大阪が「在日の首都」と呼ばれた歴史的ルーツ
「大阪は在日の首都である」──。そう表現したのは、かつて「戦後最大のフィクサー」と呼ばれた許永中だ。イトマン事件や石橋産業事件で逮捕された彼は、在日韓国人2世として大阪の中津に生まれ、この街をホームグラウンドにした。
全国の在日韓国・朝鮮人50万人のうち、大阪府には最も多い10万5000人あまりが暮らす(2018年末)。日本国籍を取得した在日も少なくないため、実際にははるかに多い数の人々が朝鮮半島にルーツを持つと見られる。大阪市立大学教授で在日韓国人3世の朴一氏が、在日が大阪に集まった歴史的経緯を解説する。
「江戸時代から商業の中心地だった大阪は、大正時代には『東洋のマンチェスター』と呼ばれるアジア随一の商工業都市となり、朝鮮半島からも労働者が押し寄せた。とりわけ、朝鮮半島が日本の植民地支配下にあった1922年に大阪と済州島をつなぐ定期航路が開かれると、その流れが一気に加速しました」
当時、済州島は「風と石だけ」と言われるほど痩せた土地で、多くの人がこの船に乗って日本に渡ったとされる。慶尚南道など朝鮮半島本土からの移民も急増。1928年に3万5000人だった大阪市の朝鮮半島出身者の人口は、1935年に15万人、1942年に31万人と終戦まで膨らみ続けた。
1940年に日本が行なった国勢調査によると、朝鮮半島ではソウルに次ぐ都市だった平壌が28万人、釜山が24万人。いかに多くの朝鮮半島出身者が大阪で生活していたか分かる。なかでもその多くが住みついたのが、東成区から生野区にかけての猪飼野地区だった。
「当時、この地区には地場産業として零細ゴム工場がたくさんあり、日本人に比べて賃金の安い朝鮮人は歓迎されました。ゴム工場で働く男子従業員の94%が朝鮮人だったという記録もあります」(朴教授)
その多くは低賃金、長時間労働に苦しめられ、梁石日の小説『血と骨』さながらの壮絶な生き様を余儀なくされた。終戦後の混乱期には、猪飼野のそばの鶴橋に闇市が形成され、朝鮮人たちが次々に軒を構えるようになる。これが現在、国内外の観光客が集う鶴橋のコリアンタウンや国際市場のルーツとされる。
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