基調講演で同センターの寺沢薫所長は、中国の史書「魏志倭人伝」の記述を踏まえ、共立の時期や共立前夜の状況など様々な問題点があると指摘。「3世紀の卑弥呼共立は、明治維新と同じ重大な事件だった」としたうえで、「纒向遺跡は大和王権の最初の王宮が造られた場所で、纒向遺跡の重要性は明らかだ」と強調した。
その後、寺沢所長と俳優で考古学研究者の苅谷俊介さん、禰宜田佳男・大阪府立弥生文化博物館長、渡辺義浩・早稲田大教授(中国古代史)が、関口和哉・読売新聞橿原支局長の司会で議論。苅谷さんは卑弥呼を補佐した「男弟」に注目し、「人数は書いていないが、国政を補佐する男弟が複数人いたのではないか」と推察した。
禰宜田館長は弥生時代後期の畿内地域の状況について「直接的に評価できる考古学的な物証は少ないが、鉄器や青銅器は瀬戸内海を通じて畿内にもたらされ、その中で吉備地域の政治勢力と連携し、大和王権が出現した」などと説明した。
また渡辺教授は、中国の史書「三国志」について紹介。「共立とは、卑弥呼が邪馬台国の君主であるだけではなく、倭国の王であることを示している」と話した。
https://www.yomiuri.co.jp/local/nara/news/20221016-OYTNT50184/ 南と東を間違える
そんな人の話なんて信じられません
>共立とは、卑弥呼が邪馬台国の君主であるだけではなく、倭国の王であることを示している
これ、鋭いよな
女王国≠邪馬臺国なんだよね
邪馬臺国は女王国を構成する一国家に過ぎないといえばそうなんだよね
「共立」なんだから、たまに畿内論者で邪馬臺国が直接九州まで支配してたなんて言ってる人いるが、とんでもない
女王国という同盟組織だったのだろうね 何処でもええわそんなもん。得するの地元の観光業者だけだろ
畿内説って声大きいだけじゃね?
畿内説主張は声高に叫び、九州説主張派は証拠を淡々と積み上げてるイメージ
>>11
纒向遺跡が発掘されてからは真逆のイメージしかないわ
九州説はもう観光資源みたいになってる >>13
纏向がヤマト王権に関係してたとしても
九州説を否定する根拠にはならんぞ
九州説ではそもそも邪馬台国とヤマト王権はたまたま名前が一致しただけで無関係って考えが主流だから
魏志倭人伝時代は鉄器後進地域だった『邪馬臺国』が4世紀以降急激に強大化し、四道将軍を四方八方に派遣し倭国全域の直接支配に成功した理由
それは鉄器先進地域の但馬丹後丹波と結びつく事が出来たからであろう。
つまり、海部氏や優れた工業技術を持つ但馬の天日槍をヤマト連合に取り込んだのである >>15
それは当たり前だろ
発掘の成果を見れば当時の日本の中心は纒向以外にないんだから
観光資源として卑弥呼祭りだの邪馬台国祭りだの町おこしみたいなのやってるのは九州
うさんくさい 未だに結論出ないなんて歴史学会や考古学会は一体何してるんよ
纏向はあれだけ巨大な遺跡なのに、人の集住の痕跡が見つからない
つまり纏向は、自然な人の流れによって徐々に形成された全国の大集落(唐古鍵や吉野ケ里)とは一線を画す計画都市遺跡。
また祭祀で用いたであろう桃の種も8000個以上とおびただしい量が見つかっている
そして纏向で発見された桃核並びに土器付着炭化物1つは、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
普通に九州と後の大和政権と呼ばれる狗奴国は別々の地域と王国で
伊都国が福岡の糸島市、邪馬台国は筑紫野あたりまでと至近距離にあったんじゃないの
規模って言うけど福岡では山ほど遺跡見つけてるのに都市だから発掘後埋めてるからな
田舎しか遺跡の保存はできない
>当時の日本の中心は
当時の日本に、まだ中心は無いと思う
一極集中じゃないんだぜ。
筑紫島(九州)には、紀元57年に金印を印綬された偉大な大国『奴国』が
中国地方には、日本海貿易を盛んに行い九州の次に鉄器を導入した『投馬国』が
畿内には、三輪山を本宗とする『邪馬臺国』が居た。
これら主要3カ国が合従して【女王国】の誕生
奴[ナ、ヌ]国→那珂遺跡:吉野ケ里よりデカい。すぐ北の志賀島で金印が見つかっている
投馬[ヅマ]国→出雲
邪馬臺[ジャマト]国→大和
畿内論者の中では大体これが一致した見解ですよね >>23
纏向も埋め戻して地中保存してるだろ
福岡で纒向ほど騒がれる遺跡がないのは単純に有力な証拠が見つかってないから
>>22
中国人使者は、邪馬臺国まで来たと考えていますか? 箸墓から馬具が出ている以上
纏向は高句麗との戦争があった5世紀はじめ以降の遺跡と考えるのが普通だろう
なぜ証拠がでているのに畿内言い張るのかわからんのだが
・馬具
・南の狗奴国
・海を渡って東にある倭種国
・北の一大率と伊都国
これらについて納得できる説明ができなければ
畿内説の連中は議論の舞台に立つことはできない
箸墓はデカくて見応えあるな
まあ名前の由来はアレだけど
>>29
炭素年代測定をスライドさせたって話マジなん? 畿内説を支持する連中から漂う朝廷と何らかの繋がりがあってほしいと言いたげな下心が見えて好かん
>>32
九州説こそ日本が中国に朝貢してたのが許せなかった国学者が江戸時代に作り出した下心の産物なんだが
>>29
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国出土(李家山59号墓)青銅製容器蓋装飾の騎馬像に鋳出された脚親指に装着する革鐙が報告(菅谷1994)されている。
郡県内では湖南省西晋墓(長沙金盆嶺第21号)の陶俑に描かれた片鐙(永寧2,西暦302年埋葬)が紀年の明かな最古発見例であるが、これと同時期或いは遡るとされる類似の発見例が数あり、中国の複数の調査者が木芯包革式鐙の存在を3世紀中葉まで遡ると考えている。
現物は西晋末~東晋初(四世紀第1四半期末から第2四半期頃)の河南省・遼寧省出土例まで降る。
湖南省西晋墓陶俑図
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度に鐙が一般的存在であったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で上図タイプ1の国産模倣品現物が出ることに不合理はない。 旅の距離の合計と一箇所からの距離が混ざってるからわかりにくい、って説が説得力を感じた
分けて考えると九州になるやつ
>>30
大物主って、他の女の陰部も矢で撃ち抜いてるからね
そういう神様なのでしょう。
ただ当時の倭人は箸使ってなかったので箸がどうこうってのは後世の脚色でしょうね
>ここに媛女あり。こを神の御子と謂ふ。その神の御子と謂ふ所以は、三島湟咋の女、名は勢夜陀多良比売、その容姿麗美しかりき。故、美和の大物主紳、見感でて、その美人の大便まる時、
【丹塗矢に化りて、その大便まる溝より流れ下りて、その美人のほとを突きき。】
ここにその美人驚きて、立ち走りいすすきき。 [古事記:中巻] >>35
記述でしっかり距離で記されてるのは不弥国までで
それ以降の国は船で何日分くらいみたいな適当なノリ
だから位置や距離は憶測の域を出れないのです >>33
金印出たの九州じゃんとかその辺も
F爺こと小島剛一がそもそも今の日本国内にあったのかとかブログに書いてたよな 卑弥呼がどこの人間だったか判明したとして何か意味あんの?
いつまでも価値の無い研究してんじゃねーよ
台の繁体字臺と壹は字が違う
壹は豆が含まれてるので音読みはトウしたがってヤマトウ国なんだよ
ヤマト国でヒミコは皇太后(天皇のかーちゃん)ってオチだろ?
当時の魏の記録がいい加減だっただけだよ
これもう畿内以外ないよね
隋書「筑紫(九州)から東へ進んで秦王国、そこから邪靡堆、魏志倭人伝で言うところの邪馬臺国に到く」
①
>明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
訳)608年、煬帝は使者を倭国へ派遣した。
百済へ渡り、竹島に至る。
南に耽羅国(現在の済州島)を望み、
はるかな大海の中にあるツシマ(対馬)国を経て、
また東のイキ(壱岐)国へ至り、
またチクシ(筑紫)国へ至る。
また【東】の秦王国に至る。
その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。また十余国を経て海岸に到達する。チクシ国以東はみな倭に付属している
②
>俀王遣小徳阿輩臺 従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都
訳)倭王は小徳のアハタを派遣し数百人を従え儀仗を設けて、太鼓や角笛を鳴らしやって来て迎えた。
十日後、また大礼のカタビを派遣し、二百余騎を従え、郊外で旅の疲れをねぎらった。都に到達した
③
>都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也
訳)邪靡堆を都にする。魏志で言うところの邪馬臺である。 日本人のゲノム調査で9割がた3000年前に大陸
からやってきた弥生人と判明
1割が縄文人ゲノム
大陸から鉄器と稲作という文明もってきた
魏志倭人伝に記載あるもの(西暦300年以前弥生時代)
鉄刀 福岡県17出土 奈良県「ありません!」
素環頭大刀素環頭鉄剣
福岡県16出土 奈良県「ありません!」
鉄剣 福岡県46出土 奈良県「1つ出土!」
鉄矛 福岡県7出土 奈良県「ありません!」
「纒向遺跡から土器が出土されたぞ!
どうだ九州よ!怖いか?」←畿内説
>>38
>金印出たの九州じゃん
漢委奴国王の金印なのだから、奴国が比定される那珂遺跡の北部に位置する志賀島から出土して当然です 本家邪馬台国と元祖邪馬台国で争ってたんじゃねの?
そこに朝鮮半島から王族が逃げてきてまとめてしばきあげて日本をつくったと
那珂遺跡
奴国は紀元57年に印綬を受けている。実際1世紀の九州は日本でダントツの先進地域。
優れた製鉄鍛冶技術を要し強力な長刀が最初に普及し始めたのも九州。優れた都を有する国
しかし、鉄器は2世紀前半には出雲へ広がり、2世紀後半には但馬丹後まで普及して大量生産が行われている
魏志倭人伝の時代になると、もはや九州に圧倒的な技術的優位はない
>>45
エミシが武士を作ったんだよ
日本刀の原型の原型たる蕨手刀もエミシが開発した。
エミシは偉大
>>43さん、史書に真実が書いてありますよ>>42
隋書は日本書紀より古いので信頼に足ります >>43
現在は遺伝子研究で古墳時代に渡来してきた人が多いと分かってる
縄文人+弥生人+古墳時代人=日本人
隋書「筑紫から東へ進むと秦王国に着く、そこからテクテク行くと都の邪靡堆、魏志倭人伝で言うところの邪馬臺国に着きます。」
これ、確定じゃないですか >>8
久しぶりに面白いYouTubeチャンネルにたどり着いたわ
ありがとう
女王国とは、これら諸国が結成した大同盟を指して呼ぶ言葉なのであろう。
【共立】なのだから邪馬臺国が日本全体を支配していたわけでは断じて無く。同盟だ
そして卑弥呼は魏志倭人伝の記述見る限り引き籠もってシャーマンやってるだけだから実態は【斎王】だ
ただ気になるのが、実は1000戸の伊都国が九州の支配者なんじゃないか説があるところだな
実際、伊都の平原王墓からは
①おびただしい数の魏鏡
②直径46・5センチの国内最大の鏡(内行花文鏡)が5面見つかっている
ただものじゃない人間が埋葬されてたわけだな
あと九州諸国の官職に注目してほしい
卑奴母離(おそらく鄙守[ヒナモリ]:辺境を守る兵士)が
【奴国・對馬・一支・不彌】に置かれているというのに九州で唯一、伊都国にだけはいない。
鄙守がいないということは....中心地。
そして伊都国の官名が爾支(ニキ[おそらくニギ])ときた。
ニギといえば『豊穣』を意味するニニギやニギハヤヒと同じ尊称だろう
九州諸国の對馬・一支・奴・不彌には卑奴母離(鄙守)が置かれている。
投馬や邪馬臺には居ないから、九州特有の官職なのだろう。とここまでは納得がいくのだが、伊都国は違う。
伊都国には卑奴母離がいない。
しかも伊都国は官の数が【3人】
2人より多くの官が記載されている国は邪馬臺国と伊都国のみ
一体何ものなのだ。伊都国
>>46
これね、ありえるかもしれない。 ここまでは考古学者のコンセンサスとして認定できる事実部分と小説家的に想像力膨らませた仮説部分切り分けてほしい
従来の仮説に対して事実の裏付け取れない部分を否定しつつ新たに裏付け取れない部分がある新説ぶちまける話が多くて頭がこんがらがる
邪馬台国って明らかに日本とは文化違うけど畿内説で天皇と矛盾しない形で説明できるの?
>>61
魏志倭人伝って伊都国までは方向・里数・戸数や官名の定型項目以外に見聞記録があるけどそれ以降に記載された土地には見聞記録が無いのですよ
つまり使者は伊都国より先に行ってない。と解す事ができる。
つまりそれ以降、というか九州より先のの投馬や邪馬臺は伝聞ね。
だとすれば倭人は入れ墨してるってのも、棺はあっても槨が無いってのも、伊都国までの習俗の事だ。
実際、畿内からは当時代の黥面土偶(入れ墨した土偶)が殆ど出土していないから九州とは別の習俗の集団が住んでいた可能性がある。
>>61
倭人は里数を知らない。だから伝聞である九州(不彌)~投馬がいきなり里数じゃなく日数に切り替わったわけだ
隋書に「倭国は、百済・新羅の東南、水陸三千里に在り、大海の中の山島に依りて居す。魏の時、中国と訳を通じること、三十余国、皆自ら王と称す。倭人は里数を知らず、但だ日を以て計るのみ。」とかいてあるでしょう?
>>61
というか、邪馬臺国の官に天皇(当時はもちろん“天皇”ではない。“大王”ですらないかもしれない)とおぼしき人名が登場している。
実際、崇神天皇は纏向に近い三輪山の麓に磯城瑞籬宮を営んだと日本書紀に記載されているね。垂仁天皇も纏向珠城宮だ
邪馬臺国4官
①官:伊支馬[イキマ(生駒)]
↓
垂仁天皇[和風諡号“イクメ”イリビコ(活目入彦)]
②官:彌馬升[ミマソ(御間襲)]
↓
[謎。対応無し]
③官:弥馬獲支[ミマワキ(御間別)]
↓
崇神天皇[和風諡号“ミマキ”イリビコ(御間城入彦)]
④次官:奴佳鞮[ヌカテ]
↓
[謎。対応無し]
⑤卑弥呼没後に女王になった臺与(トヨ)
↓
崇神の娘で日本初の斎王[豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)]
つまりどういうことか?
当時の天皇家は【邪馬臺国の王】でしかなかった(冊封体制の秩序において、一地域に二人の王は許されないので便宜上“官”と書かれたのだろう)
そして卑弥呼は【女王国(倭国)の王】であった
しかし後に邪馬臺国の王(天皇家)は四道将軍を派遣したりヤマトタケルを関東や九州に派遣したりして四方八方を直接征服。
倭国全域がヤマトの手中に落ちる。
かくして「倭」と書いて「ヤマト」と読むようになった。ということですな 邪馬台国がはっきりしちゃうと
天皇その時どこで何してたの??
という話になってまずいから
いつまでもグダグダさせてる
2600年前から日本支配してることになってる天皇が
たかだか1800年前にどこの馬の骨か分からないのはまずい
邪馬台国といえば昨日の読売朝刊にムチャクチャトンデモ本っぽい広告がでかでかと載ってたな…。
「そもそも日本じゃねえ」とかいう説だったと記憶しているが、あんなの買うやついるのかね。
気象学で卑弥呼の弥生時代は寒冷な氷期
当然、魏志倭人伝でも様子が書かれている
夫余 北緯44 気候不順で五穀が実らない
高句麗北緯41 耕作に務めても口腹を充たすにあらず
馬韓 北緯36 稲を作り養蚕を知り絹布を産する
対馬 北緯34良田なく
壱岐 北緯34やや田地あり、耕作しても食糧不足
邪馬台国 稲、紆、麻を植え養蚕を行う
国々に交易、飲酒が普及、80-90歳の高齢者を見る
世界的に寒冷で稲が育たなかったが邪馬台国は
豊かな様子で食べ物に困窮していない
つまり邪馬台国はよほど暖かいか豊かな穀倉地
帯でないとならない
馬韓は穀倉地帯らしい
その地方でもかなりの穀倉地帯か暖かい所
それが邪馬台国
寺沢薫の著作を読んだことがあるけど、魏志倭人伝は「東を南と誤記した」だの「狗奴国は東海地方」だの滅茶苦茶だと思ったな
>>68
邪馬臺国が養蚕を行っていたとは書かれていない >>69
>>8の言語学的アプローチも方角の誤りと狗奴国は東海地方を示唆してた
昔からあった説なんだね
>>69
狗奴国は東海地方だと思うよ
呉の紀念鏡出てるし、遠縁の久怒が狗奴国
日本は方言北をニシと呼ぶ方言があるから、都からの道を教えてもらって逆算した時に東を南と誤記するのはあり得る
実際隋書は間違いに気づいて、魏志倭人伝では南と書かれている行程を全て東に変えてる。変えなくても良い對馬から一支の行程まで東に変えちゃってる
とりあえず今九州諸国の官職名まとめてみたけど
やはり伊都国は異質だな。
伊都国は、魏志倭人伝の中でも唯一
「代々王が居た」と書かれている国だ
そして女王国に従属しているとね
はていったいどういうことだろう 日本最古の神社があの辺にあるのも偶然じゃないだろう
>>70
魏志倭人伝に「蚕、桑があって糸を紡ぐ」
とあるし卑弥呼が絹を中国に献上したとの
記述があって邪馬台国で養蚕してたよ
邪馬台国ではかなり服を着て淫らじゃ
ないとも書かれている
>>77
それは倭人の習俗であって、邪馬臺国の風俗だとは書かれていないよ
絹は九州の特産品だからね
>>77
【邪馬臺国では】服を着て淫らじゃない
と本当に書いてあったの?
どうして省略されてる主語が邪馬臺国だと思ったの?女王国は倭地か倭国だと思うんだけど違う?
>>77
中国の使者は邪馬臺国まで行った。と思いますか? 何と比べて淫らではなかったという話なんだろうか
そもそもこの時代の「倭人」ってどの辺りの人なの?
私はこういう理由>>62があって、中国の使者は伊都国まで来て引き返したと思ってるのですがべ 弥生時代の畿内と北部九州は異民族なので反目しており、交流は無かった
畿内からは倭人伝に記載のある鉄の鏃や絹織物が殆ど出土していない
邪馬台国は吉野ヶ里で決定しているし、卑弥呼の墓は平原女王墓となっている
これ以上邪馬台国論争をするのは時間のムダ
奴婢100人による殉葬
鉄器使用
どう考えても日本列島ではありません
ありがとうございます
>>83
>邪馬台国は吉野ヶ里で決定しているし、卑弥呼の墓は平原女王墓となっている
異議あり
まず吉野ケ里は小さい。同じ九州でも那珂遺跡群の方が数倍もデカいから、せめてまずこちらが先に戸数7万の邪馬臺国に比定される筈だ
また、九州説でも現在の糸島に伊都国を比定している筈
だとしたら、なぜ邪馬臺国もしくは女王国女王の墳墓が、従属国の伊都国に置かれるのですか?
>>84
鉄器は九州から日本海沿岸にかけてひろく分布していました。
また中国の使者は伊都国までしか実際に行っていないと>>62,63思っています。
つまり倭人の風俗というのは、九州の風俗であると >>70
あのねぇ
〉邪馬臺国が養蚕を行っていたとは書かれていない
デマは止めてね
訂正しないとならないからさあ
養蚕も糸も紡いでいたのに邪馬台国は
裸だって魏志倭人伝であるのね?
魏志倭人伝「邪馬台国までの道里程を計算
すると中国の会稽から東治の東にあるはず
その風俗は身だならず男子は〜その布は」
まあちょっとは調べなさい
弥生時代の絹は九州からしか出土していない
>>87
>計其道里当在会稽東治之東
どこに邪馬臺国と書かれているのですか?前の文まで女王国や倭国について書かれていたのにいきなり主語が邪馬臺国に変わると思った理由はなんですか? >>86
日本で本格的に鉄器が使われたのは5,6世紀になってからなんだが? 歴博による炭素年代測定の結果が全然信頼性のおけるような代物でないからな残念ながら
出土品がちぐはぐさでブツが中国よりも年代が下るというお粗末さ
それを「コンタミ」と言って誤魔化すやり方しかできていない
>>87
「邪馬臺国までの道里」なんて一言も書いてありませんよ
「女王国までの道理」と書いてあるのです
もし女王国=邪馬臺国ならば
次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次都支国有り。次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。次に奴国有り。ここは女王の境界尽きる所なり
斯馬国~烏奴国までの
の諸国が邪馬臺国の中に有ることになりますよ
すると魏志倭人伝に登場する国は邪馬臺国・投馬国・不彌国・奴国・伊都国・末盧国・一支国・對馬国の8カ国のみになり「使訳通ずる所は三十国なり」が成立しなくなってしまいますが
>>91
なんかあったかもしれませんね
阿波
阿波の和奈佐っぽいのが魏志倭人伝に登場するんだけどね
パナサナ国=華奴蘇奴国
まあ地名しか書かれてないからなんとも言えない 那珂遺跡からは楼観・城柵があった痕跡は無いので那珂遺跡はあくまで
奴国の事、魏志倭人伝に記載がある、楼観・城柵、内乱が起きた痕跡がある
吉野ヶ里遺跡が邪馬台国で決定している。卑弥呼は伊都国の出身だから
お墓は伊都国の平原女王墓となっている
>>95
女王国に従属している伊都国出身の卑弥呼が女王になれるのですか?それならむしろ邪馬臺国や諸国が伊都国に従属している事になるのでは? 卑弥呼の邪馬台国は女王国なんだから、男系万世一系とか言ってる史観的にマズイんじゃないの。
九州の蛮族国ってことにしないと。
でもまあとにかく伊“都”国が九州筑紫島の支配者が都する所なのはみんな共通見解なんじゃないですか
魏鏡40枚、巨大内行花文鏡5枚は途方もやんごとなき人の墓でしょうからね
ここのニギさんと邪馬臺国の王が結婚した結果、両者の仮冒としてのニニギ降臨神話とかが誕生したのかな
>>96
卑弥呼は邪馬台国連合を構成している三十余国から選ばれているから
伊都国から選ばれるのは何の問題も無い、問題なのはそんな愚問を投げかける
お前の知能の低さだなww
>>99
まあ確かにそれがあり得るとしましょう
吉野ケ里には致命的な欠点があります。それは水田遺構が無い事。実際、吉野ヶ里の食料は畑作物と海産物が主体と言われてる。
その結果推計人口がこう↓
吉野ヶ里では、こうした様々なことについても調査研究を行い、現時点で最盛期には、外環壕の内部におよそ1,200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では、5,400人くらいの人々が住んでいたのではないかと考えられています。
https://www.yoshinogari.jp/introduction/qa/
これでは、倭国で一番戸数の多かった筈の邪馬臺国にはなり得ませんね 邪馬台国がどこにあったかすら分からんのだから
皇紀2600年とか眉につばつけないとだめだろ
邪馬台国には楼観・城柵があったとの記載が魏志倭人伝にあるから
現在までに出土した弥生遺跡では吉野ヶ里以外には適地は無い
吉野ヶ里が注目される理由がここにある
>>102
ねーよ馬鹿
引用箇所指摘してみろ間抜け^^ 私が考えた2通りの説
1つは日本は小さなクニがたくさんあって
そのうちの1つが邪馬台国で九州にあった説
これは大和政権もとい天皇としてはいろいろどうなんだろう
矛盾してきそうなマズーな説
もう1つは日本はある程度まとまって来ていて
邪馬台国は畿内にあったけど
中国朝鮮との外交のための場所が九州にあって
イメージ的にはのちの大宰府的なのが九州にあった
と言う説でこれがのちの大和政権につながるならキレイにまとまりそう
畿内説って歴史的事実とは別に邪馬台国=大和王権に繋げる物語のために無理矢理やってる感があるって思うのは俺だけ?
邪馬台国=大和じゃなかったとしてなんか問題ある?
>>105
日本の歴史学会ってのがクソだからな
特に古代史
記紀(偽書)の伝承ありき 邪馬台国は刺青入れた海洋民族の国だぞ
大和朝廷の直系じゃない
古事記研究家の竹田恒泰は、八代市で行った講演で上記「八代伊勢説」を紹介等したにもかかわらずテレビ番組「そこまで言って委員会NP」の中では「記紀は我々日本人にとって真実なのであり、
海外の文献と比較して事実を暴く様な事をしてはいけない。」・「日本史の教科書に魏志倭人伝等載せるべきではない。」等と発言し通説側の苦悩を現している
↑もう学問じゃなくてただの宗教w
>>105
問題ないよ。
中国の学者は春秋の筆法で規模の小さい古墳を邪馬台国と比定し九州説を推してる。
中国の文献だから中国の学者の読み方と判断が正しいに決まっとる。
纒向遺跡は邪馬台国と無関係か交流先程度の関係。 前後の天皇の在位年代調整して、わざわざ魏志倭人伝の卑弥呼の登場年代にドンピシャで重なるように「神功皇后」とかいう女傑を登場させてみたり
かと思えばソレとは別に、同時代に「九州北部に勢力を保ち巫術を繰る蛮族の女王」(神功によって征伐されて平定された、とされる)みたいのも登場させてみたり
記紀の記述自体も割とどっちつかずな感じではあるんだよな
説の数だけ街起こし出来るでいいじゃんもうw何でもかんでも確定すればいいというものでもない。けつなあな
>>100
吉野ヶ里にいったことあるならそんなバカな発想はせんよ
吉野ヶ里は丘陵地の集落とお墓のみで、稲作は吉野ヶ里の付近の低地でしていた訳だ
夜は敵が攻撃する恐れがあるので高台の集落にいた訳だな >>1
倭の五王は?
明治維新は19世紀後半なんですけど未来人なの? 纏向遺跡は城柵どころか環濠すら無かった事が判明しているので
纏向は城柵が不要な平和な地域であり、倭人伝の記載とは合致しない
「王となってから、朝見のできた者はわずかである。侍女千人がいて、
(指示もなく)自律的に仕え、ただ男子一人がいて、飲食物を運んだり言葉を
伝えたりするため、女王の住んでいる所へ出入りしている。宮殿や高楼は城柵が
厳重に作られ、常に武器を持った人が守衛している。」
※倭人伝も読んだことが無い出来損ないが書き込めるのが5ちゃんの特徴
台与がトヨなのに邪馬台がヤマタイな訳ないだろ
九州の田舎者どもは諦めろ
記事のどこにも邪馬台国は畿内にあったなんて書いていないんだが
このスレに書き込んでいるのは殆どが中卒、高卒以上の学力があれば
魏志倭人伝は何度も読んで記憶しているはずなので、纏向遺跡が
邪馬台国とかバカな事は書き込まんよ
ネトウヨの書く正論は信用ならんが、何でネトウヨは嫌いな近畿に
あったという説を持ち上げるの?
ネトウヨの書く正論は信用ならんが、何でネトウヨは嫌いな近畿に
あったという説を持ち上げるの?
ネトウヨの書く正論は信用ならんが、何でネトウヨは嫌いな近畿に
あったという説を持ち上げるの?
畿内説って、たまたま中国の歴史書に登場した国が
大和王朝に繋がってるという権威付けをしたいだけだろ
>>105
実際はその逆で江戸時代後期に国学の隆盛で皇国史観が産まれ神国日本が中華王朝に朝貢などするはずがないという考えが邪馬台国九州説の源流となった
邪馬台国がどこにあったかとというのは親魏倭王印でも出土しない限り結論はでないだろう 古代に存在し、あまりにも巨大で、その後分割され(、そして未だに
復活しきれていない)吉備国。壬申の乱後、徹底的に解体されたことを
考えると古くから有力な地域であり根絶やしにしなければならないほどの
勢力を誇ったことが伺える。
邪馬台国があった時期にその前身となるものがあってもおかしくない
ように思う。その地域が地理的に見ると畿内説と九州説の間に存在する
はずなのに、イマイチ話題にならないのはどうしてなんだろうか。まあ
出雲もでていないから、そんなものという見方もあるかもしれないが。
貝輪が珍重されてた時代は
北九州あたりが貝輪文化の中心地で
近畿あたりはその文化の末端みたいな感じなのがな
近畿で石や青銅で貝輪の模造品作ってたということは
文化的には近畿は北九州の影響下にあったんじゃないかと思うんだけど
好きなとこに好きなもの埋めて好きなだけ掘り出すのが考古学
どんな学だよw
畿内のわけないだろ
どうやって魏に使いだしたんだよ
北九州じゃなきゃ影響力も皆無だし
>>112
川の水源を誰が利用するかを占いで上手くコントロールしてたんだっけ?
そんな占い統治が上手くいく規模なんてたかが知れてるし、本州しかも畿内まで支配してました理論だと無理がありすぎるんよな やっぱ個人的には邪馬台国は北九州で
古墳時代に日本語族が朝鮮からやってきて
最終的に近畿に定着したってシナリオがしっくりくる
>>110
卑弥呼の存在を知っていてそう書いてるからね
同じ系統ならそう書けばいいだけなのに >>134
日本が文字で記録を残し始めたのがようやく5世紀ごろで日本書紀みたいな歴史書は8世紀になってようやく書かれるようになった
500年近く前の卑弥呼の時代の話なんかは口伝だろうし魏志倭人伝の話が誰のことだか分かんなくてとりあえず大陸に進出した神功皇后に比定しておいたんじゃないの 蛙の骨、桃の種、木製の鞘
これだけの物的証拠が出たので、邪馬台国は奈良だと断言できる
考古学は物的証拠が全てなのだよ
勝負あり(´・ω・`)
悔しいなら、九州説の学者たちよ、柿の種を探すんだ!(`・ω・´)
>>8
にし(北)とにし(西)を混同したというが
個人的には日本の古い方角を表す言葉って
十干十二支が元ネタだと思うわ
でも東風とか南風とかやまと言葉ってなってるけど
もしかしたらただの決めつけで
たんに思考停止してるだけかもしれないよ? 沖縄でニシは北だけど
個人的には子丑(ねうし)がなまってニシになったか
あるいは子(ね)に風の意のシがついてニシなんだと思ってる
で、今で言う西は沖縄ではイリという
東がアガリだから日の入りのイリかもしらんが
本土ではアガリとか言わんから
仮に東西については沖縄独自の表現だと考えて
十干十二支に仮に当てはめると
北西の方が戌亥(いぬい)で
音韻変化すればイリになりそうな気もする
東風のことをコチというが
十二支では東北東が寅なんだよな
で、寅は虎だからコで
コに風を意味するチがついてコチみたいな
南風(はえ)については
沖縄ではふぇーって言うけど
十干だと丙(へい)だから
無理やりだけどこんな感じで
十干十二支にあてはめられないこともない
ド素人だからユダヤ語と日本語は似てる!みたいになってるかも知らんけどw
なので
にし(北)とにし(西)を混同したとは必ずしも言えないんじゃないか
ニシが北の意だった時代&地域においては
西はニシではなく戌亥(戌亥)を語源とする
いに、いん、いりとかそんな言葉が使われてたんじゃなかろうか
もしそうならニシをイリと混同したと主張するのはキツイ
状況証拠の積み重ねもいいんだが
決定的物証を示して「これで決まり」ってやってくれないかね、いつか
全部今考えた妄想だから合ってるかは知らん
というか多分全くの見当違いなのかも
まあでももしかしたら
純粋なやまと言葉だと思われているものが
実は中国由来だったとか
もしかしたらあるのかも知れないね
>>133
卑弥呼は宮殿に籠もりっぱなしで、都知事は知事室に籠もりっぱなしの
所が似ていると言うのかな?大昔から引きこもりがいた証拠だな 自為王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
「王となりてより以来、見(けん)有る者少し。婢千人を以(もち)ひ、
自ずから侍る。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝へ、居所に出入りす。
宮室、楼観の城柵は厳く設け、常に人有りて、兵を持ち守衛す。」
はるばる中国から朝鮮半島を経由し
さらに海をわたり対馬壱岐と来て大きな島に着いてここどこやねん状態の当時の使者
>>20
結論は出てるんだけど、キチガイにかまいたくないから内々で知見を共有してるだけ
在野の自称研究者なんか暇に任せて研究者に粘着する気狂いばっかりだし 邪馬台国である為の条件は、僅か2項目しか無い
1.楼観(物見櫓)、城柵がある事
2.内乱が起きた形跡がある事
以上の2項目を満たしているのは吉野ヶ里遺跡のみ
卑弥呼の墓は副葬品の豪華さと女王墓と言う点を考慮すると
糸島市の平原遺跡となる
気象学でも弥生時代は寒冷な時代で魏志倭人伝
で対馬、壱岐でも五穀が取れにくいとある
畿内はこれらと同じ緯度でさらに畿内は山がち
で穀倉地帯と呼べるものは無い
海抜も高くて寒冷な時代には人は多く住めない
だが魏志倭人伝には邪馬台国は寒冷な時代に
あっても商取引、養蚕、酒飲み、老人など
いて衣服をまとい生活しているとある
九州は対馬壱岐の南に広がり筑紫平野は
穀倉地帯でもある
正食、魏志倭人伝、出土品、気象学から
見て少なくとも畿内は100%無いと言い切れる
>>154
>邪馬台国は寒冷な時代に
あっても商取引、養蚕、酒飲み、老人など
いて衣服をまとい生活しているとある
書かれていない事を妄想しないでください >>禰宜田館長は弥生時代後期の畿内地域の状況について「直接的に評価できる考古学的な物証は少ないが、
考古学的証拠は無い、全部空想
>>153
吉野ケ里って村落規模だよ
列島規模の集権的な求心性の有無は、古代氏族のなかで王権をしのぐほどの勢力に至ったとみられる蘇我氏が主に倉庫番やってた一族だったことからもわかるとおり、
大きい備蓄庫の存在、いわば年貢を集めて貯めておく場所の存在によって証明されるもの
もちろん畿内にそれがみつかっている >>151
キチガイが暴れて話題になると関連発掘調査の予算が出やすくなったり地域学芸員の枠ができるのでおおいにやれ
実際もうこうだろうなってわかってるけど、止めは刺さないからって状態 奴婢100人と一緒に殉葬した古墳が一基も見つかってない
邪馬台国では鉄器使用
はい、日本ではありません^^