資本主義の世界と逸脱した世界にいる、とんでもなく意識高い系の神父様が、
偽善と自己正当化と、自己愛と、正論と、意識の高さをスパイスに、ご親切に
何段もハードルを上げて、低いハードルを飛んでいる私たちを見下して、
ざわざ重箱の隅をつつくように、粗を探して、上から目線で、ダメ出しをしてくる、
意識高すぎる、有難い本ですよね?
片柳神父「自分のために能力を磨く人は、どこかで思い上がって成長しなくなります。
みんなのために能力を磨く人は、みんなをもっと幸せにしたいと願って、どこまでも成長し続けます。
自分の力を最大限に発揮できるのは、みんなのために頑張る人なのです。」
みんなの為にって生きてる人がどれだけいるんですかね。
みんなの為って結局は偽善じゃないのですか。
大多数は、自分とか、自分の家族とかで精一杯でしょう。
片柳神父みたいに聖職者で子供も同居家族も持てない人なんて稀ですから。
自分は、みんなの為に、努力してるからどこまでも成長し続けると。
で、
自分や自分の家族の為に努力する人は、どこかで思い上がって成長しなくなると言いますか?
いつも、重箱の隅をつつくように、粗を探して、上から目線で、ダメ出しをして
思い上がってるのは片柳神父ですよね?
本を読んでも、意識ばかりが高く、自分に甘い偽善者が増えると思います。
結局、みんなの為に生きるなんて無理なのですから。
自分の事で精一杯でしょう。そこを勘違いしてはいけないと思います。
意識だけ高くても生活できなければ意味が無いのです。
すっぱい葡萄ではダメなのです。
片柳神父みたいに聖人面してればお金がもらえる人ばかりでは無いのです。
自分の生活に精一杯の人は、時間も無くて、精一杯すぎて成長しなくなります。
生活保護を貰っている人は、時間もお金も余裕があるので、どこまでも成長し続けます。
自分の力を最大限に発揮できるのは、生活保護を貰っている人なのです。
イエズス会の司祭ってこういう考え方の人多いよね
この人に限らず
あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。(マタイの福音書 28:19)
イエスは、「行って、人々を私の追従者にせよ」、と命令したのです。
宣教への意志とはイデオロギーによる征服への意志になります。
キリスト教を世界宗教にしたてあげた主要な国
ローマ・スペイン・ポルトガル・イギリス・アメリカ、などがあります。
これらの帝国主義の世界戦略(植民地)合理化のために都合の良いイデオロギーを
提供し、帝国主義の富と力に乗っかってその勢力を広げたのがたのが
キリスト教であったと言えます。
普遍的価値観 + 他人を助ける善人意識 = 帝国主義のイデオロギー
という公式が世界史では成立します。自分の価値観を普遍的なものと思い、かつ、
世界にそれを広めなければ世界は良くならない、というような考え方が
国家目標と結びつき、彼らは必ず自分の欲する形に世界を変革しようとします。
黙っていられる人
本当に信頼できるのは、耳触りのいい言葉を並べる人ではなく、
話すべきでないことを絶対に話さない人。
本当に賢いのは、気の利いたことを喋りまくる人ではなく、
黙っているべきときに黙っていられる人です。
(片柳弘史 著 「こころの深呼吸」より)
話すべきでないことの定義って、何?
信頼の定義って何?
片柳神父に賢く思われたく信頼されたいなら
「素人はだまっとれ」って事?
賢さよりも馬鹿さが劣っているという事にはならない。
賢さとは何か
人は賢すぎても良くないのではないだろうか。
賢くしたたかに保身や処世術を身につける事でのデメリットだってあるだろう。
イエスは賢かっただろうか。誰かの信用を守る為に黙っていたのだろうか。
イエスは私たちに賢くなりなさいなんて求めているのだろうか。
愛しなさいとは言っているだろうけど。
本当に信頼できるのは、耳触りのいい言葉を並べる人ではなく、
話すべきでないことを絶対に話さない人。
本当に賢いのは、気の利いたことを喋りまくる人ではなく、
黙っているべきときに黙っていられる人です。
独裁者の言葉ですか?
どんなにたくさんの知識があっても、まるで何でも知っているかのような態度で話すなら、それは愚かな振舞いです。
たとえわずかな知識しかなかったとしても、そのことをわきまえて謙虚な態度で話すなら、それは賢明な態度と言えるでしょう。
片柳神父
何でも知っているかのような態度って何?
そのことをわきまえて謙虚な態度って何?
愚かな振舞いという根拠は?
意味がわかりません。
まるで何でも知っているかのような態度で説教や仮説を展開して、決め付けたり、耳さわりの良い言葉をしているのは片柳神父の十八番なんじゃないのですか?
愚かも賢明も、誰の視点によるかなのだと思いますよ。
Aさんから見たら愚かに見えても、
Bさんから見たら賢明かもしれません。
ようするに言いたい事は、
なんでも知っているからと傲慢な態度になってると鼻につきますよ。あなたは愚か者です。
だから私に対しては謙虚な態度で話してね。そしたら貴方は賢明な人です
っていう事ですよね。
または、その自戒ですよね。
まぁなんとなくわかります。
知っていないのに、なんでも知っているような口で傲慢な態度で話すとあなたは愚か者に見えますよ。
わずかな知識しかないなら、そのことをわきまえて謙虚な態度で私に話してね。そしたら貴方は賢明な人です
片柳神父は賢明な人なんですか?
自分は、まるで何でも知っているかのような態度で話すけど、
あなたたちは、わずかな知識しかないんだから、そのことをわきまえて謙虚な態度で話してくださいって事ですよね。
相手が謙虚だとか傲慢だとかを判断する感覚だって、思い上がりですよね。
自分を一番下にしていたら、たとえ相手がどんなに傲慢な人でも、そこに、あの人は愚かだとか賢明だとか感じたり
わざわざ謙虚さを要求しないのではないのではないのですか?
私は自分の言っている事が必ず正しいとは思いません。
片柳神父の説教も間違っているのではないとは思います。
物事には、いろんな側面があるので、難しいですね。
置き換えてみましょう
どんなにたくさんのお金があっても、まるで何でも手に入るかのような態度でプロポーズするなら、それは愚かな振舞いです。
たとえわずかなお金しかなかったとしても、そのことをわきまえて謙虚な態度でプロポーズするなら、それは賢明な態度と言えるでしょう。
置き換えてみましょう
どんなにたくさんの登山経験があっても、まるで何でも知っているかのような態度で登山するなら、それは愚かな振舞いです。
たとえわずかな登山経験しかなかったとしても、そのことをわきまえて謙虚な態度で登山するなら、それは賢明な態度と言えるでしょう。