくスポーツハンティングや毒殺、組織的なアボリジニー襲撃隊も編成されたという。
数千の集団を離島に置き去りにして餓死させたり、水場に毒を流したりするといったことなども行われた。
また、1828年には開拓地に入り込むアボリジニを、イギリス人兵士が自由に捕獲・殺害する権利を与える法律が施行された。
捕らえられたアボリジニたちは、ブルニー島のキャンプに収容され、食糧事情が悪かったことや病気が流行したことから、多くの死者が出た。
これによりアボリジニ人口は90%以上減少し、ヴィクトリアとニューサウスウェールズのアボリジナルの人口は、10分の1以下になった。
さらに1876年には、タスマニア・アボリジナル最後の生存者である女性のトルガニニが死亡して、多い時期で約3万7千人ほどいた純血のタスマニアン・アボリジニが絶滅した。
特に東海岸沿岸部等の植物相の豊かな地域に居住していたアボリジニは、当初はイギリス移民との平和関係を保っていたものの、後の保護政策に名を借りた強制的な移住もあり、この入植者たちによるハンティングという惨劇を語り継ぐ者をも残さず姿を消している。
20世紀前半には、アボリジナルは絶滅寸前の人種(死にゆく人種、死にゆく民族)として分類されるようになる。
この死に行く民族という規定は、1937年まで続く。
死に行く民族という規定が廃止されると、今度は積極的に白人社会に同化させる方針が強化される。
イギリス人らの入植開始当初は50万-100万人いたアボリジナル人口は、1920年頃には約7万人にまで減少していた。
同1920年、時のオーストラリア政府は先住民族の保護政策を始め、彼らを白人の影響の濃い地域から外れた保護区域に移住させたが、これはむしろ人種隔離政策的な性質があったようである。
元々オーストラリアに移住した白人は、犯罪者が大半を占めていた。
そして、徹底的な人種差別政策、いわゆる白豪主義をもって、移民の制限及びアボリジニへの弾圧政策を続けた。
また、1869年から公式的には1969年までの間、アボリジニの子供や混血児(ハーフ・カーストと呼ばれ売春婦として利用されることがあった)を親元から引き離し白人家庭や寄宿舎で養育するという政策が行なわれた。
様々な州法などにより、アボリジニの親権はことごとく否定され、アボリジニの子供も「進んだ文化」の元で立派に育てられるべきという考え方に基づくものと建前上は定義されていたが、実際はアボリジニの文化を絶やしアボリジニの存在自体を消滅させるのが目的であった。
政府や教会が主導して行なわれたこの政策で子供のおよそ1割が連れ去られ、彼らの行き先は実際には白人家庭でも寄宿舎でもなく、強制収容所や孤児院などの隔離施設であった。
そして、隔離施設から保護を放棄されたり、虐待を受けたり、遺棄された者も少なくはなかった。
結果として彼らからアボリジニとしてのアイデンティティを喪失させることとなった。
彼らは"Stolen Generation"(盗まれた世代)、または"Stolen Children" (盗まれた子供たち)と呼ばれている。
なお、「盗まれた世代」の政策が実際に徹底されて行われていたか、またどの程度の規模だったのかは、いまだにわかっていない。
1920年から1930年の間だけで、混血も含む10万人のアボリジニの児童が親元から引き離されて、故郷から数百キロ、時に千キロ以上も離れた、監獄とも言える劣悪な強制収容所に送り込まれた。
無論、アボリジニも全くの無抵抗だったわけではなかった。
これらの政策に対してのデモや暴動を起こすものも少なくなかったが、結果としては白人たちの敵愾心を煽るにとどまった。
逮捕者の中には、まともな裁判を受けることなく、そのまま死刑に処せられた者もいたほどである。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/アボリジニ