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【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践14 YouTube動画>20本 ->画像>32枚
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お釈迦さまの教えとサマタ・ヴィパッサナー冥想に関心のある人、実践している人、
体験や変化を 実際に経験している人、初心者、先達の方々、預流果の方々、
更なる成長を求めて語り合いましょう。
前スレ
【テーラワーダ仏教】ブッダの教えと冥想の実践13 [転載禁止]©2ch.net
http://2chb.net/r/psy/1521007589/l50 ※ここはテーラワーダ仏教全般について語るスレであって、日本テーラワーダ仏教協会や
そこの所属比丘についてだらだら語る場ではありません。
日本には他にも上座部仏教修道会、日本上座部仏教協会、日本ヴィパッサナー協会など
多種多様な団体があります、
諸外国においてもタイ・ミャンマー・スリランカ・ラオス・カンボジアなど、国ごとの違い
もあります。
そこを踏まえてご参加ください。
会社勤めをされている方はどのタイミングで瞑想をされていますか?
なかなか時間確保できなくて
4時か5時に起きて、朝一番。
そこは指定時間帯にして動かさない。
>前スレ
自我を手放さないと、正定には入れないから
比類無き私という執着があるうちはは無理。
世界や他者をどう見ているかは、自分自身の内面の告白と同じ。
私とか、私のものとか、私の考えとか、そういうことを考える思考が
入り込む暇が一瞬たりともできない程、隙間なくサティを敷き詰めれば
悟りの光、智慧の光は現れる。
思考に流されない、一点に留まる意識が分かる。
仏陀が、こうやればできると言ったなら、素直にそうやれば必ずできる。
あるいは、正しい瞑想指導者が言ったことを、素直に正確に徹底的に
行えば、必ず結果はでる。
結果がでないのは、その通りにやってないから。
>>8 そうそう。
八正道を実行してたら、勝手に結果がついてくる。根気の問題。
ただ「正しい指導者」かどうか、修行者には分からないし、
相性もあるから、あまり一指導者を絶対視しない方がいいと思う。
ちなみに悟りの光は文学表現。悟りの瞬間は現実的。光は見えない。
群盲象を評す。
自分も含めて、無学や一切知者でもない限り
悟りや瞑想、心については自分が見知った範囲経験した範囲しか
分からないので、安易に他者の宗教体験を否定するものじゃない。
無智の知があるかどうか。
つまり、人間が不完全で間違いを犯すものであることを知っているか
無自覚であるかが、そこの態度に表れる。
瞑想している最中に、光をみようとか、光の体験をしたいなどと
思っていたら、その時点でサティは途切れて妄想に流されてる。
やるべきことは、サティを隙間なく連続させること。
諸々の比丘よ、蛍火の明りは、燈火に及ばない。燈火の明りは、タイマツの明りに及ばない。タイマツの明りは、たき火の明りに及ばない。
たき火の明りは、四天王の宮殿、城郭、瓔珞、衣服、身色の光明に及ばない。四天王の宮殿、城郭、瓔珞、衣服、身色の光明は、三十三天の光明に及ばない。
三十三天の光明は、閻摩天の光明に及ばない。三十三天の光明は、閻摩天の光明に及ばない。閻摩天の光明は、兜率天の光明に及ばない。
兜率天の光明は、化自在天の光明に及ばない。化自在天の光明は、他化自在天の光明に及ばない。
他化自在天の光明は、梵カーイカ?梵界?天の宮殿、城郭、瓔珞、衣服、身色の光明に及ばない。
梵カーイカ天の宮殿、城郭、瓔珞、衣服、身色の光明は、光音天の光明に及ばない。光音天の光明は、遍浄天の光明に及ばない。
遍浄天の光明は、果実天の光明に及ばない。果実天の光明は、無想天の光明に及ばない。無想天の光明は、無造天の光明に及ばない。
無造天の光明は、無熱天の光明に及ばない。無熱天の光明は、善見天の光明に及ばない。善見天の光明は、大善見天の光明に及ばない。
大善見天の光明は、色究竟天の光明に及ばない。色究竟天の光明は、地自在天の光明に及ばない。地自在天の光明は、仏陀の光明に及ばない。
蛍火の明りより、仏陀の光明に至るまで、その所の光明を合集しても、〔四聖諦の光明〕苦諦の光明、苦集諦の光明、苦滅諦の光明、苦滅道諦の光明、に及ばない。
この故に、比丘たちよ。光明を求めて欲する者は、まさに、〔四聖諦〕苦諦、苦集諦、苦滅諦、苦滅道諦、の光明を求めるが善い。
まさに、このように修行するが善い。
>>14 いい加減ウザい
てめぇのブログにでも書いとけよアホが
かつて人類がガリレオを殺した例にもあるように、
人間の思考は、常識を下回る妄想や迷信と、
常識を上回る真実との区別が付きません。
思考で分かることには限界があるのです。
だから瞑想するんです。
本日のNG ID:QPzo2GU9
でスッキリ(・∀・)
ホンマ屑ほどよく吠えるよな
そんな暇あったら被災地にでも行ってボランティアでもしろや無能が
>>14 すごいな
果てのない境地。何回生まれ変わったらそこまでいけるんだろう
この世の市井の人の美しい行為ややり取り、あるいは苦境を見るたびに、
全ての人が一刻も早く苦しみから逃れられるようにと願わずにはいられない
>>11 仏典に、無我でも私って使って問題ないって説いてますでしょ。
避けてる方が偏見であり拘りで、思いを連投書いてる自分棚上げでは。
清浄道論も5世紀編纂のもので、その中の誤認も指摘されてるし。
鵜呑みして夢見ず近視眼的にハマらず、ミルものでは。
増上慢ならず独善的でなく周りとうまくコミュニケーションとりましょう。
犀の角の独り歩めは、在家がマネしたら反社会的だとスマ氏がね。
>>8 私のストーリーと同化せず、バイアスの思考に支配されず、
根拠証拠事実をもとに思考を道具として使えてるなら問題ないのでは。
世俗で生きてるなら、私はって使っていいのよ。
職場で自分のこと何ていうのかしら。
禅定に達せず預流に達する人の記述もありましたが
グナラタナ長老の「マインドフルネスを越えて」では、こんな感じみたいですね。
> この喜びは、「感覚から離れることから生じる喜び」と呼ばれます。
> いきなり心に喜びが流れ込んでくるのではありません。私たちはこれまで長いあいだ、
> 五蓋から生じる苦しみを経験してきました。そして苦しみを引き起こす五蓋を越えるために、
> 懸命に努力してきました。いま五蓋を越えるたびに、「五蓋の苦を制御した」という
> 大きな安堵感があります。この五蓋から解放された安堵感から、喜びが生まれるのです。
> 「喜び」や「喜悦」というものは、これまでずっと欲しかったものがようやく手に入り、
> 高揚して舞い上がっているような状態であり、「幸福」や「楽」は、それを持っているときに感じる
> 穏やかで長つづきする充足感のようなものです。
> 「喜び」のほうは、身体中の毛が逆立つような感覚かもしれませんし、繰り返し降りそそがれる
> 瞬間的な光や波のようなものとして感じられるかもしれません。一方、「楽」のほうは、
> より制御された持続する充足感なのです。
> ピーティは、「喜び」「歓喜」「喜悦」「興味」「熱意」などと訳されています。
> これは身体で感じる感覚ではありません。心理学的には「興味」としてあらわされる
> こともあります。
> 禅定の幸せは、落ち着きがあり、穏やかで、なめらかです。興奮ではありません。
> 興奮と反対の状態です。心の幸せは、リラックスした、落ち着きのある、穏やかで、
> 集中した状態なのです。
> 瞑想中、深い喜びに満たされていると、目が涙でいっぱいになり、あふれることが
> あるかもしれません。でも気づきがあるなら、涙を流すことも、心をざわめかせることも、
> 感情的になることもなく、喜びに十分気づくことができるでしょう。
禅定に達せず預流に達する人の記述は
「法」に従うタイプの人は理性を広く使い、法(ダンマ・真理)を深く理解することを悟りへの第一の手段とする。
理性は、言葉のない深い理解、真の智慧へと導く。禅定に達しなくとも鋭い智慧のみで預流に達する、等とありました。
経典では、こんな感じみたいですね。
http://www.tgiw.info/weblog/2015/07/post_823.html > 比丘たちよ、では、どのようなものを正定というのであろうか。
>
> 比丘たちよ、ここに一人の比丘があって、もろもろの欲望を離れ、もろもろの善からぬことを離れ、
> なお対象に心をひかれながらも、それより離れることに喜びと楽しみを感じる境地に至る。
> これを初禅を具足しているという。
>
> だが、やがて彼は、その対象にひかれる心も静まり、内清らかにして心は一途となり、
> もはやなにものにも心をひかれることなく、ただ三昧より生じる喜び楽しみのみの境地にいたる。
> これを第二禅を具足しているという。
○五下分結経(マハーマールンキャー・スッタ)
> 「比丘達よ、五下分結を、断ち切ることで、欲界を越えて、色界に至る、四つの禅がある。
> それでは、この四つの禅とは、如何なるものか。」
>
>「第一の禅とは、思いが有り、考えが有り、欲を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。
> その時、全身は、無欲の歓喜で満たされている。」
>
> 「その世に存在する、色と受と想と行と識。
> それら、すべてが、無我であり、無常であり、空虚であると認めて、心が五蘊から解放される。」
>
> 「第二の禅とは、思いが無く、考えが無く、想を捨てて生じる、歓喜を体験する禅である。
> その時、全身は、無想の喜楽で満たされている。」
>
> 「その世に存在する、色と受と想と行と識。
> それら、すべてが、無我であり、無常であり、空虚であると認めて、心が五蘊から解放される。」
(第一のとことか集中切らさないの大事そうですが)
欲を捨てることで生じる喜び、という感じで構築しているみたいです。
>>19 私は8では無いですが、8が言ってるのは瞑想中の話。
瞑想経験者なら分かるでしょ。普通。
>>23 結局、第四禅までが正定ということですかね?
でも確か、初禅だけでも解脱に逹すると、どこかで読んだ気がします。
まぁどっちにしろ初禅までで精一杯ですがw
>>25 あくまで、多分ですけど。
>>22で引用した本でも第四禅定を使って観察するとすごいよ、解脱だよ
みたいな話(うろ覚え)があったので。
検索していたら出てきたんですけど、スマ長老も「ヴィパッサナー冥想には、
第一禅定をつくればそれで十分です」みたいなことおっしゃってるんすね。
ZOZO前澤 剛力の解説聞きたいわ
スマナサーラ長老とかに仏教的解説を
体験者の方にお聞きしたいのですが、
感受は苦であるということは瞑想の体験から分かるものなのでしょうか?
(喜も苦である)
苦解脱というすべてが苦だと分かって解脱するのがあると、スマ長老のアビダンマ講義
シリーズの本に書いてあったよ。他にも空解脱とか色々あるらしい。
瞑想関係なく執着がなくなっていくにしたがってわかってくると思うよ
(瞑想によって執着が減るから瞑想も関係するけど)
それから喜がなんであるか自分の感覚と照らして熟考することでもわかってくるかも
喜は喜単体で存在するものではなく苦の裏返しでしかないし気分がアップダウンする中でのただのアップで平安ではない(苦)し
瞑想進めば、四聖諦が分かり始めるよ。そうすれば、自ずから苦が見えてくる。
>>29 苦は「苦しみ」という意味と、「虚しい、無価値」という意味と、「思い通りにならない、不満」という意味があります。
瞑想してくると、感覚も因果法則によって成り立っていて、私の思い通りにはならないことは分かります。
瞬間で生滅するもので、虚しい、無価値であることも分かります。苦しみかどうかは私はちょっと実感したことは無いです。
喜が苦であるかは、第二禅定以降に分かると思いますが、私は経験ありません。そこまでは普通、集中的に修行しないと行けないと思いますよ。
あまり気にしなくて良いと思います。
五蘊が「苦」であるかどうかを観察することは良いと思いますが、妄想無く、思考無く、気づきに集中する事の方が重要だと思いますよ。
一切皆苦なら、
慈悲喜捨も苦ですか?
瞑想も苦ですか?
親が子を慈しむのも苦で、人格的な成長も、他者の幸せを祈るのも苦ですか
五蘊盛苦ですから。
肉体も、感覚も、知識も、意志も、認識も苦です。
眼耳鼻舌身意も苦です。
生きること自体が苦です。
苦だからこそ慈悲が必要ですし、解脱が必要です。
>>34 全てが 思い通りになりません 全て現れては消えて 同じ状態を保てません 大切なものがそれでも存在する 存在はするけれど それは自分自身がその価値を想像した数秒〜数十秒の間だけで 想像をやめた瞬間に無くなってしまう
だからと言って虚しい 虚無 ではないんです 言葉の解釈を変えてみて下さい 自分を時に束縛して苦しくさせる自分の価値感 本当に自由になれるとしたら何が障害になっているのか
例えば友達を助けて ありがとうと言われれば何か嬉しい ですが余計なことをするな と言われると怒りが湧いたり悲しくなったりします 時に嬉しかったり怒ったり悲しんだり 人間らしいですがそのような感情の束縛から自由になる
>>34 自分はまだ悟ってはいないので、あくまで教学上の理解に基づく話だけど、
苦でない(無常、苦、無我ではない)のは涅槃だけらしい。
最近あらためて気づいたけど、涅槃寂静と一切行苦はコインの表裏で、
表現している側面が違うだけで、実は同じことを言っていたんだね。
儒教文化では、一切行苦なんて言ってもそっぽ向かれて布教できない
から、表現を変える必要があったのかも。
日本で仏法僧の三宝に帰依して道徳的に生きるのって苦労しませんか?
酒飲めるけど飲みませんって言ったら変人扱いされるね。
世間知は7つの習慣
出世間は八正道
これでなんとかやっていけそうな気がしてる・・・
最終的には八正道がすべてを包摂するはず
>>39 変人あつかいされるのも修行のうちでしょうw
変人あつかいされると楽ですよ。
いろいろ仕事も頼まれませんし、付き合いも減りますし。
>>39 禁酒してるとか、少量でも脳に有害ってTVでやってたから健康上飲まないようにしてるとか色々言い訳あると思うけど
その話には乗りません。
預流果の悟りに達する前は、みんな戒禁取を持っている。
従って戒律の守り方の細部について具体的に話せば、必ず
戒禁取から生じた反応が生まれる。
不飲酒戒は不飲酒戒であって、戒律の条項は変えない。
それについての糞みたいな議論にも乗らない。
俺は酒は飲まないことにしてるんでと前置きしておいてそれでもすすめられたら一口だけ飲む
酒も煙草も肉も自分から好んで食べなければまあいいんじゃないかな
あくまで個人的見解
29です。皆さま色々な話をありがとうございます。
自分の理解では、輪廻があって、欲界に縛られるから苦である、という風に考えています。
でも、これは頭での理解なので、体験としてではないので、よく分からないのが実感です。
質問してよかったです。皆さまありがとうございました。
タイで瞑想を習った人が先生に言われた話。
「たとえ先生と言えども信用するな。自分以外信用するな」
私もミャンマーの修行僧に似たような事を言われた事があります。
本田圭佑も言っています。
「常識という言葉が大嫌いなんです。『普通は』といわれると『普通って何や』
とそれこそ一日中、考えてしまうので」
>>瞑想経験者なら分かるでしょ。普通。
一般に日本人はこの種の発言に弱いですね。
僧院までの山道をミャンマーの修行僧と歩いていた時、しばらく歩いても僧院はまだ遠い。
私が「僧院までまだありますね」というと彼は「先を見るな。足元を見て歩け」と。
今思えば、彼は歩きながら瞑想(Cankama Walk)をやっていたんでしょうね。
ここも含めてネットの情報には地図(経典や書籍)を見ただけで山に登った事(戒律や瞑想
修行)も無いのに、あたかも山を見て来たかのような書き込みをする人も居ますので、
十分お気を付け下さい。
自灯明、法灯明でしょう。
本田灯明は無いと思います。
自分以外信用するなってそれじゃあ瞑想の先生いらないやん
先生だからって盲信せずに、自分で善く吟味して考えなさいって事じゃないですか?
私の場合は、初めての上座部僧で本でしか見た事の無い事がボロンボロン彼の口から出てくるから、
面白くて、無批判に聞いていたのを心配して言ってくれたのかも知れない。
先生に対する信頼は学ぶ上で必要で尚且つ、それはアングリマーラの例にある様に危険なもの、と
言う事でせうか。今ならオウムを例にする方が良いかもね。
日本はもうダメね
そういえばチベット仏教のナムカイ・ノルブも「西洋人は信じないときは全く信じないが、信じるとなったら盲目的に信仰する」とか言ってたな
日本人にも当てはまるかもね
>>52 アングリマーラの前日譚は注釈書の話だから相手によっては通じないかもしれない
>>48
また読解力なく主観と憶測で語る、深追いしなかっただけでしょ。
瞑想する>瞑想しない、、、差別主義(排他的)丸出しでどうする。
798「ひとが何か或ものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」
と見なすならば、それは実にこだわりであると<真実に達した人々>は語る。」
799「智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見を
かまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、
他人より「劣っている」とか、或いは「勝れている」とか考えてはならない。」
794「かれははからいをなすことなく、※何物かを特に重んずることもなく、
「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。
結ばれた執著のきずなをすて去って〜」
瞑想している(私)という思いが、自我構成強化させていることに気づいたら。
持ち歩くことなく、手放したら。
782「自分の行について問われてもないのに、自らまくしたてる論者は、
凡愚にして聖ならざる者の論である。」
瞑想中は無思考でも、日常で思いと同化してたら、意味ないでしょ。
思いがあっても手放し、起きてる間、気づきを入れないと、
座ってるだけが瞑想でない。
貴方のような主義者って、自我強化の依存対象の代替えでしかない。
自分(私)の修行のこだわりが、他者との比較、批判、差別、排他性を生む。 自分の行について問われてもないのに、自らまくしたてる論者
>>52 貴方も結局、師から本からの言葉の引用で、目新しい話でもない。
同じ話、似たような話しかない。
>私が「僧院までまだありますね」
そんなの禅の有名な逸話と変わらない、貴方はまだ過去を抱いていたのか。
修行の成果が、過去のこと、体験のこだわりとはね。
思いの手放し、思いから離れてる、瞑想者になるなというチャー師の教えの通り。
思いがあっても同化してなく、証拠根拠事実の有効な思考と説いたのがスマ氏か。
>>4rtpZKbt
仏道修行の前に日本語修行されるとよいと思います。
何を主張したいのかよく分かりません。
自らの行についてまくしたてているわけじゃなくて
八正道を七正道に矮小化している一部の論について
問題点を指摘しようとしただけなのだがね。
仏教の価値は、世俗諦だけではない。
世俗において、此岸において発展していく道だけでなく
涅槃に導く勝義諦、彼岸への道もあるんだよという話。
それがないと、仏教が形骸化するというか、すでにしている
状態から脱却・復興はかなわんと思うので。
悟りの智慧を、
悟っていない人間が
常識的な思考の範疇に収まるように解釈して理解して、
その理解の範疇に収まらない部分、つまり真の智慧(人智を超えた般若の智慧)を
迷信だといって切り捨てている。
そういう例がよく見受けられる。
常識に収まりきらないものごとには、二種類ある。
常識より下が迷信。
常識より上が智慧。宗教的真理として伝えられているもの。
人間理性には限界があることは知っているはずです。
常識より上もありますよ、というお話。
ひと言に簡潔にまとめると、
仏法が間違っているのではなくて、悟っていない人間が迷妄の中にいる。
人間が、理性的に判断しよう、と心掛ける時は、
自分の理性が正しいという無意識的、無自覚的前提があるから
なかなか気づけないものなんだよ。
そういうことが分かっている人は、神仏に対して素直に信を持てる。
(その隙を突いたのがカルト宗教だったので、本来、智慧を解する人も騙された)
言ってる内容が妥当かどうかは置いといてあなたにはそういう話に見えたんだね
●を見て丸と言う人もいれば点という人もいるし黒というひともいれば無常や仏と言うひともいるかもしれない
人は自分の内面性で知覚の対象を自分の好きなように判断しがち
>>60 あなたは仏教を形骸化から脱却させ、復興させようとしているんですか。
すごいですね。尊敬しますよ。頑張って下さいw
仏法が文学表現だというのも、典型的な矮小化だと思う。
>>66 自分自身が仏道実践を通して仏法を体現していくことが、仏法僧の興隆そのものだと思います。
社会を変えようというアプローチは、世俗的に感じます。
世俗と勝義が無矛盾に融合する境地もあるのかも知れませんがね。
まず坊さんが戒律も守っていないようなら、サンガが社会に根付くわけがない。
そうかといって他人に戒律を守れと強要できるものでもない。
だから自分がやればいい。
その延長線上に仏法の興隆があると思いたい。
>>68 その前に自分の考えをよく整理して、主張すべき事、すべきでない事を明確にして、
落ち着いて、簡潔で読みやすい文章にまとめて、なるべく連投しないで投稿した方がいいと思いますよ。
ここで質問
みなさんは妻帯者、子供もちですか?
愛別離苦の真理と照らし合わせたときに、妻や子供を持ったことを間違いだと思いますか?
やりなおせるなら結婚したり子作りはしなかったですか?
それとも、やはり正解だと思いますか?
ブッダは「愛する者を作るな」と言われました。
作ったことを公開してますか?
普通ならとっくに結婚して子供もいる歳だけど結婚もしなかったし子供もいない
今後もとくにしたいとも思わない
ただ結婚するしないとか、身内だ身内でないとか、そういう執着はなくなったので今後する機会ができたらするかもしれない
妻や子供でなかろうと人は必ず他者と共に暮らすのだから、妻や子供や誰かが身内であるとか身内でないとか、
そういう執着がなくなれば結婚してもしなくても、子供を作っても作らなくてもどちらでもいいと思う
執着が生まれるようなら修行者はまだ結婚しない方がいいし結婚してるなら相手に執着しなくなるように常に自分の内面を観るのがいいかもしれない
結婚しなくても親や兄弟という執着の対象になる身内はいるし、どのような状況でもそれに応じた修行はできるし、間違いというものはないと思うよ
>ブッダは「愛する者を作るな」と言われました。
出家修行する沙門にね
262 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、──これがこよなき幸せである。
結婚前はガンガンに瞑想できたが、結婚後、特に子どもができてからは瞑想はムリ。
自分は主夫なんだが、妻子の為に掃除したり洗濯したりご飯作ったり、一生懸命働く事自体がいい修行になってる。
妻より子どもに対する執着に気をつけないといけない。子どもは無我だと観察しないといけない。
出家より在家の方が大変な気がするが、慈悲の修行だと思ってしっかりやるしかない。後悔はしない。
現代における小乘仏教は
この2本の英文の論文でお終了
The Origins of Insight Meditation (内観修行の起源)
Lance Cousins (パーリ聖典協会(英: Pali Text Society, 略称:PTS)元会長)
http://www.ahandfulofleaves.org/documents/The%20Origin%20of%20Insight%20Meditation_Cousins_TBF_1994-96.pdf Buddhist Modernism and the Rhetoric of Meditative Experience
Robert Sharf
Professor of Buddhist Studies
Department of East Asian Languages and Cultures
University of California, Berkeley
http://www.ahandfulofleaves.org/documents/Articles/Buddhist-Modernism-and-the-Rhetoric-of-Meditative-Experience_Sharf_1995.pdf >>74 奥さんに食わせてもらってる寄生虫がいい修業w
ご立派。
>>76 そうかい世の中の主夫(主婦)は寄生虫なんだ。
君の奥さん、お母さんにもそう言ってみるといいよ。
君も、世の中の偉い人も、犯罪者も誰も、だいたいお母さんが育てたんだよ。
世の中はお母さんで回ってるんだ。
お母さんを馬鹿にするもんじゃないよ。
みなさん、返答ありがとうございました。
なるほど、「どのような状況でもそれに応じた修行はできるし、間違いというものはないと思うよ」
、また「一生懸命働く事自体がいい修行になってる」
同感です。
「父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと」
なるほど!眼からうろこが落ちました。
私は勉強不足から、在家と出家の心構えもわからず、自然な感覚も失っていたようです。
自分の出来る範囲で心を整え、人や仕事を大事にしながら、周囲と調和した生活を送ることが
大事なんですね
個人的には、慈悲の瞑想をするときも、自分が悟っていない以上は愛する人と嫌いな人ができてしまうのは仕方がない。
しかし、愛する人も嫌いな人も、同じ内容で苦しみ、同じように幸福を
求めているのだから、愛するままに嫌いなままに、できるだけ同じように観よう。同じようにメッターを送ろうと
思っています。
ここでも言い争いや、ぶつかり合いが出来るだけ少ないことをのぞみます。
コンディションや気候でイライラすることが多いにしても、他者への意見を流すことは修行になるはず
自分は体調不良でイライラすることがあります。
自律訓練法はサマタ瞑想だと思いますが、上座部では類似したイメージ瞑想はあるのでしょうかね。
チベット仏教では、なんその法にそっくりな体調に働きかける瞑想があるみたいですが。
個人的には、慈悲の瞑想をするときも、自分が悟っていない以上は愛する人と嫌いな人ができてしまうのは仕方がない。
しかし、愛する人も嫌いな人も、同じ内容で苦しみ、同じように幸福を
求めているのだから、愛するままに嫌いなままに、できるだけ同じように観よう。同じようにメッターを送ろうと
思っています。
ここでも言い争いや、ぶつかり合いが出来るだけ少ないことをのぞみます。
コンディションや気候でイライラすることが多いにしても、他者への意見を流すことは修行になるはず
自分は体調不良でイライラすることがあります。
自律訓練法はサマタ瞑想だと思いますが、上座部では類似したイメージ瞑想はあるのでしょうかね。
チベット仏教では、なんその法にそっくりな体調に働きかける瞑想があるみたいですが。
慈悲の瞑想の中で、愛するとか嫌いなという点は
自分の心の中に向かって慈悲を向けているんだけど
>>81 慈悲の瞑想もサマタ瞑想の一種ですよ。
あまり愛するとか、嫌いなとかを気にせずに、
集中力の訓練だと思ってやったほうがいいですよ。
慈悲の言葉、慈悲の念に集中するんです。
慈悲の瞑想がサマタ瞑想でしかないなら対象を様々に分けず生き生けるものに対してだけでいいわけで
様々な対象に分けて念を用いるのは心髄観や観の要素が含まれているからだと思いますよ
対象の違いによって念じながら自分の反応も変わりますしね
>>85 さすがにヴィパッサナーを混ぜるのは良くないですよ。
「生きとし生けるものが幸せでありますように。」しか使わない人もいますし、
集中してサマーディに入れば、言葉も要らなくなります。慈悲の気持ちだけで瞑想できます。
心随念は四念処として集中してやったほうがいいと思います。
>>86 意図して混ぜるというわけではないですが、慈悲を念じる中で無意識的にも自然と自分の心の反応に気づいていく部分があると思います
もちろん生きとし生けるものしか使わないとかサマタとしてできるとは思いますよ
どんな行為でも単純化すればサマタとしてできますし
アナパナもサマタとしてする場合、観としてする場合と分けている方もいますしその人がどういう風にするかで変わると思います
ただテーラワーダの慈悲の対象を分けて念じていく慈悲の瞑想だと観の要素は自然と含まれるのが普通というのが自分の見方です
悟ることは差別をする清廉さの方が。好き嫌いがある自分をさとす理性だって
まやかしかもしれないし。何か心が一極になるときという経験はあるけど、
自分の姿が哀れで、人を差別なく愛そうとするなんて、嫌悪感情の上に行くものでもないだろう。
大念住経に沿って日常生活を送った場合、人と接している時も
正念を保って話したり、行動したりしますよね。
慈悲の念から発した言動って、具体的には相手によって変わる
ものじゃありませんか。
各人、おかれている状況もニーズも違うわけですから。
そういう実践の場において、慈随念をどう捉えてらっしゃいますか?
>ここでも言い争いや、ぶつかり合いが出来るだけ少ないことをのぞみます。
読んでると、皆、大なり小なり見解を抱え異なっているもので。
紳士に語っても、いや、こうでしょうと、衝突してますでしょ。
教えも修行も流派ありで一枚岩でなく、
スマサナーラ氏も他の宗教を貶めるし、何事も批評、批判、指摘が
ないと立派なら、その役に成りきる宗教者なら他にいらっしゃいます。
5ちゃんの論争は、さざ波みたいなもので、縁起し流動する泡沫、
嫌に思うなら見に来ない方がいいし、反応しなければいいだけのことで、
長い論争もないし、許容力もって目くじら立てず ほっとくのが2ちゃんからの慣習。
わざと煽ること書いて、どんな反応か確かめる暇人もいますよ。
>>89 気にしたことがない。
慈悲は二の次。
正念相続が第一。
>>84-87 「慈しみの思考」の著者サヤドー・ヤウェイヌエ師によると、
慈悲の瞑想で集中が高まったら、その慈悲の感覚をヴィパッサナーで観るのもいいし、
ヴィパッサナー実践者じゃなくても単に慈悲の瞑想をするだけでもいいし、ということでした
この本では、仕事に赴く前に、その仕事先の土地を守っている神や仕事で関わる人に
慈しみを送っておくと良い、とのことが書いてありました。
>>74 ご家族の方もテーラワーダの仏教徒ですか?
私は結婚しなきゃいけない歳なのですが
日本で仏教に理解のある結婚相手を見つけるのって凄く難しそうです。
このまま修行を続けて独身で死んでも仕方ないとは思ってますがね。
>>93 結婚は勢い。
相手がどうだとか金がどうだとか言ってたらムリ。
しかし無理矢理やるもんでもないし、自分磨きが先だろうね。
心身共に、バチバチに鍛えると女の方から寄ってくる。
私はプラユキさんが指導しているチャルーン・サティやりつつ、
アーナパーナ・サティとヨガ(アーサとプラーナ・ヤーマ)に取り組んでいるよ
朝、アーサナとプナーナ・ヤーマやってからチャルーン・サティ
仕事から帰ってきた後にプラーナ・ヤーマとチャルーン・サティ
夜寝る前にプラーナ・ヤーマ+チャルーン・サティ+アーナパーナ・サティ
余談だけど、仕事はサービス業なので平日休みが多い
>>84 > あまり愛するとか、嫌いなとかを気にせずに、
> 集中力の訓練だと思ってやったほうがいいですよ。
> 慈悲の言葉、慈悲の念に集中するんです。
マントラじゃないんだからそれは違うと思うけどな。個人的には
僕は完全に仏教原理主義です。
仏教は完全に正しいと思ってます。
解脱こそが唯一無二の目標です。
おおっ!?
俺はなんでこんなスレに書き込んでいるんだ!?(ビックソ💦
よく観てなかったけどID:uthbT7tf氏のカキコもよく見ると
相手によって言い方買えてるようだし
>>84のカキコもちょっとニュアンス的にどうかなと思っただけ
>>84 > 慈悲の瞑想もサマタ瞑想の一種ですよ。
> あまり愛するとか、嫌いなとかを気にせずに、
> 慈悲の念に集中するんです。
俺もほとんど気にしてないしやってもないから
ただの戯言と思ってスルーしてくれ
タイ仏教瞑想センターってどうだろ
やってるのはサマタ瞑想みたいだけど。
タイは別の上座部仏教国からは大乗よりって評価みたいだね
瞑想がアップされてる
@YouTube >>98 テーラワーダ信者+日本の神仏スキーだけどだらだら波羅蜜積みながら三因者になったり天道に生まれ変わって幸せに輪廻したいわい
ブッダの実践心理学2巻心の分析読んでるんですがなかなか手強いですね
このシリーズ8巻まであるようなので一通り読むだけでも大変そう、1回だけだと理解もあやふやだろうし、、、みんなこんなのばっちり理解してものにしていったんですか?自信なくなるわ
>>104 読まなくてもいいですよ。むしろ読んでしまうと先入観から瞑想に支障が出る場合があります。
理解すべきは自分の心です。自分の心が教科書であり答えです。
瞑想をして自分の心を観察するのが第一にやるべきことです。
自分の心を観察し終った後に、答え合わせとして読むのがいいと思います。
ブッダの実践心理学今まで数回ほどは通して読んだし参考にするにはいいと思うけどな
細かく書かれているから答え合わせとしてもいいよね
用語とかも多いし自分もちゃんと理解してるわけじゃないけど修行がすすんで読むと分かる部分が出てくると思うよ
7、8巻が瞑想に関して独立したような内容だからそこは読むといい気もする
>>106 瞑想はもちろんやってるし実践の方が大事なのは承知してますが教学も怠らずやりなさいとうかがっていますので9対1か8対2の割合で少しでも勉強してるんです、実際瞑想後に本読むと理解しやすいですね
>>107 やっぱり複数回繰り返していくもんですねそうですよね、ありがとうございます。8巻あってボリュームたっぷりですが数年ごとによみなおしていくかんじでやっていこうと思います
頑張ってくださいね。
同じ仏教を学ぶものとして、励んでまいりましょう。
>>104 長老の本は話しが脱線するから藤本晃版かウェープッラ版が勉強用にはいいよ
読み直しが簡単だから
自分的には長老の本はあくまでアビダンマに興味を持つための導入だった
>>111 少し先になりそうですが読み比べて学んでみようとおもいます、楽しそう
ありがとうございます
質問なのですが、有身見って要するに、
言葉や思考が作り上げた(自己)イメージということでいいんでしょうか?
すいません、抜けていました。
受、行、想、識を自己とみることが有身見だということは分かっています(ですよね?)
ただ、色は自己だと思うのですが。。。
書き込みしてから気づいたんですが、五蘊の中の色が自己ではないというのは、
諸行無常、諸法無我から導きだれることなんでしょうか?
それなら納得なのですが、ネット上ではこのような意見を見つけられませんでした。
えーっと…少なくとも上座部では、色(物質、肉体)にはまったく認識能力がないし、法としても善でも不善もない中立とされてますよ
現代科学みたいに神経細胞によって認識してるとか、そういう唯物論的な視点じゃないので。
脳=心みたいな随伴現象論に従ってらっしゃるのかな?色が自己と仰られたので勝手に想像で話してますが。
ちまたでは、「仏教は科学」とか言われてるから誤解されるのも無理はないですけど、
基本的に仏教って上座部であれ大乗であれ(もちろんチベットも)心身二元論ですよ。科学とはフレームワークが全然違います
(禅だけが心身一如とか言いますけど、如浄禅師と道元禅師は精神と物質の二元論に従ってるのは
『宝慶記』をちゃんと読んでから『正法眼蔵』を読み直せば分かると思います)
というか、相応部の経典をちょっと探せば
「色は常であろうか、無常であろうか?」、「無常です、世尊よ」
…「ではこのように苦である色は、自己であろうか、自己ならざるものであろうか?」、「自己ならざるものです、世尊よ」みたいな文章があるのを見つけられると思いますよ
>>色は自己だと思うのですが。。。
「修行僧たちよ、もし色が我(=自己)であるならば、色は病いにかかることはないし、また色に対して
『私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな』と命じることが出来るであろう。
しかし修行僧たちよ、実に色は無我(=非自己)であるから色は病いにかかり、また色に対して
『私の色はこのようになれ、私の色はこのようになるな』と命じることが出来ないのである。
受・想・行・識も上に同じ。<無我相経>
「修行僧たちよ、そなたらはどう思うか。色は常であるか、無常であるか。」
「尊師よ、無常であります。」
「無常なるものは苦であるか、楽であるか。」
「尊師よ、苦であります。」
「無常であり、苦であり、壊れるものを『これは私のものである、これは私である、これは私の我である』
と見るのは正しいか。」
「尊師よ、それは正しくありません。」
受・想・行・識も上に同じ。<無我相経>
「修行僧たちよ、それゆえ、色であるものは何であれ、過去のものでも、未来のものでも、現在のものでも、
内部のものでも、外部のものでも、粗いものでも、細いものでも、劣ったものでも、優れたものでも、
遠いものでも、近いものでも、そのすべての色を『これは私のものではない、これは私ではない、
これは私の我(=自己)ではない』とこのようにあるがままに正しい智慧によって見るべきである。」
受・想・行・識も上に同じ。<無我相経>
自分のものであるならば、自分の思い通りになるはずであるが、残念ながら自分の思い通りにはならない。
自分の思い通りにならないものは、「我が物にあらず、無我=非我、私のものではない」と観念しなさい
という事でありましょうか。
>>114 六門で観たほうが分かりやすいかも
眼耳鼻舌身意は無常、苦、無我
肉体は私のものではない
>>116 >>118 >>119 コメントありがとうございます。皆さんが言われたこと全て納得しました。
まだ疑問があるのですが、自分で考えて解決できそうなので、そうしたいと思います。
ありがとうございました。
本日、上弦🌓布薩日です。
確か、仏教が存続して行く条件の一つに、布薩を行う在家信者というのがあったと思ふ。
一方、天からは
「 八日の斎日には、四天王がもろもろの臣を派遣して、社会の状況を視察せしめて、誰が善行を
なし、誰が悪をなし、また何人が父母に孝順に、また師長を尊敬し、何人が好んで布施をなし、
忍辱、精進を、また経義を説き、八斎日をよく持っているかどうか、というような社会の人々の
行為を調査せしめるのである。」(増一阿含経第十六)
と云ふ。
>>115 解脱すると、五蘊(色受想行識)の滅を見る。(体現される) そこで、これらが諸行無常なるものに由来していたのだと知ることができる。
また、解脱後は人としては数えられない存在となる(実感される)が、これは人無我ゆえのことであったのだと知る。(つまり衆生は、実は無我なるものを我だと思っている。)
なお、法無我は、法(ダルマ)の由来を説明するものであるが、これは解脱の機縁たる法の句(善知識)が我とは無関係であることを覚知することによって得られるものである。
色は、形態(rupa)作用のことを意味しているが、これは解脱によって恒久的に実感される受想識の滅を見て、その根底にまず行(潜在的形成力)の消滅を認知し、それは色=形態(rupa)作用の滅によるものであろうという構成概念に達する。
よって、先の問いへの答えとしては、「解脱によって五蘊(色受想行識)の滅を見る故に、諸行無常を知り、その根本のメカ二ズムの説明として法無我が語られる」ということになる。
P.S.
釈尊は、これらに関して次のように説いている。
『歓喜の愛に基づく生存が尽き、表象や意識作用も尽きるが故に、感受作用が止滅するが故に、静止がある』(サンユッタ・ニカーヤT)
>>124 善知識は普通、師匠とか仏教に詳しい人の事を言うと思いますが。
人無我、法無我はブッダの時代には無い概念ですよ。
ブッダはただ、諸法無我としか説いていません。
http://www.j-theravada.net/qa/qahp47.html >>124 コメントありがとうございます。
分かる箇所と分からないところがありますが、分かるように精進していきたいと思います。
すごく為になりました。ありがとうございました。
김재성「순관(純觀, suddha-vipassanā)에 대하여」
http://cfile282.uf.daum.net/attach/137428194C62C0F49B00C4 (金 宰晟「純観(suddha-vipassanā)について―南方上座部仏教修行の一考察」)
今までは不浄観の瞑想は人間の死体画像で済ませてたんですが
思い切って、人間の解剖動画にしてみたら
思った以上に効きましたね。心が落ち着きました。
ブッダの感謝いたします。
性欲の克服は難しいんではないでしょうか?
克服したいなぁ。
できたら人生もっと生きやすくなるのは分かってるんですが、なかなか。
チャルーンサティと歩行瞑想をメインにやってるんですが近行定ってこの2つではいれるもんなのでしょうか、それともアナパナか慈悲の瞑想などのサマタが必要になりますか?
アーナパーナは普通サマタじゃなくてヴィパッサナーとしてやるはず。
自分の場合、ヴィパッサナーでは瞬間定しか経験無い。
歩行瞑想でも、足裏の感覚だけにしっかり集中して、サマタとしてやれば近行定にも入れると思う。
慈悲の瞑想なら確実に入れる。
>>131 プエラリアか女性ホルモンでも飲めば?
AGA予防にもなるし肌も綺麗になるぞ
>>134 そういう方法もあるんですね。でもそういうのはやめておきます。
たまに瞑想とかで靜まる時があるので、この方向でいこうと思っています。
理想は瞑想と洞察で性欲を暴走させないようにすることです。
頑張っていきたいと思っています。
💀💀💀💀💀💀💀💀💀💀
本日、満月🌕布薩日。
『 十五日🌕の説戒の時には、四天王🤴🤴🤴🤴みずから来下して、人民の実情を視察する👁。
この時も、頽廃した人民の実情をみる時は、帝釈はじめ諸天はみな心配してよろこばず😞、人の行うべき常道を守
っている世態を知るときは、欣然としてことごとくよろこぶのである😊。』
☠☠☠☠☠☠☠☠☠☠☠☠
>>135 瞑想以外にも、日々の食事を安心できる相手と採るとか
いっぱい笑える映画みるとか、サウナで汗をたっぷりかくとか
すうっとスカッとすることを丁寧にできますか?
こまごまとした不満が積もると「性欲」で代償しようと
する場合があるけど けっこう自分じゃ気が付かないから。
また、こまごまとした不満を瞑想で 全部まとめてスカッとすることにも
生活智を下げてしまって、人を離れやすく寂しくなるから気を付けて。
>>137 お気遣いありがとうございます。
とりあえず、自慰行為などの行き過ぎた性欲に関しては(と自分で思っている)、
八正道を実践してみて、これで克服できそうな感覚はあります。
毎日、毎時間、戦いですが。進歩は感じられるので、いつか。。。と思っています。
>>138 将来、伴侶やお子さんもできるのでは・・・
自慰行為は正常な性欲だと思いますよ。
八正道、効果を実感されてるんですね。
九正道めがあるとしたら・・
正欲=頂いて当然の個人的幸せや快感を得る欲をもつこと
と追加したいですね。
八正道は解脱を目標としているので、「正欲」はありえません。解脱のためになる正しい欲はありません。
眼耳鼻舌身意に対する欲すら無くさなくてはいけません。生きることも、死ぬことも諦めなくてはいけません。
>>141 八正道が解脱を目的としていても
だれもが解脱を目指すひつようはありませんよ。
ある程度、整った生活態度ができて健康になれば
股間のほうも元気になるのは普通の事です。
男に性欲が生じるのは自分が男だと思っていることに起因している
しばらく自分が女だと思って生活してみたらいい、不思議なほど性欲は湧かなくなる
つまり一般人は性欲は身体に生じる自然なものと思っているけど実はそうではない
もちろん身体に自然な性欲(気持ちよさからの反応)はあるけどそれは性器を実際に触られたりして生じるもの
女の裸を見たくらいで生じるものではないし、まして目の前に女性もいないのに頭の中で女性や性的なことを想像して生じるものではない
自分が男だとか女だとかいう心の中の観念がなくなれば実際の性行為を始めない限り(性器を刺激するまで)性欲はわかない
そして日常においては性行為を始めよう始めたいと思う気持ちもとくにわかない
>>129 ミャンマーでは性欲抑えられない若いお坊さんがドイツから取り寄せた医学目的の解剖映像とか使うこともあるらしいね
俺は若い頃瞑想三昧だった時期があるけど、性欲は全く湧かなかったなぁ。
頭の中を忙しくして、スキが無いようにすれば性欲は湧かない。
悟りに向かってまっしぐらだった時期だから。
ヒマになるとどうしてもね。遊びたくなる。
ダンマパダより
旅に出て、もしも自分よりもすぐれた者か、または自分にひとしい者に出会わなかったら、むしろきっぱりと独りで行け。
愚かな者を道伴(づ)れにしてはならぬ。
愚かな者は生涯賢者に仕えても、真理を知ることが無い。匙が汁の味を知ることができないように。
あさはかな愚人どもは、自己に対して仇敵(かたき)に対するようにふるまう。悪い行いをして、苦い果実(このみ)をむすぶ。
愚かな者に念慮(おもい)が生じても、ついにかれには不利なことになってしまう。その念慮は彼の好運(しあわせ)を滅ぼし、かれの頭を打ち砕く。
>>143 綺麗な女性がいると咄嗟にカッコイイ所見せたいとか
モテたいとか良く思われたいってないの?
良く思われたい為、服装やおしゃべりに気を付ける。
けっこう人間性を成長させてくれるよ、性欲!
エネルギーだからさ
よく使うか悪く使うか?自分の判断しだいで
ゴミなんかじゃないよ。
俺は性欲すら乗り越えた男・・・・・
貴様らとは違う。
っていうの、自己陶酔といって恋愛感情を自分に向けてるだけだからね。
素直に可愛い女の子に惚れてもらいましょう ほめてもらいましょう
瞑想が進むと、世の中のさまざまなトラブルの大半は種の保存のための性欲から
来てることが分かってくる。男同士の喧嘩とか、意地の張り合いとかね。
顛倒夢想の大本。クンダリニーとか性エネルギーを使って悟りに導く方法もあるけど、
それはテーラワーダ仏教じゃない。
お釈迦様が在家には性行為やめろと言ってないから、節度を保ってれば在家なら
問題ないと思う。
五戒では性行為は問題ないけど、八斎戒だと禁止。
子作り以外は控えた方が良い。
性欲は恐しい。
頭がおかしくなって、自殺する人もいる。
>>150 >五戒では性行為は問題ないけど、八斎戒だと禁止。
>子作り以外は控えた方が良い。
子作りで、排卵日だからHしましょうって言われても
正直立たないよ
普通にHしてた頃がなつかしい
>性欲は恐しい。
>頭がおかしくなって、自殺する人もいる。
ため込まなければ、屈折しないよ。
https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/data/gaiyou/odaproject/asia/srilanka/contents_01.html 人材育成奨学計画 実施年度
平成30年度 供与限度額 2.65億円
案件概要
この計画は,スリランカの若手行政官等が,我が国で学位を取得するために必要な
学費等を供与するものです。
裨益効果 この協力により,最大で修士課程15名及び博士課程2名のスリランカの
行政官等が自国の開発や発展に必要な各分野の専門的知識を習得し,帰国後,同国
政府の開発課題の解決等に貢献することが期待されます。また,日・スリランカ間
の相互理解及び友好関係の構築に寄与することが期待されます。
>>151 スクワットしたらいいよ。
下半身鍛えたらいくらでも立つ。
>ため込まなければ、屈折しないよ。
男女のもつれで刺したり刺されたり心中したりってあるでしょう。
ストーカーに刺されたりもあるし。
強姦殺人からの自殺とかね。
食糧援助 実施年度
平成28年度 供与限度額 22.20億円
案件概要
(1)スリランカでは,約240万人が食糧援助を必要とする状況であり,
子供と女性の約4分の1が栄養失調の状態にあります。また,季節風の影響を強く
受ける島国であるとの特質から豪雨などの自然災害が頻発し,特に低所得者の食
糧と栄養に悪影響を与えています。
★午前中しか食事をとらない程度の事で やっすい尊敬買ってる坊主と★
★子供・女性の1/4に上るという栄養失調のひと どっちが太ってるんだろうね★
★これだけ日本から援助してもらって、スマナサーラから感謝の言葉ひとつ聞★
★いたことが無い。まだ足りない、まだ足りないとばかり信者からかすめ取る★
>>153 肉体労働なのよ 筋肉はあるんだ
ありがとね 立たないんだなw
あんた結婚してるの?
>>155 してるよ。
食事を減らしてみるとかどうかな。
飢餓状態だと子孫を残す本能みたいなのが目覚めるかも。
小食や断食をすると俺は性欲は全くなくなるが、
旺盛になる人もいるらしいな
どのくらい長くやるのかにもよるのかもしれんが
自分は阿羅漢より不還果になりたいと思っていたんですが、
存在することそのものが苦であると分かりつつある今、
阿羅漢の方が素晴らしい存在だと思うようになりました。
たとえ天界であろうとも、存在することは苦なんですね。
このことが頭ではなく、身体で分かったのですが、ちょっと衝撃でした。
阿羅漢は存在ではないけどね。
素晴らしくもないし。
>>157 ひとごとだと思ってwwwwこいつ!
ちなみに貧血餅で重労働なので食事減らしにくいのね。
でも食べ過ぎはアソコによくないね。
インスタントも・・・
在家でも預流果ってなれるもんなんですかね
なれるとしたらそれの流派はマハーシやゴエンカ、パオ、ティクナットハン、プラユキどこでも精進しだいでいけるんでしょうか
>>164 在家でもなれますよ。
どこのメソッドを選ぶかというより、自分の精進次第だと思います。
自己流でも大事な部分を知っていれば、なれると思います。
>>164 まずしっかり、今生で解脱すると誓願して、五戒をしっかり守り、慈悲の瞑想をして、
四念処をやれば普通に悟れます。本気なら。
預流果なら5、6年でいけると思います。
おお、ありがとうございます5-6年とかあっという間じゃないですか
引き続き精進します
仏教を学びまくっても預流果になれるようだけど
自分で今、悟ったって気づくもんなのかな?
5、6年なら楽勝だ、すぐに悟れるぜ、と思う人は10年以上かかる。
5、6年もかかるのか、人間いつ死ぬのか分からないのに、と思う人は早く終わる。
ここに愚者と智者のふたりがいたと想定しよう。愚者は、例えばここでオレンジを一個買う。それを食べて、そのおいしさを味わったとしよう。次の日も二個 三個四個と買って飽きるまで食べる。
そして、オレンジに飽きる。もはやおいしくはない。次はリンゴにしよう。彼はリンゴを食べる。飽きるまで食べる。 次はバナナだ。バナナで同じことを繰り返す。
ここで、智者だったらどういうプロセスを辿るのかね。その人は、オレンジに飽きたとき、「なぜ私はオレンジに飽きたんだろう?」と考える。
そして、「私は今度は、リンゴを食べたいと思っているけど、ひょっとしたらリンゴにも飽きるんじゃないか。」っという考えに至るだろうね。
そして、リンゴに挑戦するとき、 「その時の心の変化をできるだけ客観的に見ていこうじゃないか。」と決心する。そして、リンゴを食べていきながら、個数を増やしていきながら、心の変化を理解していく。
そうするとね、オレンジとリンゴ、これくらいで飽きる経験はすんでしまうわけだ。飽きる経験がすんでしまうから、次のバナナまでいかない。いく必要がないんだ。
オレンジやリンゴがね、車に変わっても同じだね。例えばブルーバード、例えばスカイライン、例えばシビック。初めにブルーバードに乗っていてね、
飽きてスカイラインにする。次はシビックにしてみる。これと、オレンジ、リンゴ、バナナのプロセスは全く同じだ。異性について考えても同じだよ。
A子さん、B子さん、C子さんと心が移っていくプロセス、これも全く同じだ。
私達は、だから、もしオレンジで心の動きを理解したならば、車に対しても異性に対しても、惑わされることはないだろう。その時、自ずと悟りが訪れます。
急に、悟り、なんて言葉がでてきてびっくりしたかな。オレンジや車と悟りが、なにやらつり合わないような気がするかもしれない。
しかし、悟りとは心の動き、あるいは真我がどのようにして闇の中に入っていくかをね、客観的に見て理解できる状態のことなんだ。いいですか。これが悟りのプロセスだ。
>>172 無常・苦・無我を観る
↓
道果心が生じる
↓
煩悩が滅せられる
>>168 聞いただけで悟れるのは略説智者と広説智者だけですね
あとは修行して悟る人と、今生では悟れない二因心の人
現世で悟れなかったら輪廻転生後また人間界に生まれなきゃならんよな?解脱までの道のりは長いな
>>170 これ、麻原の説法だね。
「生死を超えるか」、「イニシエーション」に載ってたやつじゃなかったかな。
>>176 天人でも修行すれば悟れるんじゃない?
ただ五欲の快楽がたくさん得られるから解脱しようとは思わないと思うけど
ほんとに靴箱いねーでやんの
マインドフルネススレでボコられ中だからねw
>>178 天界は楽ばかりの世界だから
やりたくても修行ができないみたい。
だから私達は天界の方より得してるんですね。
有難く修行を頑張りましょう。
人間界は苦痛だが仏教との出会いがあり輪廻転生からの解脱が可能なのも人間界つまり極限修行にチャンスはないから現世で頑張って修行しようね
念と定が以前より強くなったのか、
全ての感覚が過剰に感じるようになった。
大好きなごはんメニューも食べるのが少し苦痛だったな。
もうすぐYahoo!ジオシティーズがサービスを終了するみたいですけど、
菩提樹文庫ってたしかYahoo!ジオシティーズで作られてますよね。
移転とかリンク切れとか大丈夫でしょうかね?
Sayalay-Panna-adhikaさんが何とかしてくれるでしょ
3年ほど、腹6分目にしていた間 目覚めは清明といったさわやかな感じ。
落ち込むこともほぼなく、疲れ知らずで明るく仕事をしていた。
食べ過ぎず自己管理できている感触は気分もよかった。
が、趣味の集まりで仏教と関係ない新しい友人ができた
爆盛りのステーキをたいらげ、一時間後には小腹が空いたと唐揚げw
気が付くと、またトンカツ定食なんかを頼んでいる。
明るくて、サッカーや登山を楽しんでいて全然太らない。
まぁ、彼女こそいなかったが・・w
自分は、不必要なものは最初から入れない主義だった。
断捨離の必要がないくらいミニマリスト。
反対の生き方してる人と付き合うと、気づかされるものがあるね。
欲が多くても不幸にはならないし、いろいろやり過ぎちゃったって
長い目で見たら帳尻が合う。
日本の四字熟語で言うと、文武両道っていう感じ。
>>131 高須クリニックの整形手術動画を見てみてください。
Youtubeで見られますよ。
これで結構、性欲が抑えられました。
性欲を抑えると心が明るくなりますよ!
性欲が強いと性別ばかり目が行って人間にとって普遍的な部分があまり見れなくなってしまうからな
>>187 でもまあ人それぞれの体質?もあるんじゃない?
腹6分目だと内臓に負担かからなさそうだね
それで疲れずメンタルも良好なんだ
今は違うのかな
性欲について、
「性的純潔の誓いを立てた人のエネルギーはすべて、絶えず上方に向けられています。
肉体と精神と感覚器官の流れ全体が、より高い進化レベルへと向けられており、
エネルギーが下向きに流れる可能性はありません。それと同じく、瞑想者の精神が内深くに入って行くときにも同様の効果があります。」
http://maharishi.web.fc2.com/letter96.htm という感じかも。
ラマナがそういう言い方するのかと思ったらマハリシってマヘッシュヨーギの方か
>>194 うん
つーかヒンドゥー教の聖者って胡散臭いのばっかり
ラマナ・マハルシ以外
>>196 言ってることはアドヴァイタで邪見だけど真面目な行者だったと思うからね
仏教はヒンドゥ教の亜流だよ?
外道なんてことはない
スマナサーラが日本でテーラワーダを広めたせいか選民主義的なカルト脳が多いよな。
在家は普通にセックスすればいいんでないの?
やりすぎでなければ。
>>200 ヴェーダーンタを邪見と見ないのはチベットのチョナン派ぐらいじゃね
仏陀がいたころ外道とされたヒンドゥー教とラマナ・マハルシあたりのヒンドゥーの解釈はちょっと違うから
ヒンドゥーは外道って言う人と、仏教もヒンドゥーも同じと言ってる人の間では話がだいたい噛み合ってないよね
よく言うのが仏教は無常、無我だからヒンドゥーのような神や真我のような無常でないものを認めないってのも、ラマナとかはそういう意味で神や真我って言葉使ってないし
今のアドヴァイタ系の人達のいう真我の定義は、魂とかいうことではなくて、
全体性(無常性・無我性)という意味で使っている人が多いと思われる。
だからそういう意味で真我(全体性)を説いている人達はある程度まで自我が滅ぼされている可能性があると考えていいのかもしれない。
そう考えるなら仏教の悟りとも交わる部分があるね。
そうそう、ラマナあたりのアドヴァイタで言われてるのは心でも体でもない観照者の確立でそれってヴィパッサナーの観察と同じようなもんなんだよね
でも仏教においては観照者のような主体はないって話になるんだろうけど、アドヴァイタでも次に観照者も消えて主客がなくなるって説かれてるし、
主客もなにもないなら仏教で言われてる悟りや涅槃と変わらなくなってくる
神や真我を説明のための比喩や方便と思えば仏教との違いってそれほどないんだよね
主客がなければ我と呼べるものはないし(無我)、主客から出来た相対的な世間を出た出世間(悟り、涅槃)とも言えるんじゃない?
梵我一如と涅槃は違うとされる。
仏教的な言い方になってしまうが、梵我一如は第三禅定までの境地である。煩悩は一時的に抑えられるが、滅尽には至らない。上手く定力を使って転生すれば、来世は梵天界に生まれることが出来るが、輪廻の輪から離れることは無い。
対する涅槃は定力こそ使うが、現象の無常・苦・無我を看破することを言う。煩悩の滅尽が伴い、全ての煩悩を滅して阿羅漢になった後、寿命が尽きれば輪廻から解脱する。
パチンコ三昧で我が無くなった人、トランス状態の人、脳に障害をおって自分が認識できなくなった人は無我(夢中)だけども悟っている訳じゃない。
何故ブッダは三法印を説いたのか。一つでも他の二つを説明できるのに。無常、苦、無我の三つの側面を正しく説明できてこそ悟りでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%8A%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%82%B7 >特別扱いされることを好まず、平等を重視していた。。。自分の食事が人より多く盛られているのに気付くと、厳しくしかった。
ちなみにラマナさんは同等慢がおありのようで。
>>209 失礼。三法印は無常、苦、無我じゃないですね。勘違いでした。
>>206 主客がない不二不一を悟りとするのは大乗仏教
無常しか理解してない人
「世の中は常に変化している。今を楽しもう。今の私が本当の私です。」
苦しか理解してない人
「世の中には苦しみしかない。永遠の苦しみだ。神の国、浄土は永遠の楽だ。神、仏を信仰して私を捨てなくては行けない。」
無我しか理解してない人
「私はどこにもない。どこにもないところに真の私、我がある。それは永遠の喜びであり、不変不滅だ。」
〜しか理解してない、ということって起きるかね??
瞑想していて
無常も苦も無我も関連してるからよほど考えが足りないか盲信してるかしないと自然と考察に出て来るでしょ
色々な嫌がらせされてるけど、我慢してたらよい方向に向かうことを信じてる
皆さんサマタ瞑想は呼吸の瞑想だけやってはるんでしょうか?
>>218 はい。すいません慈悲の瞑想が抜けてました。
サマタ瞑想って何十種類もあるとネットで見たのですが、
上記の瞑想だけで十分なんでしょうか?
ちょっと専門的な質問になりますが。
一日中、行住坐臥、呼吸に気をつけていれば涅槃にいたる。みたいな経典なかったっけ?
アーナパーナサティでも、マハーサティパッターナでもなくて。
>>219 下記の4種のサマタは四護衛禅として修行者に勧められている。
仏随念
慈心観
不浄観
死随念
不浄観以外は問題無いけれど、不浄観は初心の場合、気を付けて避けた方が善いです。
危険を伴うので、善き師の指導の下でやるか、死ぬ覚悟でやるか。
大念住経の冒頭が「入出息念」から始まっているのは、その様な過去の経緯からの様です。
瞑想終わってベッドで横になってたら、急に背骨が下から上に向かって順に白く光だしたように感じた
どうせ、クンダリーニ上昇もどきの魔境だよね
気を付けるべ
ずっと背骨と胃の辺りがポカポカして暖かいのが続いている
何じゃこれ
魔境ってあんまりしっかり定義されてない適当な言葉だよな。
仏陀が梵天や自在天と話をしても魔境とは言われない。
その他が話せば魔境といわれるだろう。
執着する魅力を感じたり、五感のコントロールを失ったり、常在だとみなしてしまう可能性のある対象が魔境でしょ
魔境でも執着しなければただ現われて消えていくもので魔境とならないし
>>221 ありがとうございます。知らないのがあったので、やってみます。
>>222 忠告ありがとうございます。
十不浄というものがありますが、これのことでしょうか。
確かに危険そうですね。。。ちょっとやってみたらショックを受けました。
>>229 「ヴァジラー経」(『相応部』5-10)
ときに、ヴァジラー比丘尼が…アンダ林へ入って、とある木の根元で昼住をなすべく坐った。
そこに悪魔が、ヴァジラー比丘尼に恐怖、硬直、身の毛のよだちを起こすことを欲し、禅定より退かせることを欲して、ヴァジラー比丘尼に近づいた。
近づいて、ヴァジラー比丘尼に偈をもって語りかけた。
♪どのような場合に有情は生起し、どのような場合に有情は滅するのか」と。
ときにヴァジラー比丘尼に、この〔思い〕が起こった。
「偈を発しているこの者は何者だろうか。人か、人ならざる者か」と。
ときにヴァジラー比丘尼に、この〔思い〕が起こった。
「これは悪魔で、私に恐怖、硬直、身の毛のよだちを起こすことを欲し、禅定より退かせることを欲して偈を発しているのだ」と。
そこでヴァジラー比丘尼は、「この者は悪魔である」と知って、悪魔へ諸偈を発した。
「♪何を『有情だ』と信じているのか。悪魔よ、そなたには悪見がある。
♪これは単なる諸行の集積であり、ここに有情は得られない。
♪あたかも、部品の集起より『車』という語がおこる、
♪そのように、諸蘊があるとき、『有情』という仮名がおこるのである。
♪苦なる〔諸蘊〕のみが発生しているのであり、また苦なる〔諸蘊〕が持続し、消失しているのである。
♪苦なる〔諸蘊〕以外のものが発生しているのではなく、苦なる〔諸蘊〕以外のものが消滅しているのではない」
そこで悪魔は「ヴァジラー比丘尼は私を知っているのだ」と苦しみ、落胆し、そこから消失した。
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これが魔境だろうか?
>>231 その例は原始仏典という仏教内での権威なんで仏教徒には魔境扱いされないんじゃないか。
それを自分の体験として他人に告白したら一般人には病気だと言われ
仏教徒には魔境と言われる可能性があるよ。
魔境って宗派によって違ったりするのでは?
例えば、神秘体験を一切否定する禅宗では神秘体験全般は魔境だし、
逆にパオでは光が見えたり前世が見えたりする事は魔境ではないだろうし。
>>231 実際には自分の中の悪魔、煩悩、怠けとの自問自答だと思う。
一時出家したいなぁ。
ちょっと頑張って周りを説得してみるか。
三昧の光と幻覚の光は全然違うと思うのだけど、三昧の経験がない人は
言葉で聞く限り区別は付かないでしょう。
どちらの話を聞いても、言葉という記号から連想される概念が生じるだけだから。
禅宗でも、三昧に入ってる人は光を見てるはずだと思うのだがなぁ。
言わないだけで。
禅宗の人も見えたりするだろうけど、見えても気にしないって立場だし、それを明確にしたり瞑想に使っていく上座部とはたいぶ違うと思う
瞑想すれば見えてくるもんではあるけど光やニミッタを使うみたいなことはパーリ経典にも明確に書いてあることではないし経典解釈から導き出されたもんだし
師匠以外の人に瞑想体験を話しても、おかしなことになる可能性が大過ぎて
話す気になれない。
なにがどうおかしなことになるのかわからないけど、話す必要のないことは話さないでいたらいいと思いますよ
言葉は思考を伝えるものなので、
思考してない状態を伝達するのは原理的に無理だと思ってる。
禅宗で言われる不立文字って、たぶん同じことを言ってるんじゃないかと。
まぁ、わたしは悟りの境地は知らないけれども。
慈悲の瞑想で心の中で唱える文言がありますが、
慣れてきたら、文言を唱えるかわりに、
慈悲の念を発する(意念する)という風にするのは間違っているでしょうか?
間違ってないと思う
ラベリング(内言)もサティの手段であって、しっかりと気づきを保っていられるならしなくてもいいと言われてるし
>>244 なるほど、ありがとうございます。
言葉を心の中で唱えるより、
祈るように意念する方が自然にできるような気がしています。
でもまだやり始めたばかりなので、言葉を唱えようと思います。
本日上弦🌓布薩日
タイでは明日の様ですが、テーラワーダの暦では小の月(29日)と大の月(30日)が単純に交互に
来る様になっている為、実際の月の運行とは一致せず、月の運行通りに作れば今日となる。
大般涅槃経から(岩波では「ブッダ最後の旅」)
――
「修行僧たちよ。それでは、ここでわたしは【法】を知って説示したが、お前たちは、
それを良くたもって、実践し、実修し、盛んにしなさい。それは、清浄な行ないが
長くつづき、久しく存続するように、ということをめざすのであって、そのことが、
多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐れむために、
神々と人々との利益・幸福になるためである。」
ここで言う【法】とは、
・四念処
・四正勤
・四神足
・五根
・五力
・七覚支
・八聖道
の事であるが、お釈迦様がその【法】を説いたのは
「それは、【清浄な行い】が長くつづき、久しく存続するように、ということを
めざす」為であり、
そのことが
「多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐れむ
ために、神々と人々との利益・幸福になるためである。」
と言うのです。
【清浄な行い】とはブラフマー神がそうであるように独身を守るという清浄行を
意味する。
テーラワーダ僧が独身戒を守る、【清浄な行い】を為すのは
「多くの人々の利益のために、多くの人々の幸福のために、世間の人々を憐れむ
ために、神々と人々との利益・幸福になるため」と言える。
>>250 達磨さんがなかなか来ないので、教えてください
>>251 テーラワーダの悟りは渇愛の滅尽
禅の悟りは主客未分の不二の境地
>>251 達磨さんはインドから来たテーラワーダの人。
禅もテーラワーダも根っこは同じ。
真理や悟りは時代、場所で変わらない。
>>252 横から失礼します。
ほうほう、お詳しいですね。
主客未分とか初めて知りました。興味深い。
>>252 仏教では滅尽定より色界の四禅定、特に第四禅が理想なのではないですか?
>>252 「主客未分の不二の境地」と「滅尽」では何が違うのですか?
テーラワーダの悟りは渇愛の滅尽
禅の悟りは主客未分の不二の境地
ポッタン師の悟りは大爆笑の境地
258.大爆笑できない境地では失格である。呵々大笑である。
>>255 滅尽定は阿羅漢だけが入れる涅槃の先取り体験の禅定。意識は存在しなくて、禅定から出た後にその境地を追想できるといわれてる。
第四禅を重視するのはパオかな?なんでパオが第四禅をあんなに重視するのか理解できんけど
『清浄道論』でプッサデーワという長老が仏隨念の近行定だけでヴィパッサナーを行って阿羅漢になったと説明されてるので
テーラワーダ的には初禅だけでも悟れるはず
>>256 滅尽定じゃなくて「渇愛を滅ぼすこと」ね。厭離、離欲とかなんでもいいけど、一切の欲望を捨て去ること。
テーラワーダでは例えば無常を悟っただけでは解脱とは言わなくて、
無常をありのままに見て、それによって執著すべきものは何もないと見て、「すべての欲を厭い離れるること」が解脱の完成
禅は、認識するもの/認識されるものの区別がない、不二の境地を体験すれば、欲望(渇愛)を捨ててなくてもそれで悟り
>>260 「渇愛の滅尽」でも主客身分の不二の境地になるのですか?
テーラワーダは在家信者への正しい生き方を教えてくれてますが
禅は在家信者へ正しい生き方は教えてくれるのですか?
方法論に問題がある。
渇愛の滅尽、はない。
不二の境地はない。
誰も方法論なんか語ってないし
単に誰かに質問されて定義を教えてただけじゃん
いっつもピントずれてるよねw
まあそう言っても分かんないだろうがwww
264.悟っていないバカが言う、ことである。大爆笑である。
>>260 阿羅漢は慢がないため、自他の区別はないはずだろうと思いますが、
これは主客未分の不二の境地とは異なるのですか?
それとも、一境性を経験したら、それで悟りっていう意味なのだろうか。
四禅まで頑張ったらいけないとか、まるで悪いことのように言及される風潮は何なのか。
どこから来るものなのか。
近行定にしか入れない人が、近行定の最中に悟った。
だから近行定だけでいいじゃないか、という論理なのか。
すでに四禅まで修めている人が、近行定の仏随念の最中に悟った。
だけど、あえて四禅は不要で、近行定だけで行くことを奨めているのか。
どっちなのか。
本日満月🌕布薩日。
テーラワーダ=仏教の悟りと言えば次の三種である。
@正自覚者の悟り(sammāsambodhi)
A独覚者の悟り(paccekabodhi)
B弟子の悟り(sāvakabodhi)
このうち@が大乗でABは小乗に当たる。
B弟子の悟りはさらに三種に分かれ、
@)第一弟子の悟り(aggasāvakabodhi)
A)大弟子の悟り(mahāsāvakabodhi)
B)一般弟子の悟り(pakatisāvakabodhi)がある。
都合五種の悟りが説かれる。
@),A),B)にはそれぞれ悟りの発展段階として、
預流果
一来果
不還果
阿羅漢果
の四段階がある。
したがって我々は、今日存在しているゴータマブッダの教えの下で、
正自覚の悟り、独覚者の悟り、第一弟子の悟り、大弟子の悟り、一般弟子の悟りという
五つの悟りのうち、自分に相応しい悟りを請願し、比丘出家の波羅蜜を実践して行く
努力をしなければならないであろう。──「南方上座部仏教儀式集」
比丘ではないのにおこがましいが私も目標としている悟りはある。
比丘ではない皆様は如何か。
>>270 >>比丘ではない皆様は如何か。
自分は不還果を目指している。今は不還向か一来果の状態。←おこがましいか・・・
阿羅漢までいかなくても、これで十分だと思っている。
出家できるぐらいの強い気持ちがあればいいのだけど、在家が幸福だから、
多分、上座部仏教圏の国に生まれたとしても、出家しないだろうな。
三結が消えており、戒が後退することがなく
なおかつ涅槃を見たということか。
預流果以上なら、来世、人間界に来ることあるかな。
菩薩行やるために、わざわざ来る以外で。
>>271 そこまでの段階に来た人って
どんな生活してるのですか?
どんな一日を送っているのか教えてほしいです。
>>271
在家が阿羅漢になれば、その日の内に出家しないと死ぬのでは...
そうならない為には、日本にサンガがもっと広まって大勢でなければならないね。
尚且つそれが日本人ばかりのサンガであるならなお善い。
日本にも仏教が定着する証であるから。
希望としてはあるが私の場合、阿羅漢はどう頑張っても今世では無理。預流果でさえ...
>>273
菩薩行は仏を目指す人の修行だから、そんな人が預流果に成ると、もう仏には成れない
のでは...
阿毘跋致(あびばっち、avinivartanīya)が大乗にとっての預流果でしょ
>>270 禅定不要論は、一般の在家に向けた指導方針であって
比丘と同じようにはいかないよ、っていうことでしょうか。
おそらくそうだと思うのですが、だからといって比丘や、在家でも禅定に
入れる人もいるのだから、その人たちを間違い、みたいに思い込むのは
勘違いだと思います。
>>274 サティ・気づきは何をするにしても、ほぼ常にあります。
克服できていない煩悩に惑わされている時以外はね。
貪欲、瞋恚はコントロールできている感覚がありますが、
五上分結の煩悩には振り回されているという感じです。
どのような生活をしているかということですが、普通の生活です。
他の人と違うところは、煩悩に対する付き合い方の違いというところだと思います。
テーラワーダを学ぶ上で「この一冊」という重要な本があったら
教えてください
>>280 ポー・オー・パユットー『仏法』
読んだら感想を聞かせてね
これって宮崎哲弥がおすすめしてた本だな
なんでも輪廻転生を否定するようなことが書かれているらしい
輪廻転生を否定する比丘なんかおらんと思うよ。
宮崎さんが読めば、そういう解釈になるというだけだろうな、多分。
大乗の中観帰謬論証派は輪廻を否定している!って言ってた人だからね、宮哲さんは
なんにでも自分の思想を投影しちゃうんでしょ
瞑想の実践はしておられないようなので、思弁のみによる仏法解釈。
自我が思考によって唯物論の範疇を抜け出すことは、ほぼ不可能だろうし
唯物論を前提とする限り、論理的思考の帰結は輪廻転生の否定、もしくは
思考の範囲内におさまるように解釈された概念に行き着かざるを得ない、
と思います。
それも道の過程なのでしょうけれども。
頭で考えたら、人間が理解できる概念にしかならん。
そんなことは分かりきってる。
地球が平らだと信じていた時代と、本質的に全然なんにも変わってない。
>>259 アンカーもろくに打てないようなカスが書き込みとか10年早いよw
>>286 単なる知識を記憶しただけで、分析や直視をせず、ただ知識という言語理解だけの文法的認識をもって分かった気になるな
っていうことですね
輪廻転生の主体はないと言われるけど
自我を生みだすメカニズムが、それだという言い方もできる。
そして自我を生みだすメカニズム自体には、自我がない。
もともと無我。
言葉で(論理で)説明すると、輪廻転生の主体は無我だ、無我が
輪廻の主体だということになってしまう(と思う)。
これは頭で考えてもらっても、ナンセンスとか、論理矛盾にしか
ならないし、そういうワケで輪廻転生なんてない、という結論が
世の中にあふれることになる。
輪廻転生があるという主張の根拠は、身体がなくても意識は働くし
それを見たら分かることであって、何も難しいことじゃないじゃない。
言葉で言語化、概念化するから小難しくなるだけで。
言葉と思考自体が、自我存在を前提にしているから仕方ないのだろうけど。
>>293 気づき。
少なくとも、普段の「わたし」という自我の感覚や思考がそれを捉えるわけじゃない。
それは消えてしまう。
輪廻転生はほんと難しい
自分はそのメカニズムがよくわからない
唯識なんか読んでもきちんと説明されてない
輪廻は業相続みたいに言われてるよね
自分が個だという思い、執着のエネルギー、積んできた業が次の生としての個に相続される
しかしそれら個としての自分というのは錯覚で自分は無我だという観点からは輪廻はない
つまり無我だとはっきりわかったらもう輪廻しない
>>296 昔からそう言われてるから、ということで納得している人は多そう
自分は輪廻があってもなくてもどっちでもいいという立場
悟れば生きる苦しみは減るわけだから、輪廻のことまで考えなくていい、という感じで
仏道の最終的な到達点は涅槃。
それがアートマンと同じだろうか、という問いには、一応、教学的に回答は可能だと思う。
勝義諦、つまり究極の実在は四つとされる。
それは心、心所、色、涅槃。
アートマンという語を、色(心と心所)を指すものと定義している場合、それは涅槃とは異なる。
つまり、仏教徒は異なることを意味する。
それが涅槃を指している場合、用いる語は違っても仏教と同じことを言っていることになる。
あくまで理論上の話。
ついでに言うと、唯物論は「色」のみが実在しており
他は存在していないという立場、ということになる。
>>300 [訂正]
× 色(心と心所)
○ 名(心と心所)
勝義諦全体を指す言葉として、「空性」があると考えているが、これは個人的な仮説でしかない。
この仮説に基づくと、アートマンが空性を指している場合、大乗仏教の悟りの同じことを言っている可能性がある。
単純に、自我の本体として想定される概念、魂と同じような意味で理解されている文脈も、よく見かける。
要するに、定義による。
>>299 ナートマンってアナートマンのこと?
アートマンに非ずっていうアナートマンってのもあるよね
釈迦在世の頃のヒンドゥー教と今のヒンドュー教の用語定義はまたちょっと違うと思う
上にも書かれてるけど定義次第と言えるんじゃないかなあ
釈迦が言ったのは無我なのか非我なのかってのもよく議論されてるし
いま非二元とかで言われてるヒンドュー教の考えだとアートマンはブラフマンで主客がなく、アナートマン(非我)と同じ意味で使われてるように思う
昔ヴィッパッサナーでおかしくなった者だけど10年ぐらい立つしまたいってもいいかな
>>300 理論上なら「一切法は我ならざるものである」(諸法無我)だから無為法たる涅槃も我じゃないよ
それともどこかの経典に「涅槃はアートマンである」という言葉があるのなら話は別だけども
>>305 どうぞ
ヴィパッサナーが百パーセント安全なんて言ってるのはスマ長老くらいだから
>>305 おかしくなったって具体的にどうなったの?
>>306 パーリ増支部の「自性清浄心」がアートマンの別意である、との主張をみかけたのですがどう思われますか?
>>311 大乗の人が本覚思想の根拠にしてるのは知ってるけどアートマンだって言ってる仏教徒はいないねぇ
アーナパーナ瞑想での質問なのですが、
タッチングポイントって1時間、2時間瞑想を続けられるようになっても
意識しているものなんでしょうか?
自分の場合集中してくると、時間そのもの経過がわからなくなるので、意識なんてできないなあ。
>>313 ディーパンカラ・サヤレーの「集中力の開発」に詳しい説明があるよ。
自分の場合、あれが一番分かりやすかった。
>>307 仮に方法論が100%安全でも、自分の業は100%確実に業果を結ぶ、
ってことだと理解してる。
>>314 それが自然な状態っぽいですよね。
ただ、どのサイトを見ても、瞑想が深まってからのタッチングポイントについての言及がないので、困惑しています。
外していいのか意識したままなのか、どっちなのか、という。
>>315 わー、ありがとうございます。
見てみます。
自分は鼻腔の入口あたりを感じてるけどね。
ある程度集中が深まったら、呼吸を観つつ、身受心法を観ればいいんじゃないの?
身受心法の観察中に、妄想が出たり、集中が切れたり、身受心法に目立ったものが無ければ、呼吸に戻る。
それの繰り返しでいいと思いますが。
>>318 「出入息念」という名前が、すでに答えのような気がする。
でも厳密な意味でのアーナパーナサティは、第四禅定まで作って、
そこから六門に対して無常、離貪、滅尽、捨を観察するのかも知れないけど、
在家はそこまでできないと思う。
ある程度集中が高まったら、呼吸を中心とした四念処をやるのがいいと思う。
いわゆる普通のヴィパッサナー瞑想ね。
ある程度集中が高まる状態 って何?
集中状態にはスッと入り込むので、集中しているかしていないかの二極しかない気がするのだけど。
日本人なのになぜ座禅ではなくヴィパッサナーをやっているのですか?
貴方の場合はそうなんじゃないの。
本当に雑念や妄想に一瞬たりとも流されていないならね。
>>323 名前が違うだけで、内容は同じだと思っています。
それと、師僧との縁ですかね。
>>323 テーラワーダーの瞑想は座禅を含んでいると思います
妄想雑念を気づきで密閉する。
気づきを隙間なく敷き詰めて、心を妄想雑念のない真空状態にする。
一瞬でその状態になれるなら、相当、心は安定しているんじゃないかな。
素晴らしいと思う。
>>326 逆にいうとテーラワーダーには座禅に含まれない瞑想もあるのですか?
それは何ですか?
>>328 ID変わりましたが326です。
私もまだ初心者で、なんとなくそう感じている程度です。申し訳ありません。
ご質問に対する返答ですが、ヴィパッサナー瞑想が代表ではないかと思います。
ご期待に応える返答ではなくてすいません。
>>328 彼岸に至るためには、止と観の双方が必要であろうけれども、座禅は
止観のうち止だけであろう、という見方に基づく理解だと思います。
また逆に、大乗仏教側からは、大乗仏教の悟り(空性の悟り)は、小乗
の阿羅漢果とは違う、と言われたりもします。
歩く瞑想=経行は曹洞宗などでやってますね
眠くなりにくくて良いですね
>>327 テーラワーダってこんなに難しい瞑想をしているのか。
普通の人にはできないな
>>327 それはスマ長老の解釈した四念処瞑想じゃね
マハシの四念処は別に妄想をシャットアウトする方法論じゃなくて、
気がそれたり、心がさまよったら、それに自覚的であればいいんだよ
スマ長老のはもうマハシとは別のスマナサーラ・メソッドって命名してもいいくらい極端だわ
@YouTube テーラワーダの十不浄とは違うようですが不浄観の動画を見つけました。
かなり刺激が強いですのでご自分の責任で見てください。
皆さんが幸せでありますように。
>>338 クリックしてみたけど怖すぎて見れない
おそろしや・・・
>>336 妄想をしない = 真剣に、集中してやる
だからね。違うメソッドじゃなくて、一生懸命やってるだけ。
テーラワーダ仏教に出会って半年経って、取り組むようになって2か月ほどですが、明らかな進歩が見られています。
上に不浄観に関する動画があがっていますが、特に性欲に関しては、
正念、正定がしっかりしていれば、制御不能になることはないと感じています。
近いうちに完全に制御下におけるものと感じています。
これからの変化が楽しみですね。
自分は元キリスト教徒ですが、お釈迦さまの教えにあずかれてよかったと思います。
>>338 求道者より医師の方が事実を事実として観照出来る「事実」
刹那定で観察するのパオみたいにも四禅から出定して観察するのも、五蓋を鎮伏するためだよ
サマディなしで観察してても、
欲界のなかに埋没して、欲界のできごとを経験しているだけだから
欲界の外には出られないんじゃないかと思う。
臨済「諸方からやって来るお前達、皆な下心を持って仏を求め法を求めて、解脱して、三界を出離しようとする。
お前達は愚か者だ。三界を出て、一体何処に行こうというのか。」
仏陀に帰依しているので、おそらく文脈が違う。
わたしは自己をすべて捨てる覚悟でやってる。
異なる文脈でジャッジしないでもらいたい。
仏弟子は大乗批判しないのに、大乗は仏弟子を一方的にレイプしてくる。
如来はまっすぐ涅槃に向かうように教えた。
一部の仏弟子は、如来になることを目指した。
長い劫を経て菩薩が如来になったら、またその如来はまっすぐ涅槃に向かうことを教えるだろう。
だったら、いままっすぐ涅槃に向かおうとしている人の足をひっぱるのは何故なのか。
解脱の先延ばしか、涅槃を知らないからではないのか。
真の菩薩は、仏弟子が涅槃に向かうことを誹謗したりしないと思っている。
【創価学会は朝鮮族支配のカルトです】
オウムに人材と資金提供していたようです。
犯罪教団のお手本であり創価学会は、現世利益を看板にしてし、おびただしい数の出版物を半強制的に買わせる異常に気持ち悪い卑劣鬼畜外道ドブネズミです。
創価学会は、批判者や脱会者に対し、脅迫、尾行、見張り、嫌がらせ、怪電話、怪文書、暴行、傷害、盗聴等々、あらゆる犯罪的手段を用いて攻撃します。
創価学会を私物化した池田大作の野望は、日本の国家機構を乗っ取り、絶対支配者となる ということです。
同時に、創価学会は、司法界、官僚、警察、マスコミ界等へ、池田大作私兵を送り込む作業を長年にわたり組織的に続けています。 j
創価学会の会員は何かにつけ込まれ、無理矢理入信されられた方がほとんどです。
つまり、被害者なわけで救い出すチャンスはあると思います。
皆様とともに、どうしたら彼らを救い出すことができるかどうかを話し合ってみたいと思います。
池田大作先生を信じ、崇拝したところで、幸せが訪れるでしょうか?
創価学会は撲滅するべきです
備考 その他の入ってはいけないランキングです
アレフ、統一教会、顕正会、エボバの証人、法の華 /
創価学会被害者の会 浪速建設 岸本晃(キシモトアキラ)
禅って何も考えずただ座るだけでいいんかな
テーラワーダーのは何かしらするよね
「わたし」がすべてを捨てて涅槃に向かう。いつになったら行けるだろうか。
欲界から出たい、サマーディが必要な「わたし」が。
大乗を批判しない仏弟子である「わたし」が。
涅槃、解脱は、今この瞬間に、妄想分別を断ち切り、六根の働きこそ真実の自己であると、はっきり信じきった時に得られる。
あれこれと追い求めていはいけない、五欲を求めてはいけない、ブッダであろうと、何であろうと、妄想概念は全て切り殺せ。
そうやってはじめて、自由自在な悟りを得ることができる。
というような事が臨済録に書いてある。岩波文庫で。オススメします。
>>356 言葉遊びはやらないよ。
禅宗でしっかり禅の修行したなら、言葉遊びに拘泥しないはず。
わたしがサマディに入るのではない。
欲界心(五蓋)を脱いだら、色界のサマディに入る。
そこに欲界のわたしはいないし、欲界のわたしが色界に入るわけじゃない。
そのたの三昧も同じこと。
禅宗の人が禅をやらずに概念化してるから、禅が廃れるんじゃないか。
三界の全てにわたしを見い出さないのが悟りですよ。
そしてそれは全ての概念を頭の中から追い出す必要がある。
その為の努力の歴史が禅ですよ。
悟りのためにはサマーディもいらない、禅もいらない、ブッダもいらない、何もいらない。
ただ今の瞬間に妄想を捨てる。
というような事も長い禅の歴史には語られてますよ。
臨済は禅を修めてるんだから、三昧に入ってるわけ。
上座部の修行僧が三昧に入ろうとした時だけ、「わたしが云々なんぞ
なんとかかんとかぞね」とか言うのは、ただの難癖。
大乗の悟りは、勝義諦の四つをすべてひっくるめて言ってるだけ。
勝義諦の涅槃だけが、勝義諦ではないなんていってない。
言葉の運用が違うに過ぎない。
× 勝義諦の涅槃だけが、勝義諦ではないなんていってない。
○ 涅槃だけが勝義諦だなどとはいってない。
それであなたは悟れましたか?
サマーディに入って、欲界から出て、観察して。
慢が消えましたか?
阿羅漢果に悟りました?
>>354 何も考えず座ってるのにどうして観(vipassanaa)が成就するのか謎でしかない
気づきにも自然な気づきと、努力する気づきがある。
気づきがあれば、無常、苦、無我を感じることができる。
無常、苦、無我を感じれば我が弱くなる、無くなる。
我が無くなれば悟れる。
ヴィパッサナーをやれば、観察すれば悟れるんでしょう、と思っている人は悟れない。
悟り、涅槃という目的に「わたし」という修行者が、ヴィパッサナーという手段で向かうという思い、我が出てきてしまう。
禅だろうが、テーラワーダだろうが、今この瞬間に妄想はしない、絶対に諦めない、死んでもかまわない、と決意できる人は悟れる。
あなた自身悟れましたか? 決心してどれくらいで悟れますか。
数回生まれ変わるぐらいですか。もしかして今生でもいけますか。
実際どの決意が一番成就するのが難しかったですか。
今生でいけます。
死ぬのは簡単ですが、妄想しないというのはツラいです。
頭がおかしくなりそうになります。
泣きながらでも瞑想するしかないです。
人によりけりでしょうが、5、6年かかると思います。在家なら。
とにかく貧乏をして、なるべく人と付き合わず、瞑想に専念するといいと思います。
僕の場合ですが、元々スピリチュアルなことに興味があって、
そういう生活を7年ぐらいしていて、気づいたらいつの間にか悟っていたという感じですね。
自分が変わったということが分かって、いろいろ調べていて、
テーラワーダーに出会い、預流果というものになっていたことが分かりました。
瞑想の習慣はありませんでした。回り道をしたとは思います。
でも、最初から仏教に触れていたら、悟れたかどうかわかりませんね。途中でやめていた可能性が高いです。
僕の場合は、スピリチュアルがいい導入になったという感じです。
>>370 一番成就するのが難しかったのは、有身見をなくすことです。
自分を忘れる、自我を薄めることに長期間取り組んでいたら、いつの間にかなくなっていました。
短期間では難しいと思います。じっくり取り組んだら、成功するのではないでしょうか。
突然ですがお助け下さい ご教授下さい 少し前に仏教でいう縁起 無我 無常の理解にヴィパサナで到達しました その後の修行方法について何かご存知ではないでしょうか?
現在はあんなに集中出来ていたヴィパサナをやるのも何故か困難になってしまい 部屋の中でサマタでも無くヴィパサナでも無く 目を瞑って真っ暗闇の中でただ意識がある というのを見ている状態です
少し前までは まだ何かを見ていたい 聞いていたい 触っていたい 考えていたい そういう感覚がまだあったんですが 最近はそれさえも辛いというか煩わしいという風に段々と変化してきています
残っているのは衣食住を確保しないといけないという思いが一つ まだ何か出来ることやり残したことがあるのではないかという漠然とした思いが一つ 次の段階があるのではないか?というのが一つ 自分で確認出来るのはこの三つぐらいです
理解の瞬間以降は力が抜けてしまい 凄く楽ではあります この状態で瞑想法のようなものはあるのでしょうか? よろしくお願い致します
いちおう、有身見が無くなる瞬間は衝撃が走りますけどね。
自分というのは存在しない、初めから無いのにずっと勘違いをしていた、と気付くことですから。
自我をどうこうするのは良くないです。どうこうしようとする事が自我を強化してしまう。
そもそも悟るまでは自我が何なのかさえ分かりません。分かっていたら始めから無我でしょう。
>>374 それは多分ウツです。
悟ると思いに惑わされなくなります。
思いには実体が無い、無我なので放っておけばよい、と理解します。
それまでは煩わしくても、思いが出てきても、困難であっても、瞑想して下さい。最後まで。
ある男が冒険の旅に出た。洞窟の奥深くで大きな宝箱を発見した。
しかし鍵がかかっている。鍵は無い。しょうがないので男は宝箱を担いで家に向かった。
帰り道、山賊に狙われたり、川で溺れそうになりながら、ようやく家に帰った。
専用の工具なんかを使ってその宝箱を開けてみると、中身は空だった。男はズッコケた。
無我を悟って、有身見が無くなると、その50倍はズッコケます。自分というものは無い、空だった。
空の為に今まで何十年も無駄に苦労してきた。なんて馬鹿だったんだ、無知だったんだと気づきます。
同時にもう二度と、存在しない自我の為に苦労する事は無いと知って、安心感が芽生えます。
自分は無いのだから、死のうが生きようが、焼かれようが刺されようが、どうでもいい事じゃないか、と頭では理解しますが、
心にはまだ恐怖、不安、欲、が残っていることに気づきます。まだ修行が残っていることに気づきます。
無常、苦、無我をいちおう理解しているので、特に混乱することなく、たんたんと残りの修行を続けます。
>>379 正社員は無理でしょうね。
責任がある仕事だと、頭の中にどうしてもひっかかりができます。
単純作業のアルバイトなんかはいいですよ。
瞑想しながら仕事ができます。
人付き合いがネックになってきますが、慈悲の瞑想をやればだいたい大丈夫です。
酒や遊びの付き合いの誘惑に負けないように気をつけた方がいいです。
ここで悟った、もしくは悟ることができると述べている人たちは解脱もしているのかな。
みなさんが言っている悟ることと解脱はまた別の話?
阿羅漢に悟れば即、解脱。
不還果ならば死後、梵天に生まれてから解脱。
一来果ならばもう一回人間に生まれてから解脱。
預流果なら、7回まで人間、天に生まれてから解脱。
今日思ったのだけど、前世、
預流だった、一来だったと主張する人がいないのはなぜなんだろう?
前世とか来世なんて存在しないのかもね
あ、そういえば人は前世のことは忘れて生まれてくるんだった
と、信頼できる筋は言っていたけれど
生まれ変わったら別の人間で、記憶は続いてないからね。
思うに道元禅師は一来果だったんじゃないかと思う。
身心脱落、大悟徹底の話は出てくるが、見性、最初の悟りの話が出てこない。
あまりにも修行完成が早すぎる。
>>386 なるほど。ちなみに、前世のことを覚えていないのは、今世の混乱になるかららしい。
悟りは心の状態というから、記憶は関係ないのかもね。
まあ生まれ変わりは信仰に部類できると思う。
神通力で確かめられたら別だけど、経典の中での話だから、遠い話だし。
よく考えたら、前世の記憶がないのは当たり前だった。
脳細胞が全部変わるわけだからw
>>376 ご紹介ありがとうございます 流石にここはお詳しい方が多いですね 繰り返し繰り返し現象の消滅を確認して興味が無くなる度合いを深めていく とりあえずそこは読み取れました
苦手なんですがもうすこし詳しく読み込んでみます
大変参考になりました 感謝致します
>>377 ウツの可能性もあるということですね 自分の状態は確かに見えにくいことも瞑想で何度も理解していますので なるべく客観的に自分を見て判断したいと思います 有難うございました
>>374 前後の文脈が分からないので、その部分だけみて判断することだけれども
「わたし」が「(三界)世間」だからでしょ。
拈華微笑のエピソードにでてくる蓮の花。
捻ったところで、見せる角度が違うだけで同じ蓮の花だからね。
上座部も大乗も、結局、最終的には同じことなんじゃないの(仮説)。
理屈はそうなのに、映画「LUCY」の様に物質に介入出来る者を見た事が無い
それは何故なのか
例えばもし、映画の登場人物が生き物だったとすると、
スクリーンに映る登場人物は、映写機やスクリーンを見ることはできないと思う。
それと同じことのような気がする。
スマナサーラ長老によれば、地水火風を生み出しているのが心だということが分かれば、
物質化みたいな事は出来るらしい。ほんとかどうだか分からないけど。
なにそれ
どこの経典にそんなこと書いてあるんだろう
仏陀の神変の話は、書いてない経典を探す方が難しくない?
まず前提として、人間自我が頭で考える理性というのは、かなり制約がかかってる。
頭で考えて、人智を超えた領域の真偽を判定できると思っているとしたら、その認識
自体がかなり怪しい。
頭で考えた論理で真偽を判定できるのは、人間が頭で生みだした宗教概念や
文学作品の範囲に限られる。
また、物理法則で真偽を判定できるのは、物質の範囲に限られると思う。
智慧は人智の外だし、三界はこの物理世界だけではないので、考えただけで
すべてが分かるわけじゃない。
瞑想をしない人が頭で考えた場合、論理的であればあるほど、
輪廻転生はないし、神通力も実在しない、という結論にしかならない。
なぜなら、前提が唯物論だから。
なので、厳格な仏教徒を自認する人でも、真顔で「仏陀は輪廻を否定した」
と話すことになる。
瞑想やってる人たちは、その辺の事情は分かってるので、本人が自分で
気づくまで黙って待ってる。
逆説的にいえば、物質に影響を及ぼせずに「悟った」と自称する者は何者なのか?と
全ての物質に無自性を認めているのならば
悟っていない人が阿羅漢を見ても、エゴをもった自我の塊にしか見えないんじゃなかろうか。
ただし、
この理屈を悪用して悪事を働く人間もいるから要注意ではある。
瞑想やれば、輪廻転生と神通力があるってわかるのかいな。
あるんじゃないかな、というぐらいの理解だけど、断定できるだけの確信はない。
瞑想はやってるけど。。。
>>393 スマナサーラさんがそんなこと言うとは意外だわ
シッディに価値をおくなというのは仏教の基本だけど、
あまりにも自明のこととして語られてたりしてびっくりすることはある
インドの聖人や中国の仙人にもそういう物質化の話ってあるよね
神通力に執着するのは自我だけど、自我をすてないとその領域に入っていけないからね。
瞑想は健康に良い、ぐらいの表現にしておかないと一般には受け入れられないかも知れん。
唯物論を前提として、自我が考えるわけだから、出てくる結論はその前提が許す範囲を出ることはない。
結果、迷信としての宗教であるか、オカルトの類だとみられるリスクを負うことになる。
ガンが無くなろうが、物質をどういじろうが、人間は最後には死んでしまうわけで。
死ぬよりも前に、やることがあるだろうと。
神通力で遊んでる場合じゃないだろうと。
三明六通の最後は、漏尽通。
煩悩を断じ尽くす阿羅漢の明知。
神通力という言葉に何を見いだしているのかによる。
だが結局のところ、正念を連続させる以外のすべては無駄。
まあ世間の楽しみってどれだけ欲を満足させるかとかだからなぁ
一度この道を知ってしまうと、そこから離れそうとするのだけれど
ほとんどの人はそんな世界があるなんて知らないだろうな
>>405 パオメソッドはまあ、未来予知したりフリーダムだから…
お釈迦さまも阿羅漢も、自我の制約からフリーダムだからな。
メソッドや流派をみて、それぞれが違う仏教だと思っているなら、
それはまだ仏教を概念的に思考で捉えている段階だということ。
自力と他力が同じことだと分かる頃には、そういう区別も消える。
うかつに他宗や他流派を批判するのは避けた方が賢明。
異なる部派や宗派は、此岸から彼岸に向かうための異なる乗り物だと思って、
変に混ぜない方が良いだろう、とは思います。
五蓋を突き抜けて疑を打ち砕くまで、自分が信頼を寄せる法門のみに専心
するのが良いと思います。
知識や概念の段階で混ぜると、おそらく混乱や遠回りの原因になりかねず
危険かも知れません。
行き詰まると手段を変えちゃってます
ラマナ禅ヴィパサナ等
呼吸の観察は共通してますね
>>409 俗世間の最下層にいる馬鹿を出世間というんだ馬鹿。
世間知らず。
世間の尺度で上とか下とか判断するモノサシは、あくまで此岸の価値観。
出世間というのは、此岸を離れて彼岸に向かう方向を指す。
価値判断の軸が違う。
凡夫の王様と乞食の聖者に上下を付けさせたら、その人のモノサシを
モノサシにかけられるかも知れない。
言葉の厳密な定義は、勝義諦、あるいは到彼岸のことなのかな。
詳しい人が、気が向いたら教えてくれるかも。
以前ここでアーナパーナ瞑想のタッチングポイントについて質問させていただいた者です。
つい先日、タッチングポイントは集中が深まったら気にしなくていいと書いてあるサイトを見つけました。
ご報告まで。
>>407 >神通力で遊んでる場合じゃないだろう
「使えるのに使わない」若しくは「使う必要性を感じなくなる」事と、「使えない」事とは全く意味が異なるけどね
>>419 菩提樹文庫のパオ・セヤドーというものでした
仕事探してるのですが
清掃の仕事などは瞑想と相性いいですか?
仕事と瞑想は分けた方がいいかと
仕事から帰ってから瞑想しましょう
私は警備員のアルバイトをしてた時、仕事中、少しゆっくり目に歩いて瞑想してました。
忙しくない仕事ならいいんじゃないですかね。
自分のペースでやっても怒られない職場なら。
>>421 瞑想との相性は分からないけれど、
清掃の仕事は誰の不幸にもならない、皆が幸福になることだから、いいと思う
ありがとうございます
警備員か清掃で探して見たいと思います
>>425 あ、虫とか殺さなければならない状況になったら…。
…どうする?
>>426 極力殺さないようにしたいですが
状況によっては殺してしまうかもしれませんね
飲食も考えてたんですがこれで葛藤しそうな気がして避けようかと
煩悩と本能の違いを考えている。
悟ったら本能はどうなるのだろう。
本能がなくなったら死んじゃうよね。
本能をありさまを
眺めることができるなら
身体やこの世界の営みから
離れた感じがするね
不還果や阿羅漢は欲界への煩悩がなくなっているというけれど、本能はなくならないんでしょう?
それって何か不思議。寝たい、食べたいという本能が欲する渇望はなくせない。
寝ないと死んじゃう。食べないでも死んじゃう。だから、死なないために渇望があって、それに従うわけだ。
お釈迦さまは悟った時、そのまま入滅されようとした、というけれど
実際にはお腹が減ったら、食べたい、という欲求が生まれると思うんだ。
スッタニパータ
795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。
かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。
本能的欲求は放っておくんじゃないでしょうか。腹が減ったら食べるし、疲れたら寝る。
おお、ありがとうございます。
ふむふむ・・・なるほど。答えの一部が書いてあるような気がします。
特に興味深いのが、離欲を貪ることもない、というところですね。きもに命じたい言葉です。
まだ何かご教示いただける方おられましたら、お願いいたします。
不還果、阿羅漢が本能をどう見なしているか、ということを知りたいです。
本能的欲求もいきすぎると貪欲になってしまう。
だから中道を保っていきすぎないようにしよう。
ということなんでしょうか。
でも本能的欲求もいきすぎると貪欲になるということだから、
本能的欲求は欲望のカテゴリーに入る、ということにはならないでしょうか?
本能的欲求の延長線上に貪欲がある、と。
本能という言葉はあいまいですから、あまり気にしない方がいいと思います。
「ここまでは本能だからオッケー」などと自分を甘やかす原因になりそうです。
生きていくのに必要最低限の欲は大丈夫。とした方がいいと思います。
在家なら最低限の性欲も大丈夫だと思います。
それよりも、仏教では渇愛を無くせといいます。
渇愛は五感に対する欲望、生存欲、非生存欲です。
>>435 >>それよりも、仏教では渇愛を無くせといいます。
>>渇愛は五感に対する欲望、生存欲、非生存欲です。
なるほど。。。それが大事なのですね。
たしかに、必要だからする、というのとは違いますね。
行き過ぎると欲望になるだけで。
https://twitter.com/mindful_bonpu/status/1061924233855492096?s=19 これまでの実践で得られた仏道に関する私なりの理解を、図にまとめてみました。
https://t.co/PwWmB3OHQt 「仏道の地図」のようなものがあるといいと思い、作成しました。仏教書を読む際など時折この図を見ることで、述べられているのが仏道のどの部分についてなのかを確認しています。
👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:b73a9cd27f0065c395082e3925dacf01) https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
>>438 保存させていただきました。ありがとうございます。
>>439 ぱっと見合っていると思うが
どこか違和感ある?
>>441 ありがとうございます。
参考にしてみます。
出家請願の言葉で、五戒はPāṇātipātā veramaṇī, sikkhāpadaṁ samādiyāmi
で始まりますが、何語ですか?
サンスクリット語とかパーリ語なのですか?
パーリ語
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%96%84%E6%88%92 殺生から離れること(巴: pāṇātipātā veramaṇī, 梵: prāṇātipātāt prativirataḥ[4])
>>432 >本能的欲求は放っておくんじゃないでしょうか。
>腹が減ったら食べるし、疲れたら寝る。
八戒で生活されている方々をみていると、規則正しい生活をしているのかな
という印象があります。
少ない経験に基づく知見ですが、睡眠と食事に関して制御が効いていれば、
本能的欲求の大部分は制御下におけているような気がします。
修行寺の生活は朝が早いですが、これも偶然ではないと思いますね。
日本のお寺でも、朝勤行(朝のお勤め)というのがあるようです。
一日の一番最初に、一番大事な仕事をしてしまうというのは、とても合理的だと思います。
>>446 >>八戒で生活されている方々をみていると
在家の人が守る八斎戒のことでしょうか?
生活している、というのは毎日、という感じで聞こえるのですが、
一日だけ守るものであっても、残りの毎日が変わってくるものなのでしょうか。
>>448 例え一日でも、守らないよりは守った方がずっと良いと思います。
もし仮にお酒が止められない人がいたとしたら、曜日を決めて毎週一日
だけでも五戒を守ることから始めるようにお勧めするでしょう。
自分がその立場なら、次の段階として、毎日、安定的に五戒を守ること
を目指すでしょう。
その次は、毎月、新月と満月の日(あるいは毎週日曜日)だけでも、八戒
で過ごすことを目指すでしょう。
その次は、毎日、八戒で過ごすことを目指すと思います。
>>449 よく理解できました。
ありがとうございました。
私も頑張って床で寝てみようかな。
やってる方いらっしゃれば効果のほどを教えてください。
八戒のは座具を一切使わず床に寝ろってことじゃなくてふかふかのソファー・ベッドで寝るなって話でしょ!?
仏教うんぬんじゃなくずっと床(カーペットくらい)で寝てるけどたまに布団で寝るとすごい熟睡できる
ただ疲れる気もする
小食や菜食と同じでたまに肉とか高カロリー食とか食べるとそのときは元気になるけどそのあと結局疲れるみたいなことかなあとも思う
五戒は死んでも守るぐらいの気持ちが必要だけど、八戒はできれば。
自分も若い頃八斎戒頑張ってみたけど、無理だった。
若いうちは食わないと体もたないし。
ここ一番、瞑想に集中する時期なんかはしっかり守った方がいいとは思う。
寝る場所は特にどうということはないけど、
歌やダンスを見たらいけない、というのは守るのは難しいな
聞きたいし見たい
例えばアイドルにのめり込んで、大金をつぎ込むとかでなければ全く問題なし。程度の問題。
お酒もそう。それより不妄語戒なんかはほとんどできていないだろうし、こっちの方が余程問題。
菜食なんかも軽んずべきではない。
あと、常に音楽を聴いているようなのもちょっと気になる。あと、フェスなどガンガン音がするのを好む傾向がある人もどうかな。
youtube好きだから困る
ここ一週間は新体操見てる。楽しい
でも一日ぐらいなら、我慢しようと思う
我慢といわれると、執着が入っているかなと思う。そのレベルがどれ程のものかまではわからないけど。
スパッ、スパッっと対象に対して意識がきれるかどうかが一つの目安になると思う。
執着ありますよ〜。ダメなことだと分かってるんだけど、好きなんですよね。
無くても別に困らない、程度ですが。
対象に対して意識がきれるかどうか、とうのはよく分からないです。あるような気もするし、ないような気もする。
よければ詳しい説明をお願いしたいところですね。実体験などあれば・・・。
一般的に無くても別に困らない程度なら問題ないと。執着そのものを否定しているわけではないので。
個別的にはほんと千差万別で文章ではきちんと説明しにくいかな。直接話をすればすぐなんですけどね。
一番誤解が少ない感じなのは食事かなー。とりあえず健康体で過度のストレスとかないのに、
肉食をやめられない人
腹八分目ができない人。
甘いものを必要以上に食べる人。
美食をやめられない人 などなど
あくまでIMOだけど、
人でくくるのはやめといた方がいいと思ってる。
問題は個別の身口意の行為であって、人でくくると人格攻撃になり兼ねない。
普段の会話とか、ちょっとしたところで内面の姿勢は出てしまうので、普段から
気を付けておきたい。
「こういう行為はするべきでないのに、あの人はそういう行為をする人」っていう思いは
ディッティ(見)であって、固定観念だよね、て話。
>>463自身は
>>462の内容には全く当てはまらない感じ?
>>464 固定概念じゃなくて実際に不道徳な行動をしている人はどうなるの?
どう考えるべきかな?
それでいやな気持になるんだけど
どの観点からものをみるかによると思う。
人間関係や社会生活の中に身を置く限り、貪瞋痴の反応は勝手に生じる。
その一方で、それに飲み込まれないように気づきに留まろうとする部分もある。
善悪など、欲六界の出来事に反応しているってことは、
六道輪廻のなかに身を置いてるってことでしょう。
彼岸に渡ること、解脱はそのゲームから離脱することだと思うので。
嫌な気持ちになるのは、六道輪廻に見を置いているってのは分かる
でも世の中をよくするには、皆が少しでも自分の間違いを正していかなきゃんらないってのも思うんよね
まあ不還果になったら変わるのかもしれないけど
どうなるのかってのは想像が付かないけど
自身の足の置き場を、貪瞋痴(五蓋)に置くのではなくて
気づきに置くようにシフトしたいのね。
身口意の反応は、貪瞋痴の反応ではなくて
気づきに留まる意識からの慈悲で選択的な反応をしたい。
それが正思惟からの正語、正業、正命だと思うので。
>>470 なるほど。慈悲の観点から見るわけですな。
分かってるようで分かってなかった。
そう思うと、嫌な感情ではなく、適切な感情になりそうです。
八正道に慈悲の概念を混ぜるのはどうかと。
八正道では、身口意を慎む、控えることになってる。解脱の為に。
積極的に慈悲行をせよ、とは説かれていない。
慈悲は修行をサポートするのは間違いないけども。
>>438 図解ありがとうございます。
参考にしてみます。
テーラワーダ(上座部)仏教の正体とは?本来の仏教との7つの違い - 仏教ウェブ入門講座
https://true-buddhism.com/shuha/theravada/ >>476 概念であの仏教とか、この仏教とか思ってる段階。
>>477 スマナサーラが大乗仏教が〜、説一切有部が〜と言ってる状態だからな
大乗仏教とか、○○仏教とか、名前を付けた時点で区別してるんだから、
その先に生じる思考のバリエーションとして、どっちが上(増上慢)とか、
どっちが下(卑下慢)とか、いやいや同じだ(同等慢)とか、出てくるのは
あらかじめ自明。
それが此岸のゲーム(六道輪廻)そのもの。
>>476 ブッダゴーサってパーリ仏典自体を編集したの?
注釈書じゃなくて?
>>479 そういう思想は我空法空の大乗仏教寄り。
テーラワーダはアビダルマで法をきっちり分類しその実在を認める我空法有だから目標とするところは無分別智とはまた違う。
誘惑に負けてオナってしまうのですが
なにかいい方法があればご教授ください
>>482 スッタニパータ ラーフラ
335 [師(ブッダ)がいった]、ラーフラよ。しばしばともに住むのに慣れて、お前は賢者を軽蔑するのではないか? 諸人のために炬火をかざす人を、汝は尊敬しているか?」
336 (ラーフラは答えた)、「しばしばともに住むのに慣れて賢者を軽蔑するようなことを、わたくしは致しません。諸人のために炬火をかざす人を、わたくしは常に尊敬しています。」
以上、序の詩
337 「愛すべく喜ばしい五欲の対象をすてて、信仰心によって家から出て、苦しみを終滅せしめる者であれ。
338 善い友だちと交われ。人里はなれ奥まった騒音の少ないところに坐臥せよ。飲食に量を知る者であれ。
339 衣服と、施された食物と、(病人のための)物品と坐臥の所、──これらのものに対して欲を起こしてはならない。再び世にもどってくるな。
340 戒律の規定を奉じて、五つの五官を制し、そなたの身体を観ぜよ(身体について心を専注せよ)。切に世を厭い嫌う者となれ。
341 愛欲があれば(汚いものでも)清らかに見える。その(美麗な)外形を避けよ。(身は)不浄であると心に観じて、心をしずかに統一せよ。
342 無相のおもいを修せよ。心にひそむ傲慢をすてよ。そうすれば汝は傲慢をほろぼして、心静まったものとして日を送るであろう。」
実に尊き師(ブッダ)はこのようにラーフラさんにこれらの詩を以て繰返し教えられた。
http://hosai02.la.coocan.jp/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm このブッダがラーフラに説いた教えを守れば良いと思う(特に340と341)
>>481 >そういう思想は
どういう思想だと解釈したのか分からない。
言葉でやりとりすること自体がもう面倒くさい。
教理教学なら、経典を直接読むか、師僧に聞くからいい。
他人と話すと面倒なことばかりでうんざりする。
>>482 たまって出さざるをえないのなら問題にしなくてもいいんだよ
大した必要性もないのにするのなら問題だけど
要は貪ったらだめということね
自分もオナニーするけど、これは邪淫に含まれるのかなぁと思っちゃう。不倫するのとはわけが違うし。
ただ、やりたいようにやってると欲に振り回されてる感じがするから、土曜日の午後だけって決めて、それは守るようにしてますよ。
自分なりのルールを決めたらどうですかね
性欲も睡眠欲と一緒でなかったらダメなものだからね
修行を完成させるために寝るなとはいわれないでしょ?
性欲も一緒だよ。やっていい。でも出家者はオナニーもだめなんかな?
みなさま有難うございます
不浄観を養いつつ土日だけと決めやってしまった場合でもくよくよせず
精進したいと思います
菜食主義を「心がければ」性欲はかなり落ち着いてくる。
慣れるには三月ぐらいはかかるかな。
●説一切有部が伝える部派分裂
『異部宗輪論[いぶしゅうりんろん]』とは、説一切有部[せついっさいうぶ]の比丘、世友(Vasumitra[ヴァスミトラ])によって、1-2世紀頃に著されたと思われる書です。
仏滅後のサンガが分裂してさまざまな部派を形成した経緯と、それぞれの部派の教義の要を、説一切有部の立場から記されています。
(中略)
『異部宗輪論』が伝えるところの、仏滅後はじめてサンガが分裂した原因。
それは、仏滅後100数年を経て、摩竭陀(Magadha[マガダ])国の無憂(Aśoka[アショーカ])王の治世にて、
当時その学徳・行徳の高さを讃えられている大天(Mahādeva[マハーデーヴァ])という名の比丘が唱えた、阿羅漢[あらかん]についての五つの事項であるといいます。
これを大天の五事といいます。
(中略)
そもそも、大天がなぜこのような五事を言ったのきっかけは、大天がある日、おぼえず夢精してしまい、弟子にその衣を洗濯させたときに、弟子からの質問に答えたことに始まったといいます。
すでに触れたように、大天は当代きっての高僧として世間に認められ、みずからを阿羅漢であると称していました。
しかし律蔵では、人が夢精するのは、その者が心を安立していない為、念を失している為であるとしています。
故に阿羅漢であれば、夢精などするはずのないものです。
そこで弟子は、「阿羅漢はすべての煩悩を滅しているはずですが、なぜ阿羅漢のあなたが夢精などするのですか?」という、素朴な疑問を発したのでした。
『婆沙論』の所伝によれば、大天のこの説は、そのようなやりとりの中で弟子への答えとして出されたものです。
しかし、大天は、この説を「餘所誘無知 猶豫他令入 道因聲故起 是名真仏教」という偈頌としてまとめ、布薩の場で公然と主張したと言います。
これが大問題となったのでしょう。
サンガではこれをどうみるかで意見が分かれ、ついにサンガが分裂するに至ったといいます。
http://www.horakuji.com/lecture/vinaya/SectarianBuddhism.htm 根気よく三学の修習を進めていくうちに、性欲は制御できるようになってきますよ。
食欲、睡眠欲よりよほど簡単。
座る瞑想で深い集中を経験しておくと、普段の精神統一の度合いも底上げされるはず。
一日の最初に、まず戒律と瞑想をやってしまうのがベスト。
サティを保つことが本能に流されることと両立するのかどうか
やっていけば分かる。
>>489 自分の心に「やらされてる」って気づいた方がいいですよ。
自慰行為は集中力が落ちるから私はお勧めしません。
私の場合は一週間ぐらいは影響が残りますね。
オナニーは快楽。まずそれを素直に認める。
その上で、このつまらない快楽に耽っているのがいいのか、涅槃という究極の安穏、
2500年間、たくさんの人が目指して挫折していった、人間の限界を超えた楽しみ、解脱に達するのがいいのかをじっくり考える。
オナニーしたらしたでいい。それでも自分は、死ぬまでに解脱に達する。全ての煩悩を滅ぼして、苦しみを終わらせる、
不惜身命、解脱の為にはひとりの人間の命、肉体などは捨ててもかまわない、たとえ明日死ぬとしても、今日のうちに必ず解脱に達してみせる、
という覚悟でいれば問題ない。
オナニーは快楽。それは確かに同意です
だけど、オナニーした後の瞑想はあまり心地よくないので、それを思うと踏みとどまれることがあります。
それでもやってしまったら、賢者タイムのときにティッシュに出したものをじっと見つめる。
お世辞にも清らかなものとは思えない液体をよく見る。で、次にやりたくなったら汚れたティッシュを思い出し、あれを出すのかと思うと、なんとなくする気が失せます。
嘘つきが嘘を本当だと言って
傷口を広げているのに似ているのう
小乗の説では煩悩を尽くした阿羅漢の人は、眠らないか横臥したまま正念を保つから性的な夢を見ず、夢精しないらしい。
しかし、いわゆる大衆部の祖「大天(マハーデーヴァ)」は、彼が阿羅漢を自称しながらも夢精したという経緯を弟子(大天に仕えているのでザーメン汚れ袈裟を洗濯していた)に問われ、阿羅漢も天魔の作用によって夢精するという見解を示した
(異部宗輪論「余所誘・ほかのものにさそわれること」=阿毘達磨大毘婆沙論「天魔所嬈・てんまになやまされる、夢失不淨・むせい」)。
律蔵には、自慰・オナニー・マスターベーションなど故意の射精を禁じる「故出精戒"śukravisṛṣṭir, śukravisarga"」があり、
僧残法"saṃghāvaśeṣa"という大勢(20人以上)の比丘への懺悔によって僧団に残してもらえる比較的重い罪に該当する。
律蔵は夢精について赦すようで、比較的重い罪「故出精(故意の射精)」にも相当せずに済む。
無漏というのは24時間、365日、正念にほころびが無い状態だとすると、
夢精はあり得ないね。
わたしレベルでさえ、夢の中でも抑制が効くのに、これより戒と定が進んだ
状態において夢精に至るとは考えられない。
>>499 三学の実習をしないと分からないよ。
知りもしないで嘘呼ばわりされても、本当のことだからどうしようもないね。
俺はノイローゼで療養してた時、夢精した事がある。
別に性的な夢を見た訳でもないが。
体が弱っていると出てしまう場合がある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%BA%E7%B2%BE 一休禅師は大悟徹底した後、子供を作ったという噂がある。
阿羅漢になっても性機能が無くなる訳ではないみたい。
やろうと思えばやれるようだ。
テーラワーダとかあまり知らん通りすがりだけど面白いテーマなので書き込み
二人の若者が将来について議論し、一人は神聖な教えを求めて聖堂に入り、もう一人は世間の享楽のほうが良いと思い売春窟に住むようになりました
やがて聖堂に入った若者は、もう一人の若者が売春窟で楽しくやっていることを羨ましく思い、聖なる教えも結構だが、世間の楽しみを全て棄てて自分は一体何をしているんだろうと後悔するようになりました
売春窟に住む若者もまた自分の惨めさに満ちた人生を後悔し、聖堂に入った若者を思い、聖なる教えを求めて涙するようになりました
やがて死の時が来て、死神は聖堂に入った若者を地獄へ、売春窟に入った若者を天国に連れて行きました
心というのは不可思議なもので、制御するのも難しい
過剰に抑圧することによって、逆に悪い印象が強い影響力を持つようになることもあるし、制御することなく手綱を外して欲望のままにすることによっても、その印象を強く受けることになる
アーナンダ尊者も、釈尊入滅前、女性についての対処を釈尊に尋ねた。
釈尊曰く、「見てはいけない、話してはいけない、慎しんでおれ。」
阿羅漢になっても、性欲に対しては気をつけないといけないようだ。
テーラワーダの戒律は、仏教徒にとっては直に接することのできる三宝であるから
テラワダの阿羅漢が自ら戒律を破って、在家仏教徒のサンガへの信を損ねるような
真似をするとは考えられない。
また、本能についての考え方は、有身見の有無によってまるで違ってくる。
自我(自己)が、ある種の錯覚に過ぎないとわかれば有身見がなくなる。
その状態では、生存本能すら捨てることはそれほど難しいことではなくなってくる。
ただし、生存本能の世界で生きている一般人に、そういう話をストレートにする
わけにはいかないので、有身見の誤りを見破った人も、おそらく黙っている場合が
多いと思う。
>>510 あなたは自分の修行を進めるには5ちゃんは止めるべきだと思う
そうすればもっと世俗からの厭離が進み離欲も進むだろう
今程度で良いというなら今のままでもいいが
まず自我はある種の錯覚じゃなくて完全な錯覚ね。
有身見が無くなった預流果には貪欲、瞋恚は普通にある。生存本能は捨てられない。
阿羅漢果になれば命を捨てることは簡単かも知れないが。
戒律を破っちゃいけないって感覚は阿羅漢には無いと思うが。もうすでに自我が、慢が無いんだから。
俺には欲が無いぞ、阿羅漢に悟ったぞ、解脱したぞってのは慢がある証拠。
もうすでに、戒定慧も八正道も、仏法も何も関係が無くなった人が阿羅漢。
「我ありと思う心を捨てよただ 身の浮雲の風にまかせて」 一休
お釈迦様の初転法輪時には自ら悟った、解脱したことを宣言されているよね。
釈尊は特別。
法を説き初める時には、誰かがまず宣言しなきゃいけない。よりどころになる為に。
だから仏法僧の三宝も、僧とブッダを区別してる。
どうも悟ってない人ほど、聖者信仰が強いように思う。
聖者は清らかであるはずだ、煩悩が完全に無くなっているはずだ、人格が完璧であるはずだ。
聖者は自分が凡夫であることをよく知っていて、よく気をつけているから聖者と呼ばれているだけで、
自分が凡夫であることを知らない人こそ本当の凡夫。自分は聖者だと思っている人は救いようがない凡夫。
自分って、要するに五蘊だからね。
お釈迦さまに最初から答えを全部教えてもらってるのだが、意味がわからないんだよな。
聖者信仰してるわけじゃないのに、テラワダの伝統に忠実なだけで
聖者信仰してると思い込まれたりもするよ。
人が何をみてどういう反射をするか分からないので、もうどうしょもない。
その五蘊は因縁によって生滅している。
おっさんの五蘊は今までのおっさんの因縁により、おっさんのような五蘊を形成している。
ビールが好きかもしれないし、昼寝が好きかも知れない、女が好きかも知れない。
そうゆう事はない、ただの五蘊だ、人間ぽい感情などありはしない、というのが聖者信仰。
煩悩が無くなるのかどうか、すでに十結で説明されてる。
もし無くならないという主張なら、それは仏説に符合しない。
どこまでが煩悩か。
本当に欲が完全に無くなるのなら、スッタニパータに離欲を貪らない、と説かれない。
795 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執着することがない。
かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。
サーリプッタ尊者も甘い物が好きだったらしい。人間だから色々ある。
その人間をそのままに執着しないのが阿羅漢。
>>521 教学的には色貪、無色貪のことじゃないかと思う。
離欲を貪る、とあるからには貪があるはずだし、であるからには無明がある。
無明と貪りから離れて涅槃を目指すことを、離欲を貪るとは言わないでしょ。
>>gFVafdnV
参考までに聞きたいのですが、無常・苦・無我、はどこまで理解されていますか?
深く体感するところまであるでしょうか?
>>523 ちょっとよく分からないけど、自分は離欲を貪るというのは、
ブッダがやられた苦行みたいな事なんじゃないかと思う。
食欲を無くそうとしたり、寝ないでいようと思ったり、生理的欲求を無くそうと一生懸命になることなんじゃないかな。
>>524 まだ全然です。
自我がないのは経験的に知ってはいますが、普段は自我で生活してます。
八正道が涅槃まで続いているのは見ました。(あくまで比喩的表現です)
>>526 ありがとうございます。
私事で恐縮ですが、最近、頭での理解から体感での理解になりつつありまして。
全然違う感じで驚いているんですよね。間違いなく悩み、苦しみ、迷いは減りました。
>>527 なんともありがたいことですね。
仏法に出会えたことが何よりの宝です。
>>511 そうですね。
ありがとうございました。
>>526 たぶんそれは自我じゃないですよ。
一旦自我は存在しない妄想だと分かれば、自我で生活するとかありえないと思います。
わざわざ自我を妄想しながら生活するんですか?
あなた達はヒンドゥー教徒ですか?
自我を幻影(マーヤ)のように扱うだなんて
いや、あなた達がヒンドゥー教徒ならそれでもいいですが
もし自我が心や心処を指すのでしたらテーラワーダではその存在は一瞬だけとはいえ実在であると認めています
だからテーラワーダの勝義諦には心や心処が入っているのです
自我は存在しない と何が認識するのだろうか
自我以外のものが 自我は存在しない と認識できるのか
自我、我はどこにも無いでしょう。
五蘊の中にも無いし、六根の中にも無い、心にも心所にも無い。
我を妄想する人には、妄想として存在するでしょうね。我見として。
>>531 一瞬でも涅槃を経験し、認識が止まった状態を経験すれば、
自我が認識から生まれる錯覚、妄想であることが分かる。
その瞬間、五蘊の中に固定した私というものが有るという見解、有身見が無くなる。
不善心所なんて悪い意味での自我に分類されませんか?
スマナサーラ長老も似たような言い方してたかな。
私はスマ信者だから。
>>530 >テーラワーダではその存在は一瞬だけとはいえ実在であると認めています
このことはどこに書いてありますか?
スマナサーラ長老が説法で、
「私は若い頃秋葉原によく行っていた。機械類をよく買ってしまうので、部屋に置き場が無い。」
とおっしゃっていた。
これを、「スマナサーラ長老は欲がある。聖者では無い。」と捉えるか、
「かっこつけて聖者のふりをしない、スマナサーラ長老は本物の聖者だ。」と捉えるか。
どちらも妄想であるのは確かだが、実は他者を見るときには自分自身の影を見ている。
欲深い人は他人に欲を見るだろうし、愚かな人は他人に愚かさを見る。
経験した涅槃の状況や認識が止まった状態を説明してあげればいろいろ参考になるのではないかと思う
確かに涅槃となぜ理解できたのかの判断基準とか興味ある
預流果に悟る瞬間は一瞬だから、それが涅槃だったかどうかは本人は分からない。
本人としては、「あれ?眼耳鼻舌身意の全てが動いている、一瞬も止まっていない、これは何であるとか、ここに何があるとか、認識は成り立たない。」という気づきはある。
後でマハーシ長老の本を読むと、どうやら涅槃で間違いないみたい。
>>538 http://www.horakuji.com/treasures/vibhajjavadin_cetasika.htm 上記サイトの
分別説部における「無我」の理解 ―人空法有
http://www.j-theravada.net/qa/gimon58.html 説一切有部を批判するためにテーラワーダ仏教がアビダルマを発展させたと言っても過言ではないほどです。
テーラワーダ仏教は「三世実有」に真っ向から反対するのです。テーラワーダにおいては、存在するのは、今の瞬間のダルマだけです。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%8C%E9%87%8F%E9%83%A8 経量部のページですが
説一切有部のアビダルマ説を批判・修正する。
「三世実有」説に対しては、現在に於いてのみ法有を認め…
(ここまでは経量部もテーラワーダも同じです)
https://gamp.ameblo.jp/2430soken/entry-12011887155.html テーラワーダ仏教の勝義諦はそれぞれ変わらない性質をもつもの「自性がある」と言われています。
テーラワーダ仏教は法有で法空の立場ではありません。
など
説一切有部と経量部やテーラワーダの違いは法の実在を三世に渡って認めるか現在のみ認めるか
また法の分類の仕方など
※法とはここでは諸々の存在要素というような意味であり無常とか縁起とかの法則の意味ではありません
>>543 ありがとうございます
これってミリンダ王の問いの例えを使うと
車は実在しないけどタイヤなりハンドルなりは実在するという意味なんですかね
最近、中村元の龍樹を読んでいるのですが
中村元によると説一切有部の法は概念であり、超越的実在という理解ですが
スマナサーラによると説一切有部の法は自然的事物であるように見えます。
中村元 龍樹より抜粋します
・有部は法の実在を説いたのであって、自然的存在の実在は説かなかった。
・存在はつねに時間的に存するが、法は、「それ自身の本質を持つ」ものとしてより高次の領域において有るから、超時間的に妥当する。かくして法は有る、すなわち実在する、とされた。
・こういうわけで法は「もの」であるとする解釈が成立するに至ったのであるが、この「もの」というのはけっして経験的な事物ではなくて、自然的存在を可能ならしめている「ありかた」としての「もの」であることに注意せねばならぬ。
・故に「法有」の「有」とは「経験界において有る」という意味に解することはできないと思う。
・「中論」は決して従前の仏教のダルマの体系を否定し、破壊したのではなくて、法を実有とみなす思想を攻撃したのである。概念を否定したのではなくて、概念を超越的実在と解する傾向を排斥したのである。
・以上は「ありかた」としての法を中心として考察したのであり、今日のことばでいえば
ほぼ概念の中に含まれるところのものである。ところがわれわれはその他に法有の立場の注目すべき特徴を認める。
有部は概念のみならず判断内容すなわち命題それ自身実在することを主張した。
つくられたものども(諸行)は無常である。しかしながら「諸行は無常である」という命題自身は変易しない。
もし命題自身が変易するならば、つくられたものどもは無常である、とはいえなくなる。
故に命題自身、すなわち「句」も実有であるとされ、五位七五法の分類中の心不相応行法の中に入れられた。
法とは何かを部分部分で抜粋したので前後の文章を読まないとうまく理解できないかもしれません
>>544 車輪や轅にも構成要素というのがあってそれぞれ更に細分化できそうですが、そういうのを無視すればまあそう言えると思います。
ただし車輪や轅のように実在はしますが、車輪や轅とは違って法は常に刹那消滅しています。刹那消滅しているので法有(法は実体として存在する)であっても法も無常です。
(正確には車輪や轅は色法ですからこれらも刹那消滅しているのですが)
この刹那消滅論は部派仏教全体と唯識や禅の一部など一部大乗仏教に見られます。
>>545 諸法無我は仏教です。
自我は仏教でもヒンドゥー教でも我ではありません。
(では仏教では我の方は実在として認めるのかとなるとうるさくなるのでここでは一旦割愛)
ヒンドゥー教では一元にしても二元にしても我(アートマン=ブラフマン、プルシャ)は実在としますが、
自我(エゴ、マインド)は我とは違う幻影(マーヤ)であるとか現象世界の意識(プラクリティに属する)であるとかされています。
仏教ですが、部派仏教のアビダルマでは自我のことと思われる貪瞋痴とかそれらから派生した慢とかは法としてあげられていますが、
流石に我を法に入れている部派はありません。
部派仏教では我の実有は認めていません(我空法有)。
中村元によると
説一切有部は実念論(法という概念が存在する)なのですが
>>543、
>>549さんによると、テーラワーダは実念論ではなく実体論のようですね
瞑想の実践から見えてきたことを書いているの?
それらの記述が本当かどうか、瞑想で確かめたの?
瞑想してみれば、法、概念、思考は無常であることは分かるでしょう。
生まれては消えていきますから。
例えば概念としての「ネコ」は過去、現在、未来、変わらず有るでしょう、と言いたいのが説一切有部だと思いますが、
いずれにせよ、概念は概念で「ネコ」という実体は無いのだから、どうでもいい話で、空論ですよ。
諸法は無我である。全ての概念には我と呼べる実体は無い。という真理を知れば、
概念に対する執着が無くなる。法によって苦しむことが無くなる訳ですから、諸法無我には意味があるんです。
論理的に、理論として正しいものでも、実際に苦しみを無くさなければ意味は無いですよね。
説一切有部の比丘もテーラワーダの比丘も経量部の比丘も唯識の比丘も中観の比丘も大衆部の比丘も禅宗の禅師もヒンドゥー教の聖者もみんな瞑想はしてますよ。
でも出る解はそれぞれ違うんですよ。
>>551さん以上にそれぞれの部派や宗派や宗教の修行者は瞑想しているんですよ。
そしてそれぞれ別な解を出してきてるんですよ。
瞑想でみんな解決すると思ったら大間違いですよ。
その個人の見解が得られるがそれは全てが普遍的なものでもないのですよ。
1+1=2に決まってるのとは違うんですよ、瞑想で確認できるものは。
>>552 説一切有部の我空法有,三世実有法体恒有の法とはイデアとは違います。
ちゃんと実体をもったものとしてそれらの法が刹那消滅するいうのが説一切有部の教説です。
テーラワーダの法も実体を持つという点では同じです(我空法有)。
テーラワーダで法に実体が有ると本当に言っていますか?
諸法無我に完全に矛盾すると思いますが。
瞑想で確認できる事実は一つしか無いですよ。
諸行無常、一切皆苦、諸法無我だけです。
それ以外の答えは全て妄想、空論です。
初期仏教でもテーラワ ダ仏教でも部派仏教でも 、 「現象には自分の特色がある 」と言います 。
大乗仏教は 「そんな特色はない 、すべては空だ 」と一生懸命批判しています 。
どちらが正しいか 、ちょっと考えればすぐに分かります 。
部派仏教の一派で 、大乗が生まれる前からあった説一切有部や経量部 * 1 8などものごと ・現象には特色はあると言っています 。
初期仏教でも 、くだらない哲学はありませんから 、 「この人は男でこの人は女です 」と言ったら 、ごく普通に 「ああそうですね 」と言います 。
大乗仏教は 「そんなことはない 、男も女もない 、みんな仏でみんな空だ 」と言いますけど 、それで何か得られるものがあるのかどうか分かりません 。
「すべては空である 」という大乗仏教の哲学は 、ある立場から見れば正しいです 。
それは初期仏教 ・テーラワーダ仏教でも認めます 。それに対して 、初期仏教やテーラワーダ仏教が厳密に分類している物質や心の区別論 ・分別論が間違っていると主張するのは 、大乗仏教だけです 。
確かにすべてが空という立場から見れば 、区別 ・分別は間違いです 。
でも初期仏教の立場では 、間違いではないのです 。
物質や心の現象を徹底的に分析したときは 、「すべてが空 」という立場から説いたわけではないからです 。
当然 、その内容も間違っているわけではありません 。
「すべては空だ 」という一つの立場に執着して 、すべてをその立場からだけ見ようとすると 、空論以外はすべて間違いだということになる 、ただそれだけのことです 。
(スマナサーラ著「ブッダの実践心理学1」)
なお、上座部大寺派、すなわち現在の南伝上座部仏教では、『アビダンマッタ・サンガハ』などの記述に依り、
以下の計170法を、「性質(=自性)が変わることが無い法」としての「勝義法」(第一義法、巴: paramattha dhamma, パラマッタ・ダンマ)として挙げる[24]。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BD%8D 因縁により刹那生滅するものは実体が有るとは言わないですよ。普通。
法だけでなく、色声香味触法、眼耳鼻舌身意、五蘊、一切について、刹那生滅するものは、無常であり、苦であり、無我です。
無我を空と呼び変えてもいいですけど、空は無いという意味でもないし、有るという意味でも無い。
どこかに何か、存在が有る、実体が有るというのは間違いです、無いというのも間違いですが、
固定した、不変の実在、実体、存在が有るという我々が起こしやすい錯覚は間違いである、というのが無我だと思います。
ですからテーラワーダの立場としては、我空法有では無く、ただ単に、諸法無我だと思います。
>>547 >故に命題自身、すなわち「句」も実有であるとされ、五位七五法の分類中の心不相応行法の中に入れられた。
それが生・住・異・滅の四相と言われている法ですね。
それらにより無為を除く全ての法は刹那生滅するので、法は実有であるが刹那生滅するが故に無常である、とするのが部派仏教です。
テーラワーダもその部分では変わるところはありませんが、説一切有部の法の三世実有は否定しました。
484 :名無しさん@1周年 :02/05/28 18:15
上座部の人はヴィパッサナを徹底的にすれば、
刹那滅は手にとるように見えてくると言ってました。
58 :名無しさん@1周年:02/06/01 13:20
>>53 >>現在法として転変していない種子も刹那生滅を繰り返す
>などというオカルトは笑うしかないです♪
これは唯識の基本的なところ、知らないというのは.....
経量部も同様の立場で....唯識はこれを採用しているのに。
>>44 >有部→過・現・未 三時に実在(法体恒有)+刹那滅☆
>経量部→現在のみ実在+刹那滅☆
別に三世実有説は部派仏教一般の認識。
過や未の「無体」を主張したのは、経量部以外は大衆部、大衆部も
末派は三世実有を説く。
なんかローカーヤタ派のところに行って、夜のうちにオオカミの足跡
を付けておいたという話を思い出したぞ。
過・未を認めないから、彼らはオオカミが来たと推測することも許さ
れないで、慌てふためくばかりであったという。
現在有体過未無体
げんざいうたいかみむたい
仏教用語。
部派仏教のうち経量部の教説で,人間存在ないし現象界を構成するもろもろの要素 (法) は,現在現れているかぎりにおいては実有であるが,過去,未来においては無であるという主張。
説一切有部の「三世実有,法体恒有」の説に対する。
https://kotobank.jp/word/%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E6%9C%89%E4%BD%93%E9%81%8E%E6%9C%AA%E7%84%A1%E4%BD%93-60497 経量部
説一切有部の説の幾つかを修正し、なかでも三世実有説に対して、現在有体・過未無体、つまり法は現在世のみ実在するという説などを主張した。
4-5世紀の世親は、説一切有部によって『倶舎論』の偈を著し、のち経量部に移ってその注釈文にそれを反映させて、
さらに大乗に転向し、唯識説を完成させたので、経量部は有部の批判者として、唯識説との近縁について、注目されている。
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%8D%E3%82%87%E3%81%86%E3%82%8A%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%B6 >>553 お釈迦さまからして、わたしなんかよりずっと瞑想してますよね。
理論なら本なり経典なりを読めばわかることでしょう。
わたしには、あなたの発言が、ありもしない論敵を妄想して、妄想上の
論敵に反論しているようにしか見えないのですが。
そもそも勝義諦の心と心所が我であるなんて、誰も言ってないし
それに、ここは瞑想実践スレのはずではありませんでしたか?
あんまり仏教の勉強しすぎると瞑想して悟るのが苦しくなりますよ。
瞑想中は仏教のブの字も出してはいけない。あらゆる概念、法を手放さなきゃいけない。
諸行無常すら考えてしまえば妄想になる。
きちんと瞑想して無我を悟れば、無駄な哲学的思考に嵌らない。
説一切有部も、唯識も、大乗も、ブッダが定義しなかった概念を持ち出した宗派が次々現れた歴史は、
瞑想失敗の歴史だと思えばいい。
禅だけは一部成功したけども。
>>556 >初期仏教でもテーラワ ダ仏教でも部派仏教でも 、 「現象には自分の特色がある 」と言います 。
>大乗仏教は 「そんな特色はない 、すべては空だ 」と一生懸命批判しています 。
>どちらが正しいか 、ちょっと考えればすぐに分かります 。
考えて答え出されてますよね。
智慧まで到達してから、それを言語化した場合、いろんなバリエーションになるのは仕方ないと思いますよ。
各部派の分厚い経典を読んで、解釈するのに時間をつかっていたら
悟りの智慧にかすりもしないうちに、あっというまに時間切れになって
しまうと思う。
乗り物は、これと1つに決めたら、あとは突破するまでやり切るのみ。
いまはそれが出来る時代だと思う。
乗り物はテーラワーダ。
方便はパーリ三蔵経典。
そうと決めたら、もうよそ見はしないことです。
>>563 >説一切有部も、唯識も、大乗も、ブッダが定義しなかった概念を持ち出した宗派が次々現れた歴史は、
テーラワーダもその中に入れないと。
あと龍樹は「ブッダに帰れ」と言って説一切有部を批判したんだから龍樹自身はブッダの教えに忠実だという想いはあったんでしょう。
法を実体視するのはブッダの教えではないという信条からの説一切有部批判であり中論です。
その龍樹を批判してるのがスマナサーラ長老ですが。
>>565 現代人は、いろんな情報に触れられるけども、仕事が忙しく瞑想するヒマが無い。
いかに不要な情報をシャットアウトするか、いかに仕事を減らして瞑想する時間を作るかがカギでしょうね。
あと最後までやり切る根性と。
あ、スマナサーラ長老は説一切有部も唯識も批判しています。
>>567 ええ、だから思考を止めるんです。
人間だから不完全。主義主張が食い違う事もあるでしょう。
それらを全て放っておいて、目の前の現象を観察するのがヴィパッサナーですね。
一度瞑想すると決めたら、龍樹だろうがスマナサーラ長老だろうが、
ケツを蹴り上げて追い出さなきゃいけない。自分の頭の中から。
思考の中に生みだす正しい仏教って、見(ditthi)だから。
概念じゃないよって、そういう意味。
考えたり、しゃべったりしているうちは、正しい仏教 vs 正しい仏教のおしゃべりが
延々と(永遠に)続くだけでしょうな。
いちおう正しい仏教はあって、それはブッダが説かれた教えそのものなんですが、
問題は「私」の理解能力です。不完全な人間である「私」には理解できないんです。
考えても考えても、ありとあらゆる本を読んでも、「私」には理解できない。
そこで瞑想して、煩悩を滅ぼし、渇愛を無くし、「私」というものが無くなった時に、不思議と正しい仏教が理解できるんです。
無我ということですね。
>>554 中村元は説一切有部の「三世実有法体恒」をイデア的に捉えているんですよね
これは中村元が間違っているんですかね?
p154
東西における対応は容易に理解することができる。図式化すると
実念論 - プラトーン - 説一切有部
実念論に対する反対者 - プラトーンに対する反対論 - ナーガールジュナ学派
説一切有部 五位七十五法
唯識 五位百法
これらの法は観念の世界の投影とかじゃないからね
あと説一切有部とかの小乗系は法は自性のある実体
大乗唯識は法は最終的には無自性の空と帰す
直指人心、見性成仏。
自分にも心はあるのに、なぜ教科書の中に答えを求めるのか。
「お掃除とは何か?」という答えを求めて、お掃除大百科を一日中眺めていて、
自分の家の掃除をしない主婦がいたら笑っちゃうでしょうにw
>>575 昨日言われていた自我というのは説一切有部の五位七十五法だと、心所法の中の大煩悩地法や大不善地法、大煩悩地法、小煩悩地法、不定地法が典型であろう
テーラワーダの勝義法(勝義諦)だと心所法の中の不善心所だろうな
>>577 実体があるのに無常であるというのに整合性を求めるための刹那生滅です
小乗系は皆この考え
大乗でも経量部からの流れで唯識などは刹那生滅
阿頼耶識とアートマンの一番の違いは刹那生滅するかどうか
アートマンは生滅しないので常住である、常一主宰であると言える
一方の阿頼耶識は刹那生滅するので無常であり空
皆さんの言ってることが難しすぎてよく分からないんですが、
たとえば真理とか言われるものも、無常・無我ということなんでしょうか?
勝義諦と諸行無常・諸法無我の関係はどうなっているのでしょうか。
勝義諦だけは、別なのでしょうか?
勝義諦のうち、涅槃を除く、心、心所、色が無常、苦、無我で、
涅槃だけが別です。
象も実物を見れば一発で伝わるのに、言葉で伝えるとなると
ややこしくなりますね。
例え伝わったところで、日光東照宮の彫刻にある象の像のように
空想上の動物になってしまうでしょうし。
ご自身が依拠する経典以外の語彙、語り方の構造は、あくまで
自分が乗る乗り物とは違う、他の乗り物だと思っておいた方が
良いのではないでしょうか。
他人の乗り物をあれこれ言わないのもマナーかと思います。
あと、乗り物の研究だけして、実際に乗らないという時代は
もう終わったと思ってます。
時代は変わりました。
>>580 「実体がある」という意味は
「この現象界を構成する要素となる法が実体として刹那生滅していて、感じ取ることができる」
という理解で合っていますか?
>>582 人間の道徳や倫理はどうでしょうか?
地球外知的生命体はいると思いますが、倫理や道徳は地球上の人間とそう変わらないと思っています。
たとえば、命を大切にする、ということなど。
同族の命を大切にする、ということなどは、地球上の生命体にとって、普遍なことだと思うのです。
さっきまで色々と調べてみたのですが、
簡単に答えのでることではないのですね。
色々な見方がある、ということだけは分かりました。
>>586 そうですね 簡単に答えは出ないと思います
見方も違うし、見ているものも違う というのが実情だと思います
テーラワーダの人たちですら意見が合わないので
他宗派を交えたらなおさら話が噛み合わないのでしょう
まず刹那生滅を自分で観ることが先決。
本を読んで分かる事ではない。
>>580 部派仏教(小乗系)の諸々の法は実体(自性)があるが刹那生滅するので無常とされます。
唯識瑜伽派の阿頼耶識含む諸々の法も刹那生滅しますがその法は仮であり実体(自性)はなく空であるとされます。
刹那生滅以前に、空であるので無常であるとなります。
大乗では空であるから分別はしないということはなく、色即是空空即是色として空即是色の部分でちゃんと分別しています。
それは分別智とか後得智と呼ばれます。
色即是空は分別智とか根本智と呼ばれます。
菩薩は衆生の機根に応じて説法する(対機説法)ので分別智を得ることが重要視されます。
一回も料理を作ったことが無い人が、レシピだけをものすごい研究してる感じだね。
あっちのレシピでは小麦粉は10グラムです。こっちのレシピでは15グラムです。って。
作ったことあるの?無いです。
おいしいの?さぁ。
違うな
涅槃を経験したことがない者が文献だけ読んで涅槃を涅槃を経験すればこうなりますと断定して言ってしまうのがこのスレ
しかも本人は文献にそう書いてあったとは言わずにあたかも自分の体験であるかのように語りレスする
人間しか悟りが開けないようですが
仏教でいう人間の定義って何なのでしょうか?
善行為ができる生命ってことでしょうか?
他人の涅槃は放っておけばいいのに、文献だ、経験だと余計な詮索をするレス
他人の体験は分かりようがないのに体験してないと断定してしまうレス
>>593 人間というか、生命は五蘊または六根と六境ですね。
人間は善行為もできるし悪行為もできます。
天界に行くこともできるし、地獄に落ちることもできる。
善悪両方経験できるので修行には向いているようです。
涅槃は認識できないし涅槃の間に認識はないというマハーシ派に対して、認識がない涅槃を認識できるとパオ派は言ってるらしいですけど、
マハーシ派の言う涅槃を体験したという人はたまに聞きますが、パオ派でいう涅槃を体験した方はいますか?
いたらどんなか、お話を聞きたい
涅槃を体験とは
「感覚や認識を含めた一切の意識が断絶した状態である滅尽定のこと」
>>594 仕方ないだろう
その涅槃体験のレスが文献に書いてあることそのままなんだから文献丸写しと分かってしまうからな
平日昼間もやってんだから
少しは休めば?
5ちゃん漬けは
もっと頭おかしくなるよ
涅槃の体験などいろいろ経験している人は自己評価はどんな感じなのかな
例えば預流果には乗ったなとか一来果まで来たなとかわかるのかな
また、十界でいえば、現在は人界・天界・声聞界・縁覚界のいずれに属しているのかとかも判別できる?
>>581 真理というのは何のことを指すのでしょう?
また勝義諦というのは大体が中観派かテーラワーダで使われる用語なのですが中観の勝義諦とテーラワーダの勝義諦は違います。
テーラワーダ仏教においては、(勝義諦とは)主に「世界」を構成する不変・恒常の「法」(ダルマ)のことを指し[出典無効]、
それ以外についての世俗的・恣意的・瑣末的な概念(施設(せせつ)・仮設(けせつ)・仮名(けみょう))群と対比される。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E7%BE%A9%E8%AB%A6 ウィキペディアでは出典無効となっていますが、テーラワーダは勝義諦を勝義法などとも呼び真に実在するもの(存在)として捉えています。
しかしそれはプラトンのイデアとは違いますので注意。
テーラワーダでは法(勝義法)は四位百七十法です。
一方で中観派の勝義諦とは、中論の24章に
「二つの真理(二諦)にもとづいて、もろもろのブッダの法(教え)の説示〔がなされている〕。〔すなわち〕、世間の理解としての真理(世俗諦)と、また最高の意義としての真理(勝義諦)とである。」
とあり、要するに彼岸(涅槃)の真理が勝義諦です。
では勝義諦の真理とは何かというと、掻い摘んで言えば諸法空相で実体はないということです。
般若心経ではそのことを空の世界の中は不〜不〜であり、諸法は空相であるから実体としての〜は無い(しかし世俗諦としての〜は尽きることはない)と説いています。
般若心経は空という彼岸の世界のことを説いているのです。
それで涅槃ですが、涅槃自体は無為(作られたものではないもの)であり無因の果であるので諸行無常には当てはまりません。
永遠のニルヴァーナの境地という表現も仏典ではよく見かけますが、境地ですから本当に未来永劫永遠なのかは私には分かりません。
>>601 レスありがとうございます。うーん難しいなぁ。
でもちょっと理解できました。
真理とは何かですが、たとえば五戒とか、人類が存在する限り有効な概念とかです。
プラトンのイデアとかでもいいですけど、未来永劫続きそうな道徳とか倫理とかでもいいです。
>>597 仏道修行してるといろいろ体験する。その時は変な体験だなぁと思うだけだが、
経典その他を読んでみると、あぁ確かに、こうゆうことだったのかと納得する。それだけの話。
みんながみんが、自分の体験を自分の言葉で表現する文学者じゃないからね。
>>600 悟った瞬間は、あぁ悟ったなと思うだけ。
しばらく様子を観ていると、ある種の煩悩が残っていることに気づく。
経典などで四向四果の説明と残りの煩悩を照らし合わせると、自分は今預流果だな、とかが分かる。
一来果は微妙すぎて分からなかった。
十界は分からないが、六道は分かる。悟りとは関係無く、自分の心を観察してると、
あぁあの時は地獄の次元に落ちてたな、修羅道に落ちてたな、天界に行ってたな、とかは思う。
悟って以降は、確かに地獄などの悪い次元の感情は起きない。
涅槃は永遠じゃない。不生不滅が正しい。もっと正確には不生。
生まれていない、存在すらしていないものについて永遠だとか、どうだとは言えない。
識別作用の滅した、安楽の境地とは言えると思う。
涅槃を経験すると、存在、実在とはどうゆうものかという智慧が生まれる。
存在、実在という言葉に騙されなくなる。
>>存在、実在とはどうゆうものかという智慧が生まれる。
それ知りたいです。
言葉で表現できますか?
なんとか言葉にしてもらえたらありがたいです。
ほれ、涅槃を経験してないのに経験したかのようにしたり顔でレスするだろうw
やれやれだわ
ちなみに、心、心所、色は存在、実在するじゃないかと思うかも知れませんが、
それら全てをバラバラにしてみると、どこにも何もない。
例えば、肉体は実在するじゃないか、色は実在じゃないかと言っても、
それは地水火風の集まりであって、その地水火風も瞬間に生滅している。
ここに存在がある、これだと認識した瞬間にそれはもう変化している。消えている。
法、ダンマに騙されてはいけない。無我だから。私も無我、あなたも無我、リンゴも無我だから。
この世の中に、これと言って捉えられるものは何一つない、というのが無我です。
例えば私は無我。
私のナーマも無我、ルーパも無我。
五蘊も無我、貪瞋痴も無我、眼耳鼻舌身意も無我。
どこまで細かく心を分類しても、その全てが無我。捉えることは出来ない。捕まえることは出来ない。
ゆえに手放さなければいけない、無執着でいなければいけない。
六神通なるものを得ると人の前世とか来世とか見えるというけどその人の承諾も許可もなく他人のプライバシーを無視して勝手にのぞいていいのか
仏教はプライバシーの侵害をどう考えているの
テーラワーダの勝義諦、自性の変わらない法という意味は、
五蘊が六蘊になったりしない、四大が三大になったりしないよ、地水火風が地水火木とかにはならないという意味でしょうね。
Wikipediaの不変・恒常の法という言い方は誤解を招くな。
>>604 小部経ウダーナ
8.1 第一の涅槃に関することの経(71)
「比丘たちよ、その場所(処)は存在する
――そこにおいては、まさしく、地なく、水なく、火なく、風なく、
虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処)なく、
識別無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処)なく、
無所有なる〔認識の〕場所(無所有処)なく、
表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処)なく、
この世なく、他世なく、月と日の両者はない。
比丘たちよ、そこにおいて、また、わたしは、まさしく、帰る所(現世)を説かず、赴く所(来世)を〔説か〕ず、止住を〔説か〕ず、死滅を〔説か〕ず、再生を〔説か〕ず、
これ(涅槃)を、依って立つところなきものと〔説き〕、〔対象として〕転起されることなきものと〔説き〕、まさしく、〔転起された〕対象ならざるものと〔説く〕。
これこそは、苦しみの終極“おわり”である」
8.3 第三の涅槃に関することの経(73)
「比丘たちよ、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの(有為)』でないもの(涅槃)は存在する。
比丘たちよ、もし、その、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』でないもの(涅槃)が有ることなくあったなら、
ここに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離は覚知されないであろう。
比丘たちよ、しかしながら、まさに、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』でないもの(涅槃)が存在することから、
それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離が覚知される」
ブッダが比丘たちの前で明確に存在すると言った涅槃
について「存在すらしてない」とよく言ってのけられるな
>>604 涅槃が生じたものではないというのは現象世界(有為)と涅槃は違うということであって涅槃は生じたものではないから存在しないというのは読み違いだ
>>611 仏教的には誰のプライバシーなのか?って話になるのかな
無我なんだから
質問なんだけどブッダって死ぬときに「私が死んだら教えを捨てなさい」とか言ってなかったっけ?
>>612 色、受、想、行、識の五蘊は、実際に存在するものです。そして、それらは生じては滅します。そこには独立した「人」というものは存在せず、ただ、無常(アニッチャ)なる現象があるだけです。
(アーチャン・チャー)
テーラワーダでは五蘊などの法の実在は認めます(我空法有)。
説一切有部のような三世実有ではなく経量部や大衆部と同じく現在有体過未無体、つまり法は現在の瞬間にのみ存在するとしています。
法が刹那生滅するのはそれらの部派全てに共通してはいます。
>>614 それは仏教的ではありません。
釈迦は無我なんだから人を殺してもいいとか他人の悪口を言ってもいいとは言ってません。
逆にそれらを厳しく諌めています。
無我の我とはアートマンのことで釈迦はアートマンの有無については沈黙を貫きましたが、テーラワーダ風に言えば施設された自己については大いに語っています。
>>615 死ぬ間際にアーナンダに対して言ったのは
「アーナンダよ 。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない 、
『教教えを説かれた師はましまさぬ 、もはやわれらの師はおられないのだ 』と 。
しかしそのように見なしてはならない 。お前たちのためにわたしが説いた教えとわたしの制した戒律とが 、わたしの死後にお前たちの師となるのである 。」
ですので逆です。
捨てて良いとしたのは
「アーナンダよ 。修行僧の集いは 、わたしが亡くなったのちには 、もしも、欲するならば 、瑣細な 、小さな戒律箇条は 、これを廃止してもよい」
と些細な戒律については捨てても良いとしました。
そのでアーナンダが捨てても良い戒律とは何なのか具体的に聞かなかったことで後に長老方に咎められるのですが…。
そのでアーナンダが捨てても良い戒律とは何なのか具体的に聞かなかったことで後に長老方に咎められるのですが…。
↓
そこでアーナンダが捨てても良い戒律とは何なのか具体的に聞かなかったことで後に長老方に咎められるのですが…。
>>611 まずその当時にプライバシーの侵害という概念があったかどうかですね。
現在において本人の承諾なしに神通力で他人のことを探って公言したりしたらプライバシーの侵害になるとは思います。
>>595 ↓これが回答になってる気がするのですが、如何。
>>613 存在するしないがパパンチャなら、パパンチャから抜け出した涅槃はなんなのかね。
よくわかんないね。
パパンチャの言葉で表現できるのかな。
>>618 プライバシーの侵害で訴えたとしても
検察側は前世があること、それを見たことを証明しなければいけないだろうから罪に問うのは難しいだろうね
>>613 概念と実在の違い。
概念としての涅槃はある。
実在としての涅槃は存在しない。
実在、パパンチャが無くなった状態を涅槃と言う。
戒清浄からしっかり積み上げていくしかない。
どんな議論も無駄無駄無駄。
>>616 これも、実際にあるのは概念としての五蘊ですよ。
五蘊も無我ですから。実在は無いんです。
ブッダでさえ、自分の五蘊に触れられないんです。放っておくしか無いんです。
誰もそれを捉えられないものを、実在すると表現するのはおかしいと思いますが。
我空法有はテーラワーダの言葉では無いでしょう。
テーラワーダに無い概念でテーラワーダの説明をするのはどうかと思います。
>>625 ここは語り合うスレでもあるからいいのでは?
ずっと議論ばかりはいけないと思うけど
同じだよ。
言葉の運用が違うだけ。
大乗の三宝印では涅槃寂静というが、これは一切行苦をひっくり返した表現なだけ。
信じられないかも知れませんが、「世間における一切のものは虚妄である」とはブッダの言葉ですよ。
ブッダも虚妄、八正道も虚妄、五蘊も虚妄、全てです。
六祖慧能は本来無一物と言ってますが、本当に何も無いんです、本来は。
それでは話ができないから、仮に存在するとして、言語表現として、いろいろとブッダは語った訳です。
世間においては、本来はチリひとつも存在してないんです。これは涅槃を経験しないと分からない。
ですから、アビダンマどころか、ブッダも仏教も必要ないんです。余計なものなんです。
仮に名前をつけただけの幻なんです。
問「貪や瞋といった煩悩は、単なる幻想なのでしょうか?それとも、それらは実在するものなのでしょうか?」
チャー「両方じゃ。わしらが貪瞋痴と呼んでいる煩悩は、わしらが鉢を指して大きいとか、小さいとか、すてきだと言ったりするのと同様に、
その外形につけられた名前にすぎん。もしわしらが大きな鉢を欲っしているなら、この鉢を小さな鉢だと言うだろう。
執着があるために、わしらはこのように概念を作り出す。真理はただ、あるがままのものであるにもかかわらず、
執着はわしらに物事を区別することを引き起こす。こういうふうに考えてみるといいじゃろう。
わしが「おまえさんは男かい?」と質問したとする。おまえさんの答えは「はい」かな?こういうやりとりは、
現象の表面上に表れたものに関するものなのじゃ。しかし、おまえさんは本当は、四大が結合したものか、変化し続ける五蘊の集まりにすぎないのじゃ。
もし、心が自由なら、現象を区別することはない。「大きい」「小さい」「あなた」「私」など存在しないのだ。
わしらは無我という表現を使うが、究極的には我も無我もないのだ。」
手放す生き方 アーチャンチャー p281
深く自分の中に埋没していくと、我と呼べるような何かがあるような気がするんですよね。
五蘊は無我だと分かっています。
それ以外の何かがあるような気がするんです。。。
末那識 とか阿頼耶識と呼ばれるものかな。
同じことを考えていた人はいたみたいで。
ブッダ(仏陀)。
八正道(仏法、しかも道諦)。
預流果の聖者が、三宝を虚妄と言うことはあり得ないと思う。
>>634 臨済禅師なら胸倉を掴んでこう言うでしょうね。
「どこにブッダがいる。どこに八正道がある。さぁ言え。さぁ言え。」
「ブッダは殺せ。目の前の現象を信じ切れずに、どこに道を探しているのか。」
>>635 八正道の実践があるところに八正道がある。
それが涅槃へ至る道。道諦。
八正道の実践がないところに八正道はない。
涅槃に至る道もない。
従って、涅槃に至ることもない。
仏陀はどこにいるか。
「法を見るものはわたしを見る」とのことなので、お目見えする日を
楽しみにしておこうと思っている。
>>637 全ての概念を捨て、目の前の現象に気づき続けなければ八正道は完成しない。
すなわち八正道を捨ててこそ八正道は完成する。
法とは何か。諸行無常、一切皆苦、諸法無我。
全てのサンカーラを停止し、全てのダンマに実体が無いことを悟れば、どこにもブッダはいない。
そもそもブッダは、その当時の全ての経典、師匠、修行、一切を捨てて、菩提樹の下で瞑想して悟られた。
御自身のナーマルーパに対する執着、命を捨てる覚悟で瞑想された。
今の時代の人も、ブッダに対する執着、仏法に対する執着を捨て、自分の体、心に対する執着も捨てて瞑想しないと悟れない。
いいこといいますな
でも仏法僧に対する信仰も大事なんじゃないかと思う
究極的にはなくてもいいのかも知れないですけどな
>>640 まぁ私も最初は三帰依から入りましたけど。
お釈迦さんのやり方と
お釈迦さんの教えを信じるやり方
やり方は全く違うんじゃないかね
>>643 どうでしょうね。
それだけではダメなような気もしますし、突き詰めれば最後は三帰依なのかなとも思います。
>>645 最初は本からですね。
徐々に瞑想に力を入れていき、本は捨て、仕事も辞めてしばらく瞑想に専念し、
最後は普通に仕事もし、普通に瞑想し、全く普通の生活をしていたら預流果に悟りましたね。
天国も地獄も一通り経験して、当たり前になった時悟りました。
本はけっこう早い段階で捨てました。
瞑想は基本マハシ式ヴィパッサナーで、たまに呼吸瞑想、只管打坐の真似ごとをやってみたり。
最初は慈悲の瞑想をひたすらやり込みましたね。歩く瞑想もかなりやりました。
とにかく生活の全部を瞑想に費やしましたね。
最後は瞑想に対する気持ちも冷静になりましたけど。
>>646 おめでとうございます。
悟る瞬間はどんな経験をするのか教えていただきたいです。
結構苦労されたんですね。
これからの修行の展望はどうですか?
自分はなかなか欲界に対する未練を捨てきれません。
いいところまではきている感じなのですが、近いようで遠いような感じです。
まあ日々の修行が足らないですね。特に念と定の力が足りていないと感じています。
>>626 仏教のアビダンマでは 、まず心を「勝義諦の一つ 」と位置づけています 。
勝義諦とは 、「真実 、真にあるもの 」という意味の仏教用語です 。
仏教のアビダンマでは 、勝義諦 ・真実 ・真にあるものは 「心と心所と物質 (色 )と涅槃の四つだけ 」と説明しているのです 。
一般的な世界の立場からは 、「もっといろいろなものがあるじゃないか 」という反論が返ってくるかもしれませんが 、アビダンマ論では 、「この基本的な四つがあるだけ 」と見るのです 。
その基本的な真実 、 「本当にあるもの 」の一つが 、心 c i t t aなのです 。
(スマナサーラ著「ブッダの実践心理学2」)
ということで、テーラワーダは心と心所と色と涅槃の四つを真にあるものとして実体視します。
説一切有部だとそれに心不相応法が加わって法の五位です。
実体はありますが刹那生滅するから無常であるというのがテーラワーダや説一切有部の教説です。
我空法有はテーラワーダの教説です。疑うのなら「テーラワーダ 我空法有」で検索してみるといいです。
五蘊に実体はないとするのは大乗仏教の空の理論です。
>>647 けっこう普通に冷静ですよ。
あっ!!!とは思います。
見るもの聞くもの感じるもの、全部が止まらず動き続けている。
本当に今の一瞬しか無いんだと気づきます。
その後なぜか、強烈な喜びが湧き上がってきますが、しばらくすると落ち着きます。
>>649 スマナサーラ長老の「本当にある」というのは、実体、実在としてあるという意味では無いと思いますよ。
因縁により生滅しており、無我であり、空である「それ」としてあるのだと思います。
我空法有はパーリ語で何といいますか?検索しても出てきませんが。
ちなみに無我ということも、空ということも、無いという意味ではないですよ。
我が無い、固定していて実際の存在として捉えることの出来ない、認識としてだけ有り、実際は瞬間で生滅している無常の「それ」です。
あるがままのそれです。
>>651 テーラワーダでは法は「因縁により」生滅している
と誰か言ってる人がいるのですか?
>>652 我(アートマン)は生滅しません。
あなたがどう思おうともそれがアートマンの定義だからです。
生滅するものでしたらテーラワーダ(分別説部)含む部派仏教の中に我を加えている部派はあったのかもしれませんが事実として我を法に入れている部派はありません。
分別説部では、我々が経験する常識的な存在、個別の人や事物・事象は仮のものであって実在しない、
我いわゆる霊魂のような「不滅の私」・「永遠なる個我」(atta)なるものなども存在しない、故に「無我」(anatta)である、と無我を理解。
しかしながら、部派仏教といわれる諸部派がその他なんらかの実在を認めていたように、究極的には四つの範疇に分類されるモノが実在する、という見解を立て、そのような理解に従った教学を構築しています。
現在の分別説部では、そのような究極的実在を、パーリ語でparamattha[パラマッタ]と呼称します。
その意味は、parama(第一の・勝れた)+attha(本質)で、漢訳語ではこれを「第一義」あるいは「勝義」などと言います。
あるいは、それら究極的実在を、vatthudhamma[ヴァットゥダンマ]などとも呼称します。
これはvatthu(拠り所・基礎)+dhamma(存在)で、いわば存在の根拠、要するに実在するモノのことです。
さて、ではその四つとはなんであるか。これを簡潔に表にして示せば、以下のようなものです。
(paramatthaの法の区分表)
これら四つの範疇に属するいちいちの法はすべて真に実在するのであり、これ以外の実在を認めるのは誤りである、というのが分別説部における見解です。
>>654の続き
現在、俗世間では一部に、何を根拠にその様に言うのか知りませんが、「上座部は小乗ではない」・「小乗では無かった」などと主張する一類の人々があります。
しかし、上に見たように、個我は実在しないけれども、しかし何事か真に実在するものが有るという見解を建てている以上は、これを大乗では「人空法有[にんくう ほうう]」などと云うのですが、
まさしく大乗から小乗(Hīnayāna)すなわち「不完全な教え」・「劣った教え」と見なされ、称された教え以外の何物でもないことになるようです。
また、現存する諸部派の成立についての伝承や、それらに対する大乗の見解を記した典籍からしても、多く分裂してその見解の是非を競っていた諸部派は、大乗から小乗と呼称されたものです。
であるとしても、しかし、それら部派の教義・教学体系には見るべきもの、学ぶべき有益な事柄が多くあります。
実際、大乗の諸学派はそれら部派を小乗と呼びながらも、しかしそれら(特に説一切有部・経量部・大衆部・犢子部など)を学ぶことは必須のものでした。
実際、大乗であろうが小乗であろうが、いずれも仏陀釈尊という清泉より涌出し、連綿と流れ来たったものです。
そこから汲む水は、その広狭・浅深こそあれこれを散ずれば、等しく人を、世界を潤わせ涼やかにする有益なものに相違ありません。
http://www.horakuji.com/treasures/vibhajjavadin_cetasika.htm >>646 有難うございます
丁度仕事に就こうと思っていたので励みになります。
私も瞑想に費やして行ければ良いなと思います。
いかんせん意思が弱く徹底できていませんが・・・
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1150937286 これを読むと、我空法有は大乗仏教が、小乗仏教(説一切有部)に対して付けたレッテルじゃないですかね?
大乗仏教の立場は一切皆空ですが、それはブッダの立場と一致するように思います。
法には二つ意味がありまして、真理という意味と存在という意味です。
存在としての法は、我々の意門の対象、概念としての法ですよね。それは当然、無常ですから生滅してますし、
生滅するものは全て因縁が絡んでいるはずです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
私の言う我はアートマンではないです。
固定していて、不変の、存在として捉えられる、実在、実体として捉えられるもの。という意味です。
自分の我は自我ですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91 説一切有部では、我々が経験する常識的な存在、個別の人や事物・事象は仮のものであって実在しない、
我いわゆる霊魂のような「不滅の私」・「永遠なる個我」(ātman)なるものなども存在しない、故に無我(anātman)である、と無我を理解。
しかしながら、部派仏教といわれる諸部派がその他なんらかの実在を認めていたように、大きくは二つ、あるいは五つの範疇に分類されるモノが真に実在する、という見解を立て、そのような理解に従った教学を構築しています。
巷間には開口一番「すべては虚妄である。所詮それは、名(ナーマ)と色(ルーパ)にすぎないのであるから」だとか「すべては無自性空である。あれも空だ、これも空だ」などと宣う愚か者があります。
が、説一切有部では、世間で認められる常識的な存在を無碍に否定などしておらず、これを世俗諦(世間的レベルでの真実)とし、対して究極的に認められる存在を勝義諦[しょうぎたい](真に存在するモノ)としています。
吾人の知覚し、経験する諸々の事象を、端から否定するような態度は取らないのです。
真実(諦/satya)について、その見方によって二つの階層を設定し、そのそれぞれの価値を認めているのです。
そして、そのような真実についての理解の仕方は、その内容とするものこそ相違があるものの、大乗にも引き継がれています。
個我は実在しない。けれども、生命・事物など仮の現象を構成する、真に実在するモノがあるという見解を、大乗では「人空法有[にんくうほうう]」などと云います。
そして、そのような見解自体、またそのような見解を至高として奉持する人々は、同じ仏教であっても、大乗の立場から小乗(Hīnayāna)すなわち「不完全な教え」・「劣った教え」と見なされてきました。
特に説一切有部は、インドで最大勢力を誇る部派の一つであったこともあり、その見解・学説は、大乗の主要な批判対象となっています。
http://www.horakuji.com/treasures/sarvasthivadin_cetasika.htm >>657 我空法有は大乗仏教側の用語であるというのはその通りです。
法の生滅はその法の自性であるというのが部派仏教の理論だったと思います。
我の定義は仏教で我と言ったら何のことを指すのかほの定義をはっきりとわきまえていないと対話していて混乱しますね。
私もまだ正直、自性という言葉の意味がよく分かりませんし、実在という言葉もちょっと曖昧ですよね。
もう少し勉強したいと思います。
法の刹那滅(刹那生滅)は法の自性かどうか、ですが。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/37/2/37_2_922/_pdf 上記論文をさらっと読んだところでは部派によって見解が違う、と。
説一切有部は実体として存在する五位七十五法の心不相応行法に生住異滅の四相がありそれによって刹那滅していくのですから、刹那滅は四相が因になると言えるかもしれませんが、
四相自体も実有なので結局的には生にしても生を生起させる随相の生があればあとは因なしで生が生起することがこの論文には書いてありました(って書いてても自分でややこしいと思いますが詳しくは論文を…
経量部は四相は認めていませんが生が生起するのには本はなしとしているとあり、これが因なしで刹那滅の生が起こることを意味しているのかは分かりませんでした。
滅について因が必要かどうかは経量部では不要、
正量部では心法や心所法では無因でよいが色法は刹那滅ではなく一定期間相続するから滅には原因が必要とされていたようです。
また経量部は説一切有部の随想の生はそれを生起させる随相の生が必要になり随相の生を生起させる随相の生にもそれを生起させる随相の生が…
という具合に無窮の過に陥るのではないかと突っ込みを入れましたが、説一切有部からの反論があったり、
また中観派からの突っ込みもあったりして、刹那滅というのも随分と論争のネタにされてたんだなというのが垣間見えました笑
釈迦ならこの辺りのことは悟りには関係ないとして、もし訊ねられても無記としたのではないかと思われます。
涅槃でいる間は識別作用がないとよく言うけど、それじゃその間、失神や熟睡してしまったのではないとどうして言えるの?
瞑想して入るからそれが涅槃だと言えるのかもしれないけど、状態として失神や熟睡との違いは何かあるのでしょうか?
具体的にどのような違いがあるのでしょうか?
>>638 ん〜、やっぱりオカシイな。
気づきを保つこと(正念を保つこと)を、八正道(の概念)に対する執着とは言わないでしょう。
あれこれ思考を巡らせていたら、それは妄想に流されているのであって
正念は保てていないわけですからね。
預流果って、パーリ三蔵の文脈で説明される道果ですよね。
その預流果が、臨済を持ち出して、パーリ三蔵の土台である三宝を否定するかな。
他人が彼岸にわたる乗り物を壊す、少なくとも水を差す行為でしょう。
預流果の人がそんなことをするとういのが、想像できない。
テーラワーダの聖者と言われている人で、ブッダも虚妄なんていう比丘がいましたかね。
三蔵経典の中にも、現代の比丘のなかにも、一人でもいましたっけか。
大乗仏教の文脈から、パーリ三蔵仏教は劣った不完全な教えだと
言うのであれば、どうぞ人よりも優れた仏教、人よりも上位の仏教、
人よりも優位な仏教である大乗仏教をやっていて下さい、と思って
しまいますね。
>>663 気づきと智慧があるかないか。
>>668 こう考えてみて下さい。
阿羅漢は仏教徒だろうか。聖者だろうか。八正道を行じているだろうか。
ブッダに帰依しているだろうか。経典を大事に抱え込んでいるだろうか。
解脱するとはどういうことだろうか。一切の執着を断つとはどういうことだろうか。
筏のたとえもありますね。
一休禅師は筏を捨てるだけでなく、筏をぶち壊して小便ひっかけて笑いながら逃げたようなものですよ。
「釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな」 一休
ブッダは嘘つきだという意味ではもちろん無いです。仏教の勉強をしたがゆえに、かえって頭が悪くなる場合が多い。
もしくは、阿羅漢にとってはブッダであっても迷いの原因だという意味でしょう。
>>670 涅槃の間は気づきも智慧もないですよね
涅槃の後に気づきや智慧が生じたとしても涅槃自体に失神や熟睡との具体的な違いが体験内容としてはないってことですよね
ざっくり言うと失神や熟睡で気づきや智慧が生じた人と区別がつかないってことですよね
言いたいことは体験の内容として涅槃と失神や熟に違いがあるかどうかということなんです
>>671 いや、どうも気づきはあるみたいなんですよ。
マハーシ長老の本でも、「対象と気づきが断ち切れた」みたいな表現してましたし。
気づきはどうも不思議なもので、いったい何なのかはあまり語られてないみたいです。
あまり気にしなくていいという事でしょうけど。
>>672 へえ、識別作用はなくても気づきはあるんですか
それだと失神や熟睡とは全く違いますね
ありがとうございました
>>673 いや、あるというのもおかしいですが、対象と気づきが切れて機能しなくなるとか、
止まった気づきがあるというか。
いずれにせよ言葉では表現できないみたいですね。
涅槃は心・五蘊ではなく純粋観照者たる真我で知覚する
真我のことをインドではプルシャという
ヨーガとは心の働きを止滅することである。
心のはたらきが止滅された時には、’’純粋観照者’’ たるプルシャは自己本来の態にとどまることになる。ヨーガとは心の働きを止滅することである。
(ヨガスートラ)
>>676 気絶とか以外でそれができるとしたら、それは貴方が完璧なサマタ瞑想を行ずることができるからだろうね
心の中には一刹那の間にも無数の想念が湧いてくるのだという、ヴィパッサナーを極めるとそれら無数の想念を完全に観察することができるという
いいたとえを思いついた。
寝ている時は、無明の闇によって対象が観えない。涅槃の時は、智慧の光が眩しくて対象が観えない。
寝ている時は、気づきが無いから対象が観えない。涅槃の時は、気づきが速すぎて対象が追いつかないから観えない。
スマナサーラは90年ごろの土曜の教育テレビでよくみかけた
こころの時代って番組だった。昼の1時から1時間番組。
靴箱、こんなとこにいたんだな。相変わら頭のイカれたスマナサーラ信者なんだな。
むしろ頭がイカれてるのは自分の方だと気付く
その攻撃心に気付く
221、 怒りを捨てよ。慢心を除き去れ。いかなる束縛をも超越せよ。名称と形態とにこだわらず、無一物となった者は、苦悩に追われることがない。
226、 ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び、ニルヴァーナを得ようとめざしているならば、もろもろの汚れは消え失せる。
276 、汝らは(みずから)つとめよ。もろもろの如来(修行を完成した人)は(ただ)教えを説くだけである。心をおさめて、この道を歩む者どもは、悪魔の束縛から脱れるであろう。
323 、何となれば、これらの乗物によっては未到の地(ニルヴァーナ)に行くことはできない。そこへは、慎しみある人が、おのれ自らをよくととのえておもむく。
348 、前を捨てよ。後を捨てよ。中間を棄てよ。生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらについて心が解脱していて、もはや生れと老いとを受けることが無いであろう。
>>683 コピペもいいけどさ 自分のコメントもつけろって
このスレたまに白熱することがあって、平常は書き込みがないよね
みんな自分のこと頑張ってるんだろうか
毎度「群盲象を評す」状態に陥り、事態収束のために経典が引用され、
けっきょく最後は自分の心を整えるしかないよね、って結論でおわる。
毎回この繰り返しな気がす。
仏教が沢山枝分かれしたのもこのスレを見ていると納得する
もし経典の結集がなされていなかったら、仏法は跡形もなく
雲散霧消していたのではなかろうか。
色蘊は無我。
肉体は地水火風の集まりであって、その地水火風は米、味噌、野菜などから取っている。
地球にある地水火風を借りて肉体が出来ている訳だが、
この肉体を自分であるとか、自分の物だと勘違いするのは盗み、嘘じゃないか。
図書館で借りてきた本を、自分の本だと言い張るようなもので、馬鹿らしい間違いだ。
いずれ死んだら灰になったりして、地球に返さなきゃいけないのに。
肉体を維持するために一生苦労するのも馬鹿らしい。
最後には返さなきゃいけないレンタカーを毎日磨いて、パーツを交換して、ガソリンを満タンにする。
走れる程度にメンテナンスすればいい。
受蘊は無我。
一瞬も止まらない、止めておくこともできない感覚が私、私のものである訳がない。
生まれては消えていく感覚を自由に管理することはできない。風呂に入れば暖かい感覚を味わうことができるが、
それが期待どおりのものとは限らないし、それを永遠に留めておくこともできない。
感覚は因縁により管理されているものであって、私が管理している訳ではない。
痛みなどの感覚も、自分が勝手に「これは痛みである。」と認識して、勝手に嫌っているだけ。
実際にあるのは喜ぶべきものでもなく、嫌うべきものでもない、名前のついてない、ありのままの感覚。
どこにも「痛み」「かゆみ」「美味い」「不味い」「うるさい音」「きれいな音」なんてものは無い。
感覚にしっかり気づいて、妄想しないでいられれば、そこに「私」というものは生まれない。
想蘊は無我。
思考、知識、見解もまた、私ではなく、私のものでもない。
頭の中にある概念は全て、生まれてから周りに教えられて獲得したもの。
他人からコピーさせてもらった文章を自分のものとして発表すれば大問題になる。
他人から与えられた概念を組み合わせて新しい概念を作るとする。その場合でもやはり自分のものとはいえない。
原因として与えられる概念が無ければ、結果としての新しい概念は生まれないから。
そしてまた、新しい概念が原因となり、さらに新しい概念を生む。古くなった概念はいずれ忘れさられる。
さらに思考、知識、見解は常に頭の中に固定してあるのではない。
因縁により、意志により、条件が整った場合に頭の中に表れ、条件が無くなれば消える。
生まれては消えていく思考、知識、見解は私ではなく、私のものでもない。
行蘊は無我。
あれが欲しい、これが欲しい、ああなりたい、こうなりたいという意志は私のものか。
何かの対象に吸い寄せられているだけであって、私の意志じゃない。
対象が無いとき、もしくは対象に興味が無いときには欲は起きないのだから。
あれを見たり、これを聞いたり、それを触ったり、瞬間瞬間に生まれては消えていく意志もまた、私がコントロールしている訳ではない。
何かの因縁で生滅しているだけの意志は私、私のものではない。
何かの対象に心を集中すればサマーディに達する。それは意志の力ではあるが、その意志はどこから生まれたか。
あらかじめ、サマーディに対する情報、欲求があったからこそ生まれた意志。私の意志ではない。
悟り、涅槃を目指すという意志はしっかりと起こすべきである。それは私の意志だと思っても良い。執着しても構わない。
ブッダも阿羅漢も元はただの人間だった。自分も人間である。涅槃に達することができて当然だ。
毎日の生活に振り回されているのは情けない。私は死んででも涅槃に達するという、鉄のような意志、誓願をしっかり起こすべきだ。
龍樹の空の思想に対する批判で、涅槃や四諦も空なのかというものがあるけれど、
龍樹はどのように反論しているかわかりません。知ってる方いましたら教えてもらえないでしょうか?
ウィキペディアは見たのですが、説明が分かりませんでした。
識蘊は無我。
マハシ式ヴィパッサナーをやれば識蘊がよく分かる。
人間はものすごい速さで物事を認識している。「音、音、吸う、右足、かゆみ、見た、左足、音、吐く。」
それら認識は自分で認識しようと思ってやっている訳じゃない。因縁によって自然に起きている現象。
「ネコ」だという認識は嫌だ、「犬」だと認識しよう、と思ってもできない。
ネコのような光が眼に入った瞬間、「ネコ」という認識が生まれてしまう。
識蘊が無我であることは、涅槃に入らないと分からない。
識は、そこにそれが「ある」という認識そのものなのだから、そこに実体が「無い」、無我である、という事を認識では理解できない。
認識を止めることによって初めて、識は無我である、ということが分かる。
ではどうすれば認識は止まるのか。
まず戒を守る。戒を守らなければ、どうしても心は動揺してしまう。動揺した心は止まらない。次々と認識を生みだす。
次に感覚をしっかり感じる。感覚をしっかり感じれば、それはただの「音」では無く、瞬間で変化している「それ」になる。
次に思考を止める。無我を悟るまでは、思考自体が認識の塊のようなもの。しかし考えてしまったものはしょうがない。
思考が生まれ、消えたことを確認して、感覚の観察に戻る。
>>698 wikiの説明そのままじゃない?
お前らは空を理解してねー、空だから涅槃も四諦も成り立つんだ 的な
涅槃の体験が空を体験していることに他ならない。
一切の概念には実体は無かった。眼耳鼻舌身意は作られたものだった。と理解することは、
涅槃を体験、空を体験するということ。
一切が空だと分かれば、見るもの、聞くもの、感じるものに対する欲が無くなる。
すなわち渇愛が無くなる。渇愛が無くなれば四聖諦が完成する。
>>703 釈迦の四諦も涅槃もさっぱりわからない。
こちらが理解できるまで説明してくれ。
>>703 https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=5343&id=66474415
上のmixiのログインしなくても読める箇所だけでも読むと大分理解が進むかもしれません。
>>705 僕が説明するよりウィキペディア見た方がいいですよ
>>706 ありがとうごうざいます。
四諦と縁起をひとまとめにして、その有り様を表した言葉が「空」だと思う。
あるいは、勝義諦と世俗諦をひとまとめでも同じことだと思う。
ということは「悟り」と言い換えても同じはず。
例えば、身体のことを「上半身と下半身」という風に、二つに分けても、
「五体」と五つに分けても、結局同じ「身体」を指している。
本来、そこに上下優劣はないはず。
あくまでIMOなので、間違ってたらごめん。
諸行無常、一切皆苦、諸法無我はブッダの言葉。
一切皆空はブッダの言葉じゃない。どうしても一段落ちる。たとえそれが真理だとしても。
だいたい一切はサンカーラなのか、ダンマなのか。どっちもなのか。
いずれにせよ、あまり使わないに越したことはない。
確かに。
いくら象を論評しても、盲の目に光は点らない。
パーリ仏教を信奉できる人というのは、仏説をそのまま受容できる機根という
ことだろうから、わざわざ仏説をそのまま需要できない人向けの方便を使う
必要もないと思う。
言語的に高度に洗練された仏法の説明って、
群盲に向けて象を語り尽くすってことだから、
仮にそれで象の姿が伝わったしても、
盲が治るわけじゃないと思うんだよね。
その意味では、多くの大乗部派の高度化って、脱線の歴史でもあると思う。
率直に言ってしまうと。
教学、理論にかたよると脱線するみたいだね。
実践をメインにしないと。
じゃあ今日の実践を書き込み。
昨日より無常というものが身近になった。
私は車が好きで、執着があるんだけど、今日はなぜか無常を昨日よりリアルに感じて、執着が減った。
そんな一日だった。
明日はマインドフルネスを意識しようかな。
ちなみにBMWが好き。
でも無常を感じて、気にしてもしょうがない、という感じを強くした。
まだ執着は残っているけど、かすか。
乗り物を所有する願望あるけど
理由は自由や解放を感じらると
思っている部分がある
でも所有してみると
とても沢山の制約に縛られて
自由や解放なんてほんの少しで
やらなければいけないことばかりが
とても増えるだけなのを経験する
結構そういう感じで
所有したいものが減ったな
>>552 >例えば概念としての「ネコ」は過去、現在、未来、変わらず有るでしょう、と言いたいのが説一切有部だと思いますが、
ちゃいます。それだと人有我になりますよ。
でも所有欲って色欲、無色欲も関係してそうだよね。
車とかのモノは欲界に属するものだけど、
色界、無色界にも影響を及ぼしているのかなと思う。
この考察、てんで的外れだろうか。
>>574 それはそうでしょ
普遍なる本当の「勝解」や「信」がイデアとして唯一存在するのではなく、性質の変わらない(自性)法として、個々の勝解や信がいくつも存在するのだから
イデア論というより原子論に近いですよ、説一切有部は
>>714 私も物への執着が強いです。
自分で勝手に価値を入れて執着しちゃう自作自演の世界は虚しい。
>>719 無常を悟って執着するにはあたらないとするしかありませんね。
少なくとも私はそのように感じます。
>>715 >自由や解放なんてほんの少しで
>やらなければいけないことばかりが
>とても増えるだけなのを経験する
ガソリン代、最近高止まりですね。
燃費の良いバイクに乗っていてもちょっとお財布つらいww
年間2万キロ近く走るので、これが生きがいなのです。
自由と解放は体中で痛いぐらい感じます!!!!
奪われると泣きますねwww
無常を悟ると目に見えるもののほとんど全部が空しく感じるようになるんだよな
きらびやかなものも、つまらない、むなしい、ものがなしい、そのように感じる
まあ中途半端に悟ってる自分でさえそのように感じるんだから、
自分より上の世界を見ている人は、また違うような認識なんだろうな
>>707 やはり、わからないんですね。知ったかぶりごくろうさまです。
>>724 あなたは微塵も悟っていないからご安心あれ
悟ったという妄想を慰めに生きるのみです
>>632 それはプドガラ説だね
五蘊と同じでも、五蘊と異なるのでもないプドガラが存在するっていうね
中村元氏の非我的有我説はヤージュナヴァルキヤの焼き直しの解釈だけど
有我説ってパターンが決まってるね
五蘊以外の何かがあるような気がするってすごい感覚だな
学道の人すべからく貧なるべし
学道の人は後日をまちて行道せんと思ふことなかれ
学道の人、自解を執することなかれ
まず仏道修行者は貧乏でないと。
自分は一人暮らしの時、テレビもパソコンも本も捨てた。
生活の為にアルバイトを最低限やり、終われば適当なご飯を作って食べ、寝るまで瞑想した。
部屋には小さなテーブルしか無かった。
自炊をしてたから、キッチンは充実してたけど。
いやぁ、楽しかったなぁ。
それでもやっぱり、料理とかお菓子作りに執着が生まれてしまったなぁ。
なかなか無執着の生活は、在家では難しいね。
維摩居士は実在するか怪しい。
龐居士は実在するっぽい。そしてド貧乏。
よく大乗経典だ小乗経典だと分けて、小乗は大乗に劣るのだというようなことをいう人がおります。
そもそも大乗とは「悟りの世界である向こう岸に、みんなでいっしょに渡りましょう」といって乗り込む大きな船のことです。
そして小乗とは、自分ひとりだけ悟りを開こう、彼岸に渡ろうとして乗り込む小さなボートといえば、わかりやすいでしょう。
大乗と言いながら自分中心の生活をしている人もおりますし、また、小乗であっても、人さまのことを心から心配してあげる人もおられます。
マザー・テレサ女史は、相手に、どの宗教の信者であるかを、まずたずねます。そして、その人が最期のときを迎えると、イスラム教徒であればコーランを読んであげる。ヒンズー教徒ならばガンジス河の水をかけてあげるのです。
女史ご自身は敬虔なクリスチャンなのですが、相手に応じて、宗教・宗派の違いを超えた奉仕をしておられるのです。
そこには、信仰の違い、宗派の違いといった壁はまったく存在しません。あるのは愛だけです。
女史こそ、まさに大乗の人というべきでありましょう。
お人好しだなあ、カトリック神父、修道女なんか全員合法的スパイだぞw
だから未だにバチカンは強いんだよ
あなたは、強いとか弱いとか、そういう世俗的な理由で宗教をやっているんですか?
陰謀論者の最期のときはどんな奉仕をしてあげたらいいのかな
>>738 あのね、ローマ教皇なんてものは歴代ろくなもんじゃないのよ?
おもっきり世俗の組織だよあんなもの
>>739 陰謀論ではないね、事実
自分は、カトリックなんぞに比べたら仏教は遥かに素晴らしい宗教だと思うけど
それでも、権力という意味ではカトリックの方が絶大だという事実は認めなければならない
宗教の衣をかぶりながら、ヤクザ、チンピラ、海賊みたいな連中がトップを務めてきた
世俗を統治する巨大組織だからだよカトリックは
オメーラ二人、悟ってたとしても単なる勉強不足
スブーティ、お前はどう思う?
いわゆる預流果の境地に到達した人がいるとして、その人は「よっしゃ!オレは預流果レベルになったぜ!!」などと考えたりするだろうかね?
いや、それはないですね。
だって、「境地を獲得した」などといったところで、実際には何も得てはいないのですよ。
強いて言うなら、その人が得たものは「見ることも聞くことも、嗅ぐことも味わうことも、触ることも考えることもできない」ものなのです。
もしも「今のオレは預流果だ!」などと考えるようであれば、その人には「自我=自分は存在する」などという恐るべきカンチガイが思いきり残っていることになります。
そんな人は「自分以外のもの」が存在すると誤解し、「物体が存在する」と誤解し、その他の愚にもつかない執着をどんどん強めていくばかりです。
そういう人が聖者への流れへ乗ることはあり得ません。
そんなわけですから、預流果に達した人は、決してそれを意識しません。
だからこそ、預流果なのです。
金剛般若経
自分の立場から、自分の尺度で解釈した、
自分にとっての正しい仏道実践のあり方を
自分とは違う立場、自分とは違う尺度を持った人に
押し付けないで欲しい。
少なくとも、その自分基準で人を裁くのは止めて欲しい。
貴方にとっては、それが最善だということは認める。
わたしにとっては、わたしにとっての最善がある。
なぜなら、違う人生を生きているから。
金剛般若経の現代日本語訳のコピペを貼ったのがお気にさわったのなら、謝ります
すみません
〇〇であるはずだ。
だから、〇〇するべきだ。
こういう断定は思い込みの可能性がある。
それって、仏教用語でいう見(ditthi)じゃなかろうか。
彼は〇〇するべきなのに、〇〇していない。
わたしはそれを不快に思い、わたしは怒る。
わたしは正しく、彼は間違っている。
という風に続くでしょう。
仏教は正しいとしても、わたしら個々人は別に正しくないし
間違えるのだから、気を付けないといけないよね。
>>744 そうではありません。
ありがとうございます。
人それぞれ修行の段階も違えば、どの課題に取り組んでいるかも違います。
どの波羅蜜に取り組んでいるか、どの瞑想課題に取り組んでいるか違います。
自分視点からみて、自分が理解している基準でもって、自分とは異なる他の
修行者を裁けると思わないで欲しいのです。
診察をせずに診断書を出すような医者、裁判もせずにお裁きを下すような
判事にならないでもらいたいのです。
外の境が現れたならば、すぐに自己にたちかえり、それが自己であると見破れ(臨済録)
裁く主体もいないし、裁かれる主体もいない
傷つける相手もいないし、傷つく自分もいない
壁に画かれた生き物に感覚がないように、世のあらゆる人々も幻のようなものであると見なければいけない
このように見るのが正しい考えであり、これと異なるのを分別の考えというのである
この世のありとあらゆるものごとやできごとは、
眼を急に動かした時に生じるちらつき
幻覚
朝起きたときに覚えている夢
のようなものだと知りなさい
>>745 731 名前:神も仏も名無しさん :2018/11/28(水) 11:55:05.30 ID:YjgMa82Y
五蘊以外にあるのは涅槃だけやろ。
こう断定している人の台詞とは思えませんな
己が傲慢で慢心しているから、上から裁かれていると感じるのかもしれない
あなたを裁いている人は、上から裁いているつもりはないのかもしれない
もっと別な考えがあって、書き込んでいるのかもしれない
禅では、獅子が吠えれば狐狸は脳が破裂してしまう、といいます。
お互い狐狸にならないように努力したいものですね。
ただ、獅子のほうも狐狸に迷惑をかけようと思って、吠えているわけではないのかもしれませんね。
本当の獅子なら驚声を捨て黙して他を驚かしむることはないでしょう
野狐禅者のマウンティングじゃないかな
診断する力量もないし、裁く力量もないし、
それらに傷ついたり怒ったりする必要もありません
むしろこちらで諭してあげましょう
自分のために言ってるのではなくて、修行者コミュニティの円滑な
運営のために言っているのかも知れないでしょう。
わたしも皆さんも、各々の発言に込められた前後の文脈と背景を知らない。
知らないで判断している。
阿羅漢ならいざ知らず、人間の判断というのは、ほぼすべからくそういう
ものでしょう。
言葉による遣り取りには、常にこの不完全さ(前後も背景も知らない)が付き纏う。
おまけに、言葉の定義すらそれぞれに違う。
〇〇しないで欲しい、との発言を見て
ある人は、彼が避難されて傷ついていると解釈した。
その後の思考は、すべてその判断を前提としてなされる。
そしての断定的な判断は、ほぼ無意識的かつ自動的になされている
と推測できる。
なぜなら、意識的であれば、その前提が事実であるか確認する必要
に気付くはずだから。
阿羅漢でもないのに自分の反射的な判断が正しいと思うのだとしたら
それはまだ智慧が育ってない証拠だと思う。
○○して欲しい、しないで欲しいと言っている人はまだ一切皆苦を理解してないね。
世の中が自分の思惑どおりに行く訳が無いだろうに。
今日いきなり誰かに殴られるかもしれない。殴って欲しくないのに。
金剛般若経は間違ってるね。
有身見と慢の微妙な違いが分かってない。
預流果ではまだ自分がある。無常、苦、無我を理解し、有身見を滅ぼした自分がある。
阿羅漢果になってやっと慢が無くなる。自分が無くなる。目指すものが無くなる。
善行為(kusala)は、適切なやり方で行われた行為という意味も含意するので、
コミュニケーションの巧拙に配慮することは、仏教徒コミュニティの健全な
発展にも寄与すると思っている。
>>761 匿名掲示板でコミュニティの健全な発展とか無いから。
フェイスブックとかで頑張って。
BBSの外にある実生活での話ですよ。
人間関係や社会生活において、他者や他者の意見に対して主観的な判断が生じたなら、
その瞬間、自分自身の思い込みのフィルターに妄想が生じたということです。
その反射的な判断は、まだ事実確認のとれていない仮説に過ぎません。
ですから、断定する前に、まず自分の判断の根拠となった前提認識が正しいか
どうか確認する必要があると思います。
そのために、まずするべきことは、判断ではなく質問です。
回答の第一声を、裁きではなく質問にするだけで、かなり改善できるはずです。
「質問です」
「鶴が枯れた松のてっぺんに止まっている境地はどうですか」
仏法の世界にのぼり孤高な様子を喩えたものでしょう。枯れきって日常の世間とは断絶がありますね。
「上の方は立派でも足元は見苦しい限りだ」
“お高く”止まっている奴のその足元はきっと汚れっぱなしじゃないか、というわけです。
現状、日本のテーラワーダ仏教コミュニティは個人主義的な傾向が強く、
コミュニティのひとつとしてみた時に自浄作用に乏しく、融通の利かない
ところがあるように見えます。
あまり好ましい傾向とは思えません。
まだ哲学化される以前の、釈尊現存のころの原始仏教もそうですが、禅は生活全般を重視して、それこそご飯を食べるのも、食べた食器を洗うのも、あるいは匿名掲示板のカキコミまでも仏道と無縁ではない、という姿勢ですから、
仏教用語をゴタゴタならべてとり澄ましていることが悟りとか修行とされていることに欺瞞を感じるわけなのでしょう。
生活の中から「悟り」や「仏教」という時間や場所を抜き出すことはできないのですから・・・
勝義で思い出したけど5ちゃんねるの宗教板ではしばし勝義視座とかイミフな用語を目にする
この用語を使ってる人は恐らく勝義とはなんのことか分かってないのだろうね
部派仏教だけでも勝義諦は法だとはいえ三世実有を説く有部のような部派もあれば現有過未無体を説く経量部や大衆部のような部派もあり
また色法は刹那滅せずしばらくは存続するとした正量部のような部派もあり勝義は究極的実在である法であるまでは共通しているがそこから先は部派によって主張が違う
大乗仏教では法も空であり勝義諦とは空を指す
それらを十把一絡げにして勝義視座という自分で作ったのかなんなは知らないけどそのような用語を見ると「この人は仏教を知らないのだな」というのが分かるというもの
多分勝義視座を使ってる人は勝義を空の意味で使ってるのだと思うけどそれもまたおかしいんだよね
般若心経の
是故空中 無色 無受想行識
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界乃至無意識界
が読めてないのかな、あるいは般若心経知らないのかな、と思ってしまう
とにかく勝義視座という用語一つでもその人が仏教についてよく知らないというのが分かるってもんだということ
知らないの仕方ないけど知らないのなら独自用語を作らない方がいいと思う
そんな用語をわざわざ作って使ってる時点でその人のいうことに説得力がなくなるからね
まあそういう俺も学ぶことはまだまだあるわけだが
法門無尽誓願学だわ
過去・現在・未来の仏たちは、「それ」があることを知らない。
知り抜いているからだ(つまり、知っていることも忘れている)
畜生の方がかえって仏性があることを知っている。
それこそあらゆる用語で、日夜語り尽くすことができるほどだ。
だから知っているというのは、全く知らないということだ。
最初はわたしが勉強して知るのかと思ってたけど、そうじゃなかった。
別にまだ悟ったわけでもないが、悟りへの道は見えた。
見りゃわかる。
教学の重要性を否定する気はありません。
ただ、八正道は道なので、歩かないと進まないっす。
仏とは、計らいのない日常を送る人のこと。
計らいがない(無心)ということは、自分が仏であるかどうか、悟っているかどうか、という意識も離れているということです。
つまり、仏だからこそ知らない。知る・知らないを超え出ているのです。
逆に、ことさらに仏になろうとしたり、悟りや無我にこだわることは、仏で「ある」ことの妨げにしかなりません。
ここでは南泉和尚はそういう存在を「畜生」とまとめましたが、これは対比のための言葉のアヤで、動物がダメだというわけではありません。
「私は何もかも全て捨て去って、日夜仏道をあゆむ純一無難な修行者でございます」と。
言葉づらとは逆に、自我に満ちて高慢な様子が溢れんばかりに感じられます。自意識過剰というやつですね。
趙州の返事はつれないもので「それも捨ててしまえ」
そんな差別意識や選民意識の類は悟ることを妨げる落とし穴のようなもの。
この僧も、「捨てている」という自意識の鼻っ柱が結果的に大きな荷物となってしまっているわけです。
私というものは、不完全で間違えるものですよね。
阿羅漢でも無い限り。
それを言うことが、高慢なのでしょうか。
俺は5chでだけしか仏教の話はしない。
リアルでは黙ってる。聞かれない限りは。
5chは言いたい放題だからいい。本音も分かる。
涅槃とか悟りの話題をしても平気。プライベートな煩悩についても平気。
匿名じゃなきゃそんな話題はできない。5chの唯一のメリット。
相手の意図を確認する前に断定するケースが多すぎる。
瞑想って上手になると他のどんなことより素晴らしいものになるんですね
全ての楽しみを凌駕していることが分かった
ある種の高揚感、わくわく感 躍動感 多幸感などを一回経験すると止められないよな
全体能力が底上げされる気がしますね
後特殊かもしれませんが予知夢的なものをよく見ます
一瞬の喜、楽などの楽しみはまだ序の口で、
悟りの楽しみは異常。
金輪際、未来永劫、悩み苦しみが無くなってしまうんだから。
インドで仏教の興隆に力を注いだアショカ王の教えを刻んだ石碑が発見されています。
「人は、自分はこんな善いことをしたのにと自分の善事だけを見て、自分はこんな悪事をなしたと、自分の悪を見ることがまったくない」という内容だそうです。
昔もいまも、人間というものは自分の非を棚に上げて、自分に都合のよいところだけを宣伝するもので、そこのところは少しも変わっていないことを物語っています。
なにか不都合なことが起こったとき、その原因を人のせいにし、社会のせいにし、政治のせいにして責任を他に転嫁していれば、自分は傷つかずにすみます。しかし、そうしているかぎり自己反省は生まれません。
自分にも至らないところがあり、自分は足りない人間だという謙虚さを失って、いたずらに権利の主張ばかりが多いところに、健全で美しい社会は生まれるはずがありません。やがては自分が傷つかなくてはならないのです。
健全で美しい社会なんていつあったのか。これからもありえるだろうか。一切皆苦の世の中で。
預流果に悟れば自分の悪を隠さない。とスッタニパータに説かれている。
社会を良くする事よりも、早く悟りを目指すべき。
仏教は社会福祉の宗教じゃない。
善行為の三条件
一、動機が善であること
一、やり方が善であること
一、結果が善であること
良かった... 人を傷つけたり悪いことをしたと思っても それを悔いたり後ろめたく思ったりする必要は無いと言うことですね
命が尊いというのも偏った価値観にすぎないし 尊く無いというのも価値観に過ぎない 社会的な決まり(法律)に罰せられることはあってもそれはたまたまその時そういう決まりがあったに過ぎず 本質的には罪というものは存在しない
自分が気にしない限り罪など存在しないということか
>>784 本質的な罪といえば貪瞋痴だろうね。
欲、怒り、愚かさ。
自分を苦しめる、もしくは他の生命を苦しめる行為は悪行為。
預流果になれば、自分の中の貪瞋痴を誤魔化すことができない。
山の中での修行は誰だってできる。瞑想するくらいなら簡単である。
だがひとたび俗界に下りてきて生活を始めたら、異性関係は乱れ、お金では欲望に目をくらませ、人間関係では激しく葛藤する。これがもっぱらである。
そのようなものは本物ではない。
瞑想にふけって神秘らしきものを体験しても、あるいは滝に打たれ断食しても、日常生活に戻ったとたんに欲望にかられたり、くだらないおしゃべりに明け暮れているだけなら、何の意味もないではないか。
役人は役人という仕事の上において人欲をなくし、教育者は教育者という仕事の上において、修行をしなければならないのだ。
このように、日々の生活の中で人欲をなくし、聖人になる修行をしなければならない。これを「事上錬磨」という。
>>763 >そのために、まずするべきことは、判断ではなく質問です。
てめえ、なめてんのか?
こういう質問で正しいでしょうか?
浅学菲才凡夫の私見で申し訳ありません。
>>788 確かに少しばかりの瞑想をして、貪瞋痴、欲、怒りなどを弱めたところで、
日常生活に戻れば煩悩も逆もどりしてしまう。
しかし一度しっかり瞑想に専念し、悟りの智慧が現われると貪瞋痴が無くなってしまう。
日常生活に戻っても後戻りしない。
なぜなら悟りの智慧は、物事の本質、自分自身の本質を見抜くから。本質とは無常、苦、無我のこと。
無常であるもの、苦であるもの、無我であるものには欲を出すことができない。激しく怒ることもできない。
そのような智慧があらわれた人は、どこに行っても物事に惑わされない。
どこへ行っても自分が主人公であって、物事に使われるという事がない。
人として生まれたからには悟らなければならない
そういう社会になってくるね
その前に「悟りとはなにか?」
という明確な定義が必要になるな
豊富な知識を具えるのは、それによって偏見や固定観念を離れて、ものごとをさまざまな角度から見られるようになるためなのです。
ところが、うっかりすると逆に、たくさん詰め込んだ知識をこれみよがしに振りかざして、それで人を見下したり、人の言葉には耳も貸さないという態度をとってしまう人がいるのですね。
法華経には、「もろもろの有らゆる功徳を修し、柔和質直なる者」という言葉があります。
本当に仏に近づくためには、知識を学ぶのと一緒に、人に奉仕する実践が必要です。
それが、功徳を積むことです。
人の幸せのために働くことなどなにひとつしようとせず、ただ自分を偉く見せるための勉強であっては、知識で武装した独善的な人間になってしまいます。
瞑想というのはただの気トレ(筋トレの気バージョン)
ただの気の鍛錬法のひとつ
なので瞑想してて「気づき」とか「悟り」とか「ある日突然ひらめいた」みたい精神的な変化が起こったりはしない
目を閉じてたらいきなり何かが見えたというような現象もない
スマナサーラ長老は「タイトルに騙されるな」って言ってたな
私達は言葉を聞いただけで自分勝手にこういうことだって妄想してしまう。
>>794 法華経より古く、ブッダのそのままの言葉が残っているとされる、ダンマパダには、
孤独を楽しめ、人のいない林で瞑想に専念せよ、他人のためでなく自分の目的に専念せよ、
と説かれています。
他人の為に働くのも功徳ですが、慈悲の瞑想、ヴィパッサナー瞑想の功徳の方がより功徳を積めます。
>>795 いちおう悟りはあります。
「ひらめいた」という感じではなくて、「抜け落ちた」「無くなった」「理解した」「疑いが無くなった」
という感じのほうが近いですね。
悟ると、具体的にはまず、有身見という見解、この体、この心のどこかに自分、私という固定した何かがあるという見解、
が無くなります。人間というのは無常、苦、無我だと理解することです。
>>792 昔もそう、今もそう、これからもそう。
人間に生まれようが、天界に生まれようが、畜生に生まれようが、
生存は苦であるから早く解脱せよというのがブッダの教え。
>>800 悟りは一時的な精神状態でもなく、ボンヤリした状態でもなく、苦しむような精神状態でもなく、
視覚も聴覚もはっきりクリアで、「あぁ、確かに無常だわ、無我だわ。」という納得、理解が生まれる。
同時に肩の荷が下りた、もう悩むことはないという喜びが生まれる。
日常生活のなかで、他人を診察しないで裁くのは善くない。
大抵の場合、正しくもない。
なぜなら各々立場も違うし、見方の視点や価値判断の物差しも違うから。
見下されたと感じたり、不快感を覚えたならすみません。
しかし、この場所だからこそ共有できる会話というのもあると思います。
>>802 アーチャンチャー氏が、
他人を裁くのはいけない、知恵が育つわけでもない、煩悩になるだけ
と言っていたね
自分も救わず、他者も救わない人。
自分は救わないが、他者を救おうとする人。
自分だけ救おうとして、他者を顧みない人。
自分を救い、他者をも救う人。
一概にひとくくりにできないと思いませんか。
自分を救い、他人を救おうとする
から
自分を救い、他人を実際に救う
までに至るには
ここも思うようにならないものがあることに気づく
気づかないとしたらもう人をどんどん救ってるということになる
あるいは、本当は他人を顧みていないか
「私」とか 「私のもの」などといえるものはなく 、すべてのものは無常なのです 。
私たちは 、なぜ 「ニッバーナを得た」という言い方ができないのでしょうか ?
なぜなら 、ニッバーナを体験した人は 、もはや 「私」とか 「私のもの」という考えを持たないからです 。
もし 、そのような言い方をするのであれば 、その人はニッバーナを真に体験してはいないということです。
(アーチャン・チャー)
修行僧たちよ、そこで、わたしはみずからは生まれるものであるけれども、生まれるものに患いを知り、生まれることのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、生まれることのない無上の安らぎであるニッバーナを得た。
みずからは老いるものであるけれども、老いるものに患いを知り、老いることのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、老いることのない無上の安らぎであるニッバーナを得た。
みずからは病めるものであるけれども、病めるものに患いを知り、病めることのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、病めることのない無上の安らぎであるニッバーナを得た。
みずからは死ぬものであるけれども、死ぬものに患いを知り、死ぬことのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、死ぬことのない無上の安らぎであるニッバーナを得た。
みずからは憂えるものであるけれども、憂えるものに患いを知り、憂えることのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、憂えることのない無上の安らぎであるニッバーナを得た。
みずからは汚れるものであるけれども、汚れることに患いを知り、汚れることのない無上の安らぎであるニッバーナを求め、汚れることのない無常の安らぎであるニッバーナを得たのである。
そしてまた、わたしに知見が生まれた。『わたしの解脱は不動である。これが最後の生まれである。もはや再生することはない』と。
(パーリ中部 聖求経)
アーチャン・チャーに言わせればブッダさんはニッバーナを真に体験してないらしいw
だから、言葉による伝達って不正確なんよw
阿羅漢をもってしてすら、如来の十力にはかなわないのでしょう。
皆さん合宿とかは行かれたことありますか?
私はゴエンカ氏の方のは行ったことあるのですが。
都合が合えば行ってみたいなと思いまして
>>806 ブッダは天上天下唯我独尊とか言っちゃう人だから。
本当はおかしいけど、あえてニッバーナを得たと表現した可能性はある。
>>809 スマナサーラ長老の瞑想合宿4泊5日に参加した経験があります。
個室での瞑想指導を受けました。
ここで個人的な人格否定される罵倒を受け、
それ以来 うつを発症し精神科にかかっています。
何度か本人に直接、苦情を申し上げましたが 残念ながら
精神病の人は病院へ行くようにとしか答えていただけません。
すべて私が悪いようです。
すべての煩悩というか、「これ食べたいな」「気晴らししたいな」
といった気楽な希望が一切うかばなくなってしまいました。
心に蓋をしたような現実離れした状態で、どうしたらいいのか
一心不乱に仕事に打ち込むこと なすべきことをなすこと
>>811 具体的になんていわれたの?
つらかったら答えなくていいけど
他人に人格否定されたらいきなり精神病にかかって感情を失って死にたくなるの?
アルボくんにどんな酷いこと言われたのか知らないけど、ちょっと嘘くさい
>>811 とは違いますが、
私は同性愛者ですが、自分の穢らわしさを死体に蛆が涌くように直視しろと指導されました。
あそこまで露骨に汚ならしい目で見られたのは後にも先にもありません。
>>811 良かったですね。修行が進んでいるようで。
白隠禅師は正受老人の元で、厳しい罵倒、暴力を受け、
どうにもならなくなってフラフラと托鉢をしていた時、老婆に箒で殴られて悟りましたよ。
あなたももう少しで悟りが開けるんじゃないですかね。
頑張って下さい。
>>818 それって同性愛者関係なくそういう瞑想なのでは?
>>818 不浄観の修練でしょうね
日本ではあまりしないようですが
タイでは身体の執着から離れることによる深い禅定を得るため
死体を観察する事が重要視されているようです
僧は遺体安置室にフリーパスで入れるそうです
とあるHPから抜き出しました。
>>818 同性愛でも異性愛でも、性欲は全て捨てるべきでしょう。仏教的には。
在家で奥さんがいる人は子作りすればいいけども。
山岡鉄舟は毎年、宴会を開くのを常としていた。
ある年、一人の門人が吐いてしまった。
鉄舟は、何を思ったか、門人が戻した汚物を片っ端から食べて、跡形もなくした。
これは、鉄舟の考える「浄穢不二」、つまり清いものと汚いものの区別を超越するための修行だった。
弟子が「それにしても、体に毒でございましょう」と鉄舟の身を気遣うと、
「身体のことなんか考えていては、ろくなことはできん。いまどきの修行者をごらん。剣道でも禅でも、みんな畳の上の水練だから役に立たんじゃないか」
こういったという。
>>818 スリランカ仏教は徹底した差別主義ですからね
座禅が基本だから、基本をやってる人に向かって座禅を否定するような逸話を持ち出してくる言動って、本当に善行為になってるのかね。
率直に言って疑問に感じる。
閑かなところに座って集中するのが、一番集中しやすいのに、それすらできないなら、幕末の動乱の中で平常心を保ったまま国難に立ち向かうことなど、到底不可能でしょう。
それはそうでしょう。
だけど、ここに居る人は鉄舟でもなければ、今は幕末でもない。
臨済禅を修めた禅の上級者でもない。
ブッダが教えたやり方に忠実にやれば良い話であって、他宗を交えて話をややこしくする意味が分からない。
これから彼岸に渡る乗り物に乗ろうとして居るところで、まだ乗っておらず、乗り物があることすら信じられないような段階の人に向かって、乗り物は捨てるものだと言い聞かせるのも、よく分からない。
846.
かくのごとく、世尊は〔答えた〕
「マーガンディヤさん、
〔慧者は〕見解見解によって〔清浄を言わ〕ず、伝承によって〔清浄を言わ〕ず、知恵によって〔清浄を言わ〕ず、戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです。
〔あるいは〕見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、〔清浄を言わ〕ないのです。
しかして、これらを放棄して、執持せずして、〔心が〕寂静となり、〔何ものにも〕依存せずして、〔もはや、迷いの〕生存を渇望しないのです」〔と〕。
何ものにも依存しない
それが彼岸に渡る乗り物でありその乗り物に依存してもいけません😁
ムー編集長 UFO「存在する」「自衛隊は隠してる」「米国は正体を知ってる」「生きているうちに分かる」
http://2chb.net/r/liveplus/1543627498/l50 何かに依存しないであるためには、気付きを保っている必要があるのではないですか。
歩いているときも、何をしているときも、一日中、身口意のすべてにおいて、行いに気付いていること。
その視座に留まっていること。
解脱したわけでもない人間にとって、気付きを保つこと無しに三毒から離れてた状態は成り立たないと思うのですが。
>>811 瞑想合宿4泊5日とか、かなり覚悟がある人間じゃないと行けないのでは?
1時間瞑想するので手一杯な自分はスマナサーラ長老のもとで4泊も瞑想みっちりする
自信が無いよ。
一種の接心みたいなもんでしょう。
カッコ外すと日本語になってない件
かくのごとく、世尊は
「マーガンディヤさん、
見解見解によってず、伝承によってず、知恵によってず、戒や掟によってもまた、清浄を言わないのです。
見解なきによって、伝承なきによって、知恵なきによって、戒なきによって、掟なきによって、それによってもまた、ないのです。
しかして、これらを放棄して、執持せずして、寂静となり、依存せずして、生存を渇望しないのです」。
四聖諦と縁起に基づいて言えば、道諦による結果が到彼岸、すなわち涅槃
であるという言い方もできるのではないでしょうか。
道諦とは八正道のことであり、言い換えれば三学のことですから、戒を否定し、
定も否定するような言い方をする、その大乗的な解釈(?)というのは、我々に
とっては「混ぜるな危険」の有害な言論になり得るのではいですか?
本当に悟っていて、本当に他者を悟りに導けるアドバイスをする力量があって
本当に適切なやり方で行われていて、本当に他者の悟りや解脱に役立ちますか?
普通にヴィパッサナー瞑想を初めた初心者でも、仏教に執着がある人は、
「四念処はこうだろう、あの経典にはこう書いてある、もう少しサマタをやったほうが、」
などと余計な事を瞑想中に考えてしまう。
仏教にも、悟りにも、涅槃にも、八正道にも、執着してはならないということは、初心者でも頭の隅に入れておいたほうが良いと思う。
>>832 自分のペースで瞑想できるから大丈夫。
本ばっか読んでる人もいた。
やってみればあっという間に終わってしまうし、日常生活では味わえない貴重な時間。
自分は時間と金さえあれば何回でも行きたいね。
四念処について書こうと思ってたら上で出てきてびっくり
四念処で不還果阿羅漢までいけるというけれど、そのパワーを感じた日であった
すごい
四念処って大乗仏教では言われないのかな?
南伝仏教だけだろうか。四念処に出会えただけで、テーラワーダに興味を持ってよかったと思った。
仏法に感謝。
瞑想中に、瞑想について、あるいは仏教教理についてあれこれ
考えを巡らせて、瞑想しているあいだずっと妄想に埋没していて
ぜんぜん瞑想になっていないということは、みんなが経験する
ことだと思います。
一方で、テーラワーダ仏教に属する仏教徒が、その伝統を硬く
保持するのは、それが彼岸に渡る乗り物であるだけでなく、その
乗り物を世代、世代に受け継ぐためでもあると思っています。
パーリ三蔵経典の結中にしろ、戒律にしろそうです。
もし仏説を変えずに保持していなかったら、人々が自由に語り
自由に解釈するうちに失われてしまうでしょう。
道元「正法眼蔵」三十七品菩提分法
http://www.shomonji.or.jp/soroku/genzou60/index.html (現代語訳)
古仏の定めた課題があり。所謂「37品菩提分法」の教・行・証(教え・修行・悟り)なり。
37品の教・行・証は葛や藤の如く絡み合っている。
その絡み合ったものが即ち課題なり。
その課題をすべて果たしたとき、これを諸仏と呼ぶ、諸祖と呼ぶ。
第1は、4念住 (4念処とも称す)なる課題なり。
1.身体が不淨なりと観ず。
2.感覚は(一見快いものを含め全て、長い目で見れば)苦なりと観ず。
3.こころは無常なりと観ず。
4.法は自性[実体]無しと観ず。
身体が不淨なりと観ず、とはこの身体は(皮をはいだり・内臓の中を観察すれば)不浄なものであるが、全世界と同一であると観ずなり。
身体は全真理の現れ故に、自在に仏道修行中の不浄な身体なりと観ずなり。
自在と見ずんば十分なる観察にあらず。
若し身あらずんば、行できず、説できず、観できず。
既に観ありて、これ自在に生かすこと出来るなり。
この観の実践、毎日の行であり、地を掃くこと、雑巾がけなり。
幾月も全身全霊を挙して地を掃き、今日・来月・来年床掃除をし続けるが故に、全世界を尽くしての修業なのだ。
観身は、(同時に)身で観ずることでもある。
身で観ずるとは、余物が観ずることではない。
身体そのもので身体を観察するという正にその様な観は卓越したものである。
身で観ずる時、思考は探しても現れぬ。この故に金剛定(破壊不可能な定)なり、首楞厳定(しゅりょうごんじょう;勇猛な定の意味)なり。
シャカが明けの明星を観て悟られたのも、観身不浄[身の不浄なるを観じる]の道理による。
清浄であるとか、汚いとかの比論にあらず。
身体が存在するということが汚れたことなのだ。
身体が現れることが汚れたことなのだ。
このような研究は、悪魔が仏となるときは、悪魔の身をもって悪魔は悪魔を降して[打ち負かして]仏となり、仏が仏になるときは、仏の身をもって仏が仏性を現して仏となり、人間が仏になるときは、人間の身をもって人間の身を整えて仏となるのであるとわかってくる。
急所は、それぞれの身をもってすることで、悪魔が仏に、人が仏に転換する方法があるという道理を窮めることである。
(以下略
>>839 仏法を捨てろ、経典を捨てろという事ではなくて、
仏法に対する執着、経典に対する執着は良くないね。という話です。
>>818 「私は仏教の経典をくまなく探しましたが、どこにもゲイやレズビアンが罪であるということをはっきりと書いてある項目に
出会ったことがありません」
だそうです
スカトー寺の住職パイサーン・ウィサーロの「心が自由になる、初期仏教30の説法」より
>>837-838 龍樹菩薩『大智度論』巻第十九 初品第三十一
問う。「四念住とは、これをよく習得したならば道〈聖果〉を得るものである」というのであれば、何故に三十七品〈三十七菩提分法〉が説かれているのか。
もし汝が「(仏陀の教説すべてを)略説すれば四念住となるのであって、広説したならば三十七品となるのである」と主張するのであれば、それは誤りである。
なんとなれば、もし広説ということをいうのであれば無量となるべきであるから。
答う。「四念住とは、これをよく習得したならば道を得るものである」といっても、また同時に四正勤等の諸法が説かれていなければならなかったのである。
なんとなれば、衆生の心は種種不同であって、その結使〈煩悩〉もまた種種であり、(衆生がそれぞれ)理解・習得しようとする教えもまた様々であるためである。
もとより仏法とは一実一相である。とはいえ、(仏陀は)衆生のために十二部経・八万四千の法門において、それぞれ分別説を作されたのである。
もし、そのようでなかったとしたならば、初転法輪において説かれた四聖諦のみで事足りたのであり、それ以降も他に説かれることなど無かったであろう。
衆生は苦を厭い、楽に執着するものであるから、そのような衆生のために四聖諦を説かれ、
「身心等の諸法はすべて苦であって楽のあることはない。この苦の因縁は割愛等の諸々の煩悩に由るのである。この苦が盡くされた処を涅槃といい、涅槃に至る方便を道というのである」とされたのである。
衆生は多念・乱心・顛倒しているから、この身・受・心・法において様々に執着して邪行を作している。そのような人というものの為に、四念住が説かれたのである。
仏教ってゴータマが生きてた当時は新興宗教なわけだよね
紛れもなく
実際はこんなところじゃないの?
凡夫「ヴィパッサナーとかサティとか言ってんけどよー、そんなので悟れるかよー」
預流向「それがな、やってみたら本当にジャーナに入っちまいそうなんだ、何のことを言ってるかわかんねえと思うが略」
預流果「ああそうだよ、わたしはヴィパッサナーで悟りの光を観た」
凡夫「洗脳されてんべ」
預流果「ハッハッハ(怒らない)」
凡夫「じゃあおめえ、カルトの教祖信じてんのか?」
預流果「ああ、修行は確実に進んでいるからね」
凡夫「バラモンたちがおめーらのこと排除しに来て何もかも奪うかもしれねーぞ?」
阿羅漢「一切は無常だと悟ってる」
凡夫「んなこと言ったって、輪廻からは逃れられまい」
ゴータマ「預流果はそうだなあ七回くらいしか生まれ変わらないし、阿羅漢は生まれ変わらんよ」
凡夫「なんでわかんだよ」
ゴータマ「わたしを信じなさい」(建前)
程度の話だったんじゃないかね
俺は日本人だから、仮に万が一阿羅漢に悟っても日本人に生まれ変わりたい
駄文失礼
汝らがもし、仏を愛し、凡夫を憎むようなら、迷いの苦海に浮きつ沈みつ果てしがないであろう。
臨済義玄
同性愛は確実に悪。
同性に対して愛欲を持ってしまった、その事に対して自我が確立されてしまったのが同性愛者。
二重の意味で悪い。
同性に対しても、異性に対しても、性欲の対象として見ない、ただの人間として見られれば、
ものすごい楽になる。自我も薄くなる。自分の性別を意識することが無いから。けっこう難しいけど。
>>847 異性愛も悪。
ただ在家は、子供が無ければ不幸に陥る状況がある。
その状況を回避するため、慈悲の気持ちで結婚し、子供を作る時だけ性欲を使うのがいい。
たとえば食べものに対する欲も悪だけど、病人が弱っている時には好きなものを食べさせてあげて、
体力を回復させてあげるのがよい。健康な人は、あれが食べたい、これが食べたいと言っている場合ではない。
>>848 詭弁無理矢理感
だから、テーラワーダに説得力ないのだ
テーラワーダ一般ということだとわかんないんだけどさ
なんつか、日本の5chのテーラワーダの人達はイデオロギッシュというんだろうか?
本当には信じられてないんだが、建前で辻褄合わせに信じてみせてる
いや、信じないと悟れないから信じる、みたいなさ
その空ぞらしさを何時も感じるね
まあそれも正語の中に入るのかも知らんけど
そうすると建前だよね、八正道も
>>848 >ただ在家は、子供が無ければ不幸に陥る状況がある。
>その状況を回避するため、慈悲の気持ちで結婚し、子供を作る時だけ性欲を使うのがいい。
子供は不幸を避けるための道具?
その場合の不幸ってなに?
二重の意味での悪って?
戒律は心の動きに気づくための方便だろう
欲求そのものは善でも悪でもない自然現象
それに放逸に流されること、気づきを失い主体性がなくなることが悪
よって異性愛者も同性愛者も、不放逸であるならなんら問題も無い
>>851 子供も無いまま、年をとって老いていく女性は不安だし、不幸でしょ。
女性は子供を産まないと病気になりやすくなるという話もある。
子供がいないなら社会的な活動を頑張って、弟子をとるという生き方もあるけど、
だれかが子供を産まないと社会は成り立たない。
子供は親にとっての宝でもあり、社会にとっても宝。当然執着はしてはいけないけど。
>>852 不放逸であるなら愛欲が起こることはない。
常に感覚と心の動きに気をつけているけど異性に欲情します、同性に欲情します、なんてことは無い。
その人は十分に気をつけてないから。
矛盾。
>>849-850 テーラワーダが悪いというより、清浄道論の原理主義解釈で受容力のなくなった
スリランカ仏教徒と、そのスマナサーラ経由でテーラワーダを知った人たちが
そうなだけでは。
スリランカ人の性格の悪さやスリランカ仏教徒の人格の低さはあちこちで指摘されてるし、これ読めば一目瞭然
http://www.j-theravada.net/qa/gimon73.html 平山行蔵という江戸時代の武術家は武術一直線の人生を歩み、弟子も大勢いたが一生独身だった。
晩年、年老いた母の面倒を見ながら、結婚しなかったことはやはり親不孝だと後悔した。孫の顔でも見せたかったのかも知れない。
「滴水滴凍の時如何」
瞬間ごとに湧きおこってきりがない煩悩や妄想を、頭に浮かぶそばから滅尽していく、そんな悟りはどうですか。
「日出いでて後一場の懡羅」
煩悩をいくら凍らせても、いずれ日が出て融ければびちゃびちゃになって見苦しいことだ、というわけです。
煩悩を切り出してきてどこかよそへやってしまおう、という姿勢が批判されています。
「父母未生前 如何是我本来面目」
父母さえ生まれる以前における、あなた本来の本質は如何なるものですか?
わたしが見た、わたしの本来の面目は
父母が生まれる前から、従って私が生まれる前から変わっていませんでした。
時空を超えてそこにあり、自他を区別する意識もありませんでした。
そういう意識が、確かにありました。
それが悟りだとは思っていません。
解脱だとも思っていません。
広大な瞑想の世界、心の真実の世界の入り口を垣間見ただけだと思っています。
その時の瞑想法は、仏教のサマタ瞑想です。
それ以来、多くの宗教、多くの宗派、宗教以外のスピリチュアルな
指導者たちの言わんとしていることが、異なる文脈で語られた
同じことであることが分かるようになりました。
異なる言葉で語られていたために、違うものだと思っていたのです。
美人でも、顔のパーツをバラバラにじっくり観察すると気持ち悪くなる。
眼球をしっかり観察する。鼻をしっかり観察する。耳をしっかり観察する。
歯をしっかり観察する。髪の毛をしっかり観察する。頭蓋骨の形をしっかり観察する。
あんまりじっくり見過ぎると変な人だと思われるので注意。
根修習経にも、厭逆なものに無厭逆でいる。無厭逆なものに厭逆でいるように訓練する。というような事が説かれています。
要するに、気持ち悪いものを見ても気持ち悪くならないように、気持ち悪くないものを見ても気持ち悪いと感じるように自分を訓練する。
人間の体を見ても、気持ち悪いもの、気持ち悪くないものどちらでも見られるように訓練するということだと思います。
https://komyojikyozo.web.fc2.com/mnup/mn15/mn15c20.htm こないだの講話で長老は、六根が求めているのが刺激や感情であるのであればそれは間違え、
「ニーズ(必要なもの)で生きる」と仰っていました
しかし、そもそも自分自身がこの世に本当に必要であるのかどうか、よくわからなくないですか?
食べるものについても同じ、必要なものを必要なだけ食べる
飛行機が過剰な燃料や、間違った燃料だったらどうなるか、それと同じことだと
栄養学的に、これを食べなければ、あれを食べなければというのは間違いだとも
それは、たとえ一時的に栄養失調になったとしても、後に腸内細菌叢が変化して、とくに問題ではなくなる(実際は知らんが)
とかそういう意味合いも含んでいたりするのだろうか
あと、死体は見たほうがいい、と割と力説してましたね
でもなかなか見られる機会ないですよね
>>849 私も情欲についていまいちしっくり来ないのですよね
本来であれば「子どもは持ってはならない」でないと辻褄合わなくないですか?
なんかそこだけふわふわしてて落ち着かない
>>853 子供を産まない女性は不幸、という決めつけは仏教的に正しいの?
国のために必要だから生まなきゃ、それもおかしな生き方ではないですか?
スマ師が言うには、経典の行間を読んでみると子供を作れ、人間を増やせと。
修行できるのは人間だけだから。
>>867 子供がかわいくない、宝じゃないという女性を見たことがない。
ニュースでたまに、頭がおかしくなったお母さんは見るけど。
ブッダが最初、女性の出家を認めなかったのも、本音は家で子供を育てて欲しいという事じゃないかな。
在家でも不還果まで悟れるし、子供を慈悲で育てること自体がすでに修行。
>>871 それと、「子供を産まない女性は不幸」とどう繋がりが?
>>871 たった二文でここまで矛盾してること書けるの凄いよ
>>872 男の半分以上が出家したら一夫多妻制を認めないといけないことになると思うが一夫多妻制は仏教で不邪淫戒になるかどうか?
女をば 法の御蔵と 云うぞ 実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む
一休
ブッダも達磨も、どんな偉い修行僧も、お母さんが産んで育てたという事実。
世の中の誰も、お母さんには頭が上がらないという事実。
太古の大昔から脈々と、人類の命はお母さんが保ってきたという事実。
男はあんまり役に立たないからね。酒飲んだり博打したり。
>>873 世の女性に聞いたら?
子供を産みたくない。要らない。という女性はいないから。
子宮がある限りは。
そこで長老比丘たちは尊者アーナンダに言った。
友アーナンダ、あなたは何が小小学足(ブッダが廃止してもよいと言った些細な戒律)であるのか先生に問わなかった。これをドゥッカタ(悪作、罪)として懺悔しなさい。
先生たち、私は忘念して何が小小学足なのか先生に問いませんでした。私はドゥッカタであるとは見ません。しかし尊者たちを信じるがゆえにこれをドゥッカタとして懺悔します。
友アーナンダ、あなたは先生の雨浴衣を踏んで縫った。これをドゥッカタとして懺悔しなさい。
先生たち、私は尊重しないがゆえに先生の雨浴衣を踏んで縫ったのではありません。私はドゥッカタであるとは見ません。しかし尊者たちを信じるがゆえにこれをドゥッカタとして懺悔します。
友アーナンダ、あなたは女性たちに先に先生の遺骨を礼拝させ、彼らが泣くことによって先生の遺骨が涙に濡れた。これをドゥッカタとして懺悔しなさい。
先生たち、私は非時に至ることを恐れたがゆえに女性たちに先に先生の遺骨を礼拝させました。私はドゥッカタであるとは見ません。しかし尊者たちを信じるがゆえにこれをドゥッカタとして懺悔します。
友アーナンダ、先生は広大の相を示し、広大の現を示されたのにあなたは先生に請いて
「先生、一劫住して(如来は望まれれば一劫でもそれ以上でも寿命を延ばせることをブッダはアーナンダよ前でほめのかした)ください。善逝、一劫住してください。衆生の利益、衆生の安楽、世間の哀愍、人々と神々の義利と利益と安楽のために」と言わなかった。
これをドゥッカタとして懺悔しなさい。
先生たち、私はマーラに覆われていたために先生に請いて「先生、一劫住してください。善逝、一劫住してください。衆生の利益、衆生の安楽、世間の哀愍、人々と神々の義利と利益と安楽のために」と言わなかったのです。私はドゥッカタであるとは見ません。
しかし尊者たちを信じるがゆえにこれをドゥッカタとして懺悔します。
友アーナンダ、あなたはつとめて女性が如来の説いた法と律において出家することを得させた。これをドゥッカタとして懺悔しなさい。
先生たち、あのマハーパジャーパティー・ゴータミーは、先生の乳母・叔母・養母・ほ乳母であって生母が亡くなられてから後に先生に乳を与えられたと考えたがゆえにつとめて女性が如来の説いた法と律において出家することを得させました。
私はドゥッカタであるとは見ません。しかし尊者たちを信じるがゆえにこれをドゥッカタとして懺悔します。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=951429&id=29943857
>>877 性器があるかぎりセックスをしたくない人はいないのと同じですね?
仏教的には、後で後悔して泣くような行為、自分や周りの人、社会の為にならない行為が悪行為だからね。
ある女性が、私は子供を産まないと決意して、生涯死ぬまでまったく後悔することも無く、自分や社会を幸せにするように生きるなら悪行為、不幸を招く行為では無いだろうね。
そんな人がいるだろうか。もしいたとしたら、その人、もしくは社会のどちらかが不健全だと思うけどね。
比丘尼として出家するなら別だが。
女性が頑張って子供を産み育ててきたからこそ、今の社会がある訳だから。
社会の幸せは個人の幸せだし、個人の幸せは社会の幸せ。
社会の主人公はお母さん。
【創価学会は朝鮮族支配のカルトです】
オウムに人材と資金提供していたようです。
犯罪教団のお手本であり創価学会は、現世利益を看板にしてし、おびただしい数の出版物を半強制的に買わせる異常に気持ち悪い卑劣鬼畜外道ドブネズミです。
創価学会は、批判者や脱会者に対し、脅迫、尾行、見張り、嫌がらせ、怪電話、怪文書、暴行、傷害、盗聴等々、あらゆる犯罪的手段を用いて攻撃します。
創価学会を私物化した池田大作の野望は、日本の国家機構を乗っ取り、絶対支配者となる ということです。
同時に、創価学会は、司法界、官僚、警察、マスコミ界等へ、池田大作私兵を送り込む作業を長年にわたり組織的に続けています。
創価学会の会員は何かにつけ込まれ、無理矢理入信されられた方がほとんどです。
つまり、被害者なわけで救い出すチャンスはあると思います。
皆様とともに、どうしたら彼らを救い出すことができるかどうかを話し合ってみたいと思います。
池田大作を信じ、崇拝したところで、幸せが訪れるでしょうか?
創価学会は撲滅するべきです
w
その他の入ってはいけない宗教
アレフ、統一教会、顕正会、エボバの証人、法の華
創価学会被害者の会 浪速建設 岸本晃(キシモトアキラ)
自分の見ている狭い世界を正しいと思い込み
他人(異性)の多様な生き方を不幸だの不健全だの決めつけるのは、仏教的に正しいことなんだろうか
お釈迦様はそういう考え方を奨励したのですか
他人を不幸だの不健全だの決めつけるその心の動きには
そういう不幸や不健全さを自分は背負わない、だから自分は不幸ではないし不健全でもない、といった
他人と自分を比べたうえで安心したい気持ちや、優越感はないのでしょうか
仮にそれがないうえで不幸だ、不健全だ、と決めつけるのであれば
「自分の見ている狭い観測範囲」以外で何かもっと説得力のある根拠はありませんか
たとえばお釈迦様が「不幸だ」「不健全だ」と言ったとか、そういった根拠はあるのでしょうか
価値観も立場も人それぞれだから、決まった答えはないでしょ。
決まった答えがあるという思い込みに埋没している人々の集団が
我々の生きる世間だろうし。
要は、見と慢。
それは智慧の修行が進むにつれて徐々に無くなっていくとは思う
けれども、智慧が発現してこない限り不可避な問題だとすると、
言ったところでせんなきことなのかも知れない。
しかし、常識や共通認識という緩衝地帯を設けて、そこを通じて
なんとか意思疎通するとか、それなりに工夫のしようはあるでしょう。
何にせよ、車の運転でもそうだが、人間には死角があるのだから
決めつける前にまず相手の話を聞く、相手を理解することが大事
だと思う。
そんなことは当たり前なのだけど、正しい仏教を知った、正しい
仏教徒という自己認識がもしエゴからくるものだとすると、それが
新しい死角を生みだすから。
車の運転において、死角に留意しない、左右もバックミラーも確認しない
運転をするのは危ないし、事故のもとですね。
死角があるよと言うのは、運転手を貶しているわけじゃないですね。
逆説的だけど、死角があることを知っていることが賢いことでしょう。
身口意を車に、気づきを運転手に置き換えても同じだと思うのよね。
何を言ってるかちょっとよくわからないのだが
「こういう生き方は不幸だ」「不健全だ」と決めつけることは、仏教(このスレ)的には正しいのか?
と聞いています
阿含宗について
阿含宗は阿含教を世に広めた所は正しかった。ただし出した人間が悪かった。故桐山靖雄は阿含経を出してる
ことを盾にして悪いことの方をしほうだいだった。悟りを得たときの分析法を間違えていた。
釈迦もキリストも阿含経が世に広まるまではとがまんにがまんを重ね、耐え、目をつぶっていたが、
とうとう人間界だけでなく、神々、仏々の界まで私物化しようとし、晩年に神々、仏々から襲撃をうけている。
だから、阿含宗は桐山から部分的には参考にしても今はおまいりはしちゃいけません。さらに黒幕だった
不動明王やイルミナティーもおまいりしてはいけません。この3体のいずれかに、キリストもヤーウェも
ガブリエル、アマテラスも、釈迦、アカシックレコードや宇宙(大日如来)などまで、だまされることがあります。
以前宇宙に大事なことが「そういうことはなかったんだ」と言われ3日後に再び聞いたら「あったあった、ごめん」
と霊媒師を通じて言われたことがありました。彼らはいったん抹消され復活してくるところも抑えられ、
現在人格形成を修正中です。また釈迦の骨がまつってあり釈迦もいますが、お釈迦様も悟ったときの分析法を少々間違え、
それによってその後の行動パターンも決まってしまってるので抹消はされないが、
そこは仏弟子達(舎利子やアーナンダ、毘沙門天や孔子も?)やキリストなどもとともに反省して直って
もらわなければなりません。そうしたらみんな阿含宗にいき徳を積み、その後解読された阿含経の7科37道品
をそれも改良してたどっていき悟りを開いたらいいでしょう。とにかく悟ったときの分析法は大事です。
「正しい」という言い方が不適切なら
仏教(このスレ)的にはアリなのですか?
ということでもいいです
>>886 いちおうスマ長老は説法で、世の中で一番大事な仕事は主婦だとおっしゃってましたね。
命を直接助ける仕事だから。
スマ長老の受け売りで出典は不明ですが、ブッダは女性にしっかりして欲しいと、女性がしっかりしないと社会は良くならないのだから、とおっしゃったとか。
自分の考えですが、歯はあるけども使いません、流動食を食べます。
足はあるけども使いません、車椅子を使います。というのは不自然、おかしいでしょ?
子宮はあるけど子供は産みませんというのも不自然、おかしいと思います。
できないのならしょうがないですが。
だから日本も一昔前まで、女子を嫁にほぼ100%してた訳でしょう、親が結婚相手を決めたりして。
結婚率、出生率が下がって社会問題にもなってるし、介護、年金も子供が減って問題になってきたんでしょう。
社会の問題だから私は関係無いと言っても、私も社会の一員ですから。
子供を産まない社会は不幸ですよ。
あとブッダの言葉としてはシンガーラ経がありますね。
子供は親に対して、家系を存続させるという奉仕をする。
親は子供に対して、結婚相手を見つけるという施しをする。
http://www.j-theravada.net/kogi/kogi143.html 出家なら話は別でしょうけど、在家が自分の人生をどうするのかなんてことは、
その人自身が選択することでしょう。
393 次に在家の者の行うつとめを汝らに語ろう。このように実行する人し善い<教えを聞く人>(仏弟子)である。純然たる出家修行者に関する規定は、所有のわずらいある人(在家者)がこれを達成するのは実に容易ではない。
略
400 (1)生きものを害してはならぬ。(2)与えられないものを取ってはならぬ。(3)嘘をついてはならぬ。(4)酒を飲んではならぬ。(5)婬事たる不浄の行いをやめよ。(6)夜に時ならぬ食事をしてはならぬ。
401 (7)花かざりを着けてはならぬ。芳香を用いてはならぬ。(8)地上に床を敷いて伏すべし。これこそ実に八っの項目より成るウポーサタ(斎戒)であるという。
苦しみを修滅せしめるブッダが宣示したもうたものである。
402 そうしてそれぞれ半月の第八日、第十四日、第十五日にウポーサタを修せよ。八つの項目より成る完全なウポーサタを、きよく澄んだ心で行え。また特別の月においてもまた同じ。
403 ウポーサタを行なった<ものごとの解った人>は次に、きよく澄んだ心で喜びながら、翌朝早く食物とを適宜に修行僧の集いにわかち与えよ。
404 正しい法(に従って得た)財を以て母と父とを養え。正しい商売を行え。つとめ励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、(死後に)<みずから光を放つ>という名の神々のもとに赴く。」
>>872 女に布切れ一枚で野宿する生活なんかさせられないだろ
熱心な修行者は富裕層と貧困層な印象、比較的時間に余裕があるのがその層なのかな、オウムもそんな印象だったな
金がなくてできることが他になくて修行、金の使い途が特になくて修行、まあ結果同じようなことなのかな
二極化はどの世界でも起きていることだけどさ
仏教ってたとえ在家であっても、なんだかんだで出家の方向に導かれていくものだと思う
だから、仏教に出会うそれまでに一通りの勉強(学業)と、子供を授かるのであればそれまでに授かっておいたほうがいい気がする
出会った後はどんどん無欲になっていくだけだから
まあでもそういうことに気づくのも仏教に出会った後だったりするわけだけど
業を止めるのが仏教なら、アナキズムに近いと思うけどな
つまり、最終形態としては世の人間が全て解脱する(輪廻転生しない)ことを願ってるわけでしょう?
そこに社会なんかもはやない、ヒトのいない静寂で安寧な世界
宇宙の熱的死のような
そうなってくると、女は子を産まない方が正解なのでは?とすら思うけどね
社会維持のために必要だから、子を産め、それが女の幸せ
だなんて、そんなエゴ丸出しのことお釈迦様は言ってないはず
等しく「救われる」ためには、ヒトは減っていくのが自然では?
仏教は、繁栄せよ、地に満ちよ、という教えではなかったと思う
愚者たちに親近せず、賢者たちに親近すること、供養するに相ふさわ応しい人々を供養すること、これが最上の吉祥です。
適切な処に住むこと、前世で為された福業、自己について正しく志向すること、これが最上の吉祥です。
たくさん聞き学ぶこと、技芸、善く身についている躾、言葉が善く語られること、これが最上の吉祥です。
父母に孝行すること、妻子への責任を果たすこと、混乱のない仕事をすること、これが最上の吉祥です。
布施、教法に適う行い、親族への責任を果たすこと、咎のない行為、これが最上の吉祥です。
悪法から離れ去ること、飲酒を自制すること、教法において怠けないこと、これが最上の吉祥です。
尊敬、謙譲、足るを知ること、恩を知ること、適時に教法を聞くこと、これが最上の吉祥です。
耐え忍ぶこと、素直に聞き入れること、沙門たちを見習うこと適時に教法について話し合うこと、これが最上の吉祥です。
修行をすること、聖者に相応しい行為、[四]聖諦を観ること、涅槃をありありと覚ること、これが最上の吉祥です。
世間のものごとに触れても、心が動揺しないこと、憂いがなく、汚れがなく、安らかであること、これが最上の吉祥です。
以上のように行って、如何なる処でも打ち負かされず、あらゆる処で平安を得る、それが彼ら[人・天]にとっての最上の吉祥です。
吉祥経
>>898 わたしも、生きとし生けるものが幸せでありますようにという祈りって、つまりは
(いつの日か)この宇宙が穏やかに限りなく優しく滅びますようにって言っているのだと感じてたわ
>>901 生き物は恒星の星によって生きているけれど、
いずれ宇宙に存在する全ての恒星は輝かなくなるからね
結末は見えているわけだ
ところで話がずれるが
>>895 >(死後に)<みずから光を放つ>という名の神々のもとに赴く。
これ読むと、仏教が無神論だなんて思えないなぁ
スマナサーラさんは、「死後はどうなるの?」で、インドの宗教者は、仏教徒以外のたとえば
ジャイナ教やバラモン教の人でも、輪廻や超能力は実体験で、それ自体はブッダも認めていた。
ただ、その輪廻や超能力の体験の哲学的解釈に異を唱えていただけで。
だからインドの宗教者はでたらめを言ったわけではなく、輪廻の透視や超能力を持っていた。
ブッダも解脱をとくときに必要に併せてそれらを織り交ぜて語っていた、と、言ってた。
だとすると、神の存在もやはりブッダは認めていたんじゃないかね
輪廻については明言を避けるけど、超能力や神の存在は修行が進めば分かるようになるんじゃないかな
例えば、第三の目の開発や松果体の活性化など
瞑想と関係があるそうだよ
>>898 出世間だからね
>>901 慈悲の瞑想は瞑想であって祈りではないのです
>>901-902 とてもよくわかる
静かにみんないなくなる
悟って無に還るんだな
神の存在はむしろ前提というか疑いも無いよね
輪廻は断言を避けているけど
キリスト教圏で言う守護天使みたいな存在はいると思う
神って言いかたすると唯一神みたいだ
唯一神という存在は仏教は認めてないだろう
まあそうなんだけどな
イシューヴァラ(主宰神)を人格的にとらえるかとらえないかは、人間の側の認識問題かなって気がする
日常に生きる衆生にとっては人格的にとらえないと概念としてもわかりづらいしね
ただもうちょっと人格的な「神々」はキリスト教でいう天使みたいなものかなと
(VI.1.4)【バカ梵天】 (第一章) サンユッタ・ニカーヤII
4.バカ梵天は、尊師が遠くからやってくるのを見た。見てから、尊師に次のように言った、
−−−「さあ、きみ。あなたは、よく来られました。ここへいらっしゃるために機会をおつくりになったのは、お久しぶりですね。
きみよ!これは常住である。これは永遠である。これは常恒である。これは純一である。これは不滅の性のものである。
これは生まれず、老いず、死なず、滅びず、生起しない。これよりも以上に他の出離はあり得ない」と。
5.このように言われたので、尊師は、バカ梵天に次のように言った。
−−−「バカ梵天は無明のうちにとらわれている。バカ梵天は無明のうちにとらわれている。
なんとなれば、無常であるものを常住であると言い、永遠でないものを永遠であると言い、常恒でないものを常恒であると言い、
純一でないものを純一であると言い、滅びる性のものであるものを不滅の性あるものであると言うからである。
生まれ、老い、死に、滅び、生起するもののことを『これは生まれず、老いず、死なず、滅びず、生起しない』と言い、
これよりも以上に他の出離があるのに、『これよりも以上に他の出離は存在しない』と言うからである。」
http://blog.livedoor.jp/youseethesun/archives/52238942.html 仏教では梵天は尊師に説法(説教)される存在
森林での修行について以前スマ長老が
「森って別に全然静かじゃないんですけどね。突然動物の叫び声がしたり木から蛇が落ちてきたりしますからね。」みたいなことを言っていた
今のリトリートって恵まれすぎな環境なのかな?
むしろ日々の暮らしのなかで、家や電車の中とか少し難のある環境で修行を続けることに意味があるのではないか?
そんなことを思ったりした
>>913 ワロタwありがとう、これからも瞑想続けるよ
友、名無しよ。
パーリ三蔵≠小乗仏教だとは思わないだろうか。
>>912 そうですよね
日本でも山でキャンプでもして
瞑想してみたりするだけでも
夕暮れ時とか日の出前の時間帯は
ムカデきたりアブやブヨ飛び回るし
雨だって降るしね
>>902 宇宙の終焉って気になるよね。
個人的にはビッグバンとビッグクランチの繰り返しだと思うけど、
最終的に計測は不能だから分かんないよね。
>>919 陽子崩壊っていう予測があって、もし陽子が崩壊するとなると、全ての物質がばらばらになるらしい
でも寿命は宇宙の年齢より長いから、観測が難しいんだって
あくまで予想だけど、諸行無常とも関係あることだよね
宇宙の終焉については科学者でも正確にはわからないけれど
太陽は確実に膨張を続けていつか地球を水星や金星のような灼熱の星に変えてしまう
恒星としての燃料を使い尽くし矮星になる前に確実にそうなる
人類がその前に火星に移住できたとしても、太陽系から出られない限り結果の先延ばしにすぎない
滅びは約束されたもので、現在いるような人類はいずれ宇宙から消える
仏教の教えは、科学がここまで発達していなかった時代にも、このことを分かっていたとしか思えない
諸行無常
輪廻転生しても意味がないから、解脱を、悟りを目指す
人類の繁栄も、その先に意味なんかない
子孫をいくら残しても、遺伝子を繋いでも、いつかそれは宇宙の運命に断ち切られる
しかし今ここに存在しているのなら、智慧と慈悲を持って悔いなく死ぬまで生きるべきなんだろう
自分ではない他者の生き方を幸福だ不幸だと決めつけることなく、それはすなわち他者と自分とを比べることなく、悟りに至れたら、それが優しく静かな心の安寧なんだと思う
「次のような、見解は、尊師によって語られず、捨て置かれ、拒絶されている、すなわち
『永遠であるのは世界である』も
『永遠でないのは世界である』も
『有限なるものは世界である』も
『無限なるものは世界である』も
『命と身体は同じである』も
『命と身体は別である』も
『如来は死後に存在する』も
『如来は死後に存在しない』も
『如来は死後に存在しかつ存在しない』も
『如来は死後に存在するのではなく、存在しないのでもない』も。これらを尊師は、わたしに語らなかった。
これらのことを尊師がわたしに語らないというこのことは、わたしにはうれしくない。このことはわたしには耐え難い。
わたしは、尊師のもとに近づいて、この意味をたずねよう。
もし、尊師がわたしに
『永遠であるのは世界である』とか
『永遠でないのは世界である』とか
『有限であるのは世界である』とか
『無限であるのは世界である』とか
『命と身体は同じである』とか
『命と身体は異なっている』とか
『如来は死後に存在する』とか
『如来は死後に存在しない』とか
『如来は死後に存在しかつ存在しない』とか
『如来は死後に存在するのではなく存在しないのでもない』とか
語るならば、わたしは尊師のところで清浄行を行うことにしよう。
もし、尊師がわたしに
『永遠であるのは世界である』とか
『永遠でないのは世界である』とか
『有限であるのは世界である』とか
『無限であるのは世界である』とか
『命と身体は同じである』とか
『命と身体は異なっている』とか
『如来は死後存在する』とか
『如来は死後存在しない』とか
『如来は死後存在しかつ存在しない』とか
『如来は死後存在することはまったくなく存在しないのでもない』とか
語らないならば、わたしは学ぶことを止めて還俗してしまおう」
梵天の寿命は、一つの宇宙が生まれ、滅するまでの長さと言われています。
その梵天も輪廻する衆生の一人なのだから、生命の輪廻は宇宙の生滅より長いという事でしょう。仏教では。
全然想像できませんがw
我々の細胞や腸内に住んで日々生まれ死ぬ細菌たちからしたら、我々の身体自体が宇宙だよね、梵天というか
彼らから見た我々は、途方も無く長い時間存在してる環境そのもの
でもその身体もいずれ滅びる
地球や宇宙をひとつの生命体とするなら、我々はその中の細胞や、あるいは構成する元素のひとつでしかない
マクロとミクロは常に入れ子
だとしたら、この宇宙の外にも宇宙がたくさんあって、そのたくさんの宇宙の集まりも、またたくさんある事になるよね。
その一つ一つの宇宙が生まれては消えていく、その中を人間は輪廻している最中なのか。
輪廻転生は迷信である。バカには理解できない。大爆笑である。
確かに宇宙は広大だけれども、物理的な空間だけが世界ではない。
輪廻転生が成り立つのは、物理現象の背後に、それを生み出している大元があるから。
有情世間と器世間があって、生命の世界、六道輪廻は有情世間。
器世間が物理的な世界で、宇宙のこと。
生命の次元と、物理、宇宙の次元は違うみたいね。関係はあるんだろうけど。
過去、未来、現在の如来は、ただ一法だけでは、無上のさとりを完成することはできない。
(1)貪欲のものには布施をすすめ、(2)規則をおかすものには持戒をすすめ、(3)怒りやすいものには、忍辱をすすめ、
(4)怠惰なものには精進をすすめ、(5)こころの乱れやすいものには禅定をすすめ、(6)愚痴のおおいものには智慧をすすめ、
(7)仁愛に欠けるものには、慈をすすめ、(8)人を傷害するものには悲をすすめ、(9)こころに憂いをいだくものには喜をすすめ、
(9) 愛憎のつよいものには捨をすすめておられる。
このようにして訓練をつづけていくならば、やがてすべての真理を悟ることになるであろう。
怠惰なものは、ふかい方便の海を解ることができない。
努力精進の力が完成することによって、仏の世界は浄められて行くのである。
>>929 いや、良いこと言ってるよ。
ストイックに瞑想してるけど全然効果が分からない人には、こういう
門外漢の事例も参考になると思った。
瞑想や悟りについて話す人の層が厚くなるのは良い傾向だと思う。
スレチなのであくまで参考情報。
サンガ以外に広める人がいないと、仏教も瞑想も普及しないよ。
閉鎖的だなぁ。
こういうところ嫌いだよ、宗教だなって思ってしまう。
はいはい、瞑想はもう十分広める人居ますんで
こんなヘッポコインチキ女に騙されるような人は
このスレには多分いませんのでお引取りください
弟子を500人引き連れて仏法僧に帰依するような人間が現れても
「宣伝ウザ」と追い返しそうだわ。
もうちょい器をでかくしろ。
はいはい、嫌われても構いませんよ
あなたみたいに我執強くないんで、存分にツバ吐きかけてくださいな
スマナサーラ長老に親近感がわいてお兄ちゃんみたいに思えてきたでござる。
某美女の瞑想は瞑想じゃなくて妄想だね。
本当の瞑想は死ぬほど厳しい。自分のエゴを攻め滅ぼすんだから。
戦士のような心構えでやるもの。ブッダの時代ならムンジャ草、真田氏なら六文銭を握り締めてやるべし。
もしくはMANOWARを聞いて勇気を奮い起こすべし。
@YouTube その美女の(俺はタイプじゃないので美女とは思わないけど)これはわりと面白かった
@YouTube 瞑想してれば彼女の体験がどういうものかはわかるよね
スピ系だからハイヤーセルフなんて言葉を使ってるけどこういう系の人にしてはわりとちゃんとしてると思った
でも彼女自身自分の体験がどういうものかわかってないみたいだから仏教やアドヴァイタみたいなちゃんと説明がされてる古典宗教の勉強した方がいいだろうね
440 このわたくしがムンジャ草を取り去るだろうか? (敵に降参してしまうだろうか?)この場合、命はどうでもよい。
わたくしは、敗(やぶ)れて生きながらえるよりは、戦って死ぬほうがましだ。
エックハルト・トールあたり読んでそのまま言ってるだけでしょ
ちゃんとしてるとは思わない
厳格に動物性のもの食べない人って外食はどうしてるの?玄米おにぎりや果物持ち歩きとか?
私は家ではたまにマヨネーズや鰹節、鶏卵や魚の缶詰くらいは食べてしまってるのだけど
野菜よりも肉のほうがむしろオートメーションで処理されててしかも安価って、なにげにすごい時代
自分も肉は買わないけど出された料理に入ってる肉くらいは食べるけど外でも避けようと思ったら果物でもパンでも豆乳や野菜ジュースもあるしなんとかなるよ
瞑想ワークショップ
https://m.facebook.com/びこLightworker-1349083541824189/
会いに行ける美人グルですね〜
参考までに
この美人さんが弟子を500人引き連れて仏法僧に帰依しておられるわけですな?
参加費はいかほどだろうか
まんじゅう代100円なら参加しても良いかなと思うが
このスレの書きこはちゃんとしてるわけ?
ちゃんとしてるって言えるのは、極端なこと言えば仏説だけだろ。
四諦を説かない人が仏教徒のグルになるわけがない。
四諦を知らないスピリチュアル女子でも、これぐらいは出来るという話。
何を思って、何を言わんとしているのかよく分からんが、
金のことは1ミリも考えていない。
わからない?1ミリもわかりたくない、の間違いでは?
道元「人人尽く衝天の志あり。如来の行処に向かって行くことなかれ。
(人間は天を衝く気概が無ければいけない。ブッダの後を追い掛けてはいけない。)」
白隠「大疑団・大憤志・大信根」
富士山が噴火しても命懸けで坐禅し続けた。
一休の母「経典を読むだけの人は糞虫。釈迦も達磨も手下にするぐらいになれ。」
鈴木正三「初心者は仁王、不動を手本とすべし。仁王、不動のような強い心がなければ煩悩に負けてしまう。」
山岡鉄舟、自画像を評して、「死んだとて 損得もなし 馬鹿野郎」
阿羅漢にはその文脈で言っている「分別」は、とっくにないはずなので
大乗経典が本当に指摘したい「分別」とは、初期仏教が伝播していない
地域に住む人々の中にある思い込みのことじゃないかな。
大乗仏教の僧侶が、民衆が信じる「正しい仏教」の尺度で判断された
場合、まず理解されないだろうし。
オリジナルの仏教が正しく伝わらない地域、時代における方便では
あったのかも知れない。
逆に言うと、これが方便だと分からないということは
大乗を名乗ってはいても、智慧はなく「小乗」にさえ及ばない
という内実を露呈してもいる。
初期仏教の文脈において、三帰依と四諦八正道の他に涅槃に至る道はない。
気にする必要もない。
大乗仏教の方便は、オリジナル仏教を理解できない人のための方便でしかない。
八正道は、三十七菩提分法とお互いに入れ子構造であるし
四諦は、それ自体が縁起を含んでいる。
>>946 気づきの実践について語る下りで、瞑想状態では地水火風の
エレメントが見える、とも話しています。
もし正しい指導者につくことができれば、比較的早い時期に
名色分離智以上の智慧を開発できるかも知れませんね。
分別を離れることと、分別しないことは違う。
分別しないことと、分別できないバカは違う。
そんな当たり前のことを得意になって言われても、
そうですね、としか言いようがないのね。
大乗という名前と概念で、自分が上だと思ってる時点でアレでしょう。
大乗だ小乗だ初期だ何だというのも分別。どうでもいい。
直指人心。見性成仏。それ以外に無い。
974.見性成仏しかない。
バカには理解できない。大爆笑である。
佛に会っては佛を殺し、ってのも
オリジナル仏教が伝わっていない時代と場所において
個々人の妄想するイメージを手放すことを言っているのであって
オリジナル仏教で佛を殺したら、おめぇ、それ洒落になんねぇよ
て話でしょ。
全くではないが
それは多面的な事実のある側面でしかない
ゴータマも神を斬ってるし
つまり、例の子を認めろという理屈でしかないので、全くダメ
ここでgdgd言ってるお前らって宗教になにを求めているんだ?
ガキはスマホでゲームでもやってろよ
糞ウゼェ
スピリチャル系人気ユーチューバーになりたいです(*^^*)
お前達、真正の見地を得ようと思ったら、他人に惑わされては駄目だ。
内においても外においても、逢ったものはすぐ殺せ。
仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺し、羅漢に逢えば羅漢を殺し、
父母に逢えば父母を殺し、親類に逢ったら親類を殺せ。
そうして始めて解脱することができ、何者にも束縛されず、
突き抜けたように自由に生きることできるのだ。
臨済録
問い、「真正の見解とはどのようなものですか?」。
師は云った、「君達はただそのままで、凡俗の世界や聖なる世界に入り、不浄界に入り、浄界である諸仏の世界、
弥勒楼閣や毘廬遮那法界に入り、至る処に国土を現じて成住壊空することだ。
ブッダはこの世に生まれて教えの輪を回した後、涅槃に入ったがそこには出入去来の姿は見られないし、
その生死を求めても分からない。そのまま生滅を超えた世界に入り、至る所の国土に遊行し、
蓮華蔵世界に入って、全ての法は空で実体が無いのだと徹見する。
ただこの説法を聴いている無依独立の真人こそが、諸仏の母なのだ。仏はその無依独立の真人より生れ出る。
もし無依独立の真人に到達できれば、仏とは得るものではないと分かる。
もしこのように見得できれば、それが真正の見解と言えるのだ。」。
師は上堂して言った、
「心臓には一無位の真人がいて、常にお前たちの面門(感覚器官)より出入している。
未だこれを見届けていない者は、サア見よ!見よ!」。
その時1人の僧が進み出て質問した、「その無位の真人とはいったい何者ですか?」
師は席を降りて僧の胸倉を捉まえ「さあ言え!言え!」と迫った。
その僧は戸惑ってすぐに答えることができなかった。
師は僧を突き放して、「お前さんの無位の真人はなんと働きのないカチカチの糞の棒のようなものだな。」
と云って方丈に帰った。
仏教スレで悟ってもいない野狐グルの女の子をプッシュする意味は
もっとよくわからないけどね
上座部か大乗かというのは、何を学び何を修行したかよりも
どの世間に暮らすかということの方が大きいだろうね
禅 = 大乗は思い込み。
禅は、たぶんテーラワーダからやって来た達磨大師が中国で始めた瞑想の人体実験。
実験レポートが禅の語録。
得るものは十分にある。
>>988 前提として、彼岸を目指す仏教徒にとって四諦以外に寄る辺はないので、
その他のものは景色でしょう。
参考にならないと思う人に押しつける意図はないよ。
瞑想がなかなか進まずに行き詰まっている人の視点から見たら、
こんな子でも、こういうやり方でこれくらいの瞑想体験ができているのか、と
思うかも知れない。
瞑想にも仏教にも関心がなく、精神世界や宗教すべてが迷信だと思い込んで
いる人の視点からみたら、興味を抱かせる入り口になり得るかも知れない。
ものの見方、価値観の尺度はひとつではない。
こんなやり方?w
それ、できてねえじゃんとしか思わないんだけどw
いい加減しつこいね
これとか見て、正しいと思う人どれだけ居るの?w笑うしかないんだけど
@YouTube;t=1316s
上の動画の笑っちゃうところw
○蝶々を強く意識したら看板とかタトゥなどの蝶が目に付きましたぁ(当たり前でしょ!w)
○Pod無くしたので意識したら他人のiPod拾いましたぁ(パクったんかい!w)
こんなんで引き寄せの相談に乗りますとか言っちゃうわけかw
興味のある方は動画の下のリンクにワークショップの案内とかあるんでどうぞ^^
仏教のこと最近勉強しだしたんだけど、
テーラワーダはいいのは当然だけど、
空海の密教や禅宗もいいな
>>991 靴箱がスマナサーラの見解を自説に都合よく垂れ流してるね。
密教はヒンドゥーの要素多いしね
本尊は大日如来だし
日本ではやらないけどチベットなんかではSEXのような儀式もやるしね
顕教とは違いすぎる
-curl
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ヒント:5chスレのurlに http://xxxx.5chb.net/xxxx のようにbを入れるだけでここでスレ保存、閲覧できます。
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