最近コロナでマーラーの2番とか8番やらなくなって泣いてる
他の音楽があれやこれやと「表現」にあくせくするのに対し
クラシック音楽とはなによりもまず「形式」だから
完全5度と空虚5度はただの表現の違い以上に
開始、始まりというものに対する思想の違いを現す
前者がたしかになにかが始まることを告げているのに対し
後者は虚ろな響きのなかになにが始まるのだろうという不安と期待とを共にする
人間と音との関係としてまず
何度とかドミナントとかトニカとか
生理的にどうしてもそう聞こえてしまう和音や音階(スケール)のかたちがある
クラシックはまずそういう人間の生理に
どう則りまたどう裏切るかがあって
さらにソナタ形式とかロンドとか
楽章単位、主題や展開をどう構成するかという形式がある
しかしそういう形式に律儀なのは古典派までで
ロマン主義以降は人間の主観、感性が前面に押し出される
つまり形式に対する反-形式が「人間」の名のもとに訪れた
ピタゴラスにとっては音の数理がすなわち宗教となったのに対し
(ピタゴラスは数学者、哲学者である以上に歴史的事実として宗教者だ)
ロマン主義音楽に於いては「人間」そのものが寿がれる
「神は死んだ」(ニーチェ)のだから
(ニーチェはワーグナーほかへの音楽批評をしていたどころか作曲までした)
ベートーヴェンあたりをsageつつバッハをageもてはやすモメンは多い
その数理的な響きとともに
しかしことほどさように
音楽はただ数理の内にあるのではない
みなすぐに忘れるからこんなあたりまえのことを改めて書かざるをえないのだが
音楽にはなによりもまず「人間」が欠かせない
ベートーヴェンがあの
大哲学者イマヌエル・カントの講義を予約していたことは知っとるか?
実際に受けることはできなかったようだが
しかし実際には講義を受けられなかったことなど瑣事だ
ベートーヴェンとカントとには「形式」的な共通性があることの方が
のちのわれわれ人類にとってはおおいに大事
もちろんおたがいに知ることもなくだ
知ることなしに共通していたのだからいよいよおおごとだ
ちょっと長文続きで読むのも疲れるだろうから
つべ選んでくる
統一教会ネタが盛り上がったのはいいが
最近嫌儲ではこんな評価があるらしい
すなわち
SEALDsへの批判は統一がらみだと
ところで俺はかれらの登場時点から
SEALDsには一貫して批判的であった
もちろん「冷笑系」などとは別の理由でだ
もちろん俺は過去も現在もそして未来永劫
統一信者ではありえない
ではなぜSEALDsに批判的なのか
俺はそもそもクラシック音楽以上に文学への関心の方が強く
そして高橋源一郎は基本評価するのだが
しかしことSEALDs関係に対しては
俺は源ちゃんに対しても批判的である
なぜか
ベートーヴェン、カントにとっては
「あるけどない、ないけどある」
(特にカントの「物自体」はここを踏み外してはならない)
それがシューマン、フィヒテにとっては
「あるものはある」
そしてワーグナー、ヘーゲルに至ると
「ある、ある、ある」
俺はなにも嫌儲的に突飛な話をしているのではない
田中角栄や宮澤喜一には
「あるけどない、ないけどある」の良識が保たれていた
それが小泉純一郎になると「あるものはある」となり
そしてわれらが安倍晋三になると
「ある、ある、ある」となったわけだ
順調にユーチューブキチガイの連貼りが進んでるな
平常運転だ
SEALDsはただの「現象」だと喝破したのは辺見庸だ
ちなSEALDsは安倍以上に「左翼」を嫌った
現場から左翼を排除するためには警察とさえ協力を惜しまなかった
ところがリベラル界隈でもそしてもちろんここ嫌儲でも
是々非々などと言いつつSEALDsに与した者のなんと多いこと
ちょっと休む、落ちるかも
とにかく表現に没入せず
普遍を求めるように形式を追えと
そのためのクラシック
なんでSEALDsの話を出したのだろう
どうクラシックと結び付けようとしたのだろう
しかも現下のソウルハロウィン大量死から
なぜひとは変装したがりまた群れたがり
それらがクラシックとも関わるとも連想したのだが
いずれにしても酔っててよく分からんち
こんやはずっと焼酎のお湯割り
コテつければいいのに
クラスレ発見したらスレをちゃんと読む前にいちいちNGネームにぶっ込む手間かけさせないで
SEALDsといえば入野自由さんと同じ大学でしたね
ナッツだなつ
チャイコフスキー
弦楽セレナード
好き
コルトレーンのクラシックカルテットの話をしませう
62年欧州ツアーまともに聞かせてくれあくしろやストックホルムがええんじゃ