このあいだ東浩紀さんの問題について投稿したら一部から「オワコンなのに今更」という声をいただいた。影響力を過小評価している。2010年代半ばあるメディアで文系アラフォー以下の記者がだいたい読んでて読者に勧めてもいた。おかしさに気づいていた人がおかしいと言ってこなかったからでは。
また東浩紀さんの論理的一貫性を擁護していた一部の人びとは、彼が何を言っているかだけを考え、その発言により何をしているかを見ない。彼は安倍晋三が殺されたことを疑わないが、統一教会がカルトであるかどうかは判断しない。同じ伝聞情報に基づくにもかかわらず判断中止の対象を明白に選択している
死や他殺の定義については常識があり知見が積み重ねられている。破壊的カルト集団の定義はそれほどではないがやはり知見の積み重ねがあり知識人には常識として広まっている部分もある。なのに彼は伝聞に基づいて安倍晋三が殺された事実は疑わないが統一教会がカルトである事実は解釈問題まで引き戻す
政治的強者が歴史的事実に反して自らに都合のいい解釈を採用し、SNSを含むメディアを丸め込んでそれを広めていくとき、もしも批評家が力の差を無視して単に「解釈の多様性」を唱えるだけにとどまるのなら、それは政治的弱者の解釈を擁護するよりもむしろ政治的強者の解釈とふるまいを是認してしまう。
東浩紀さんはこうしてある特定のテーマについては単に積極的に判断をやめることで右派ポピュリストや宗教右派を敵に回さないという選択をし続け、他方で左派の言動はときに妄想ともいえるレベルに踏み込んで判断と批判を続けてきた。そこにイデオロギー的偏向を見出さない読者はどうかしている。
批評家の使命とは言うまでもなく批判することにあり、批判の批判性は事実の中のいかなる解釈によっても変更不可能な部分それ自体からもたらされるからには、批評家は(たとえ脱構築的手法を用いるとしても)そこを忘れてはならないのではないだろうか
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