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以下は
帝人事件──もう一つのクーデターB(戦前期日本の司法と政治D)
http://barbare.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_f6da.html からの引用です。
【法律によるクーデター】
帝人の監査役として事件に連座した河合良成(戦後、幣原内閣で農林次官、第一次吉田内閣で厚生大臣を歴任)は当時彼の取調べを担当した検事がもらした次のような発言を書き留めている。
「俺達が天下を革正しなくては何時迄経っても世の中は綺麗にはならぬのだ、腐って居らぬのは大学教授と俺達だけだ、
大蔵省も腐って居る、鉄道省も腐って居る、官吏はもう頼りにならぬ、だから俺は早く検事総長になりたい、さうして早く理想を行ひたい」(河合良成『帝人事件──三十年目の証言』講談社、1970年)。
社会を良くするためには君たちに多少の犠牲があったとしてもやむを得ないとその検事は明言したらしい。
(中略)
以上の経緯を時系列的に整理すると、まず昭和七年の五・一五事件で犬養毅が殺され、政党政治は事実上息の根を止められた。
次の齋藤内閣は昭和九年の帝人事件で倒れた。
続く岡田内閣も昭和十一年の二・二六事件によって倒されてしまう。
事件後に成立した廣田弘毅内閣(昭和11〜12年)において軍部大臣現役武官制が復活したほか、馬場^一・大蔵大臣により軍事費重視の予算が組まれることになる。
また、帝人事件の翌昭和十年には天皇機関説問題で美濃部達吉が貴族院議員の辞職に追い込まれている。
帝人事件の捜査にあたった若手検察官たちの発言をみると、社会改革のためには手段を選ばないという点で陸海軍の青年将校たちと共通の論理が見られる。
つまり、五・一五事件が海軍の青年将校によって、二・二六事件が陸軍の青年将校によって銃剣を以て行われたクーデターであったとするなら、
帝人事件は検察内部の“青年将校”が法律を以て行ったもう一つのクーデターであったと言うことができる。
三土は裁判で次のような弁論を行なっている。
「若し本件の如くに何等の根拠なきに拘らず、捜査権を悪用し、人間の弱点を利用し、事件を作為的に捏造して政変までも引起すことが許されるならば、内閣の運命も二、三の下級検事の術策に左右せられることになりますが、国家の為め是程危険な事がありませうか。
実に司法権の濫用は「ピストル」よりも、銃剣よりも、爆弾よりも、恐しいのであります。
現に此一事件に依って司法「ファッショ」の起雲を満天下に低迷せしめたのであります」(野中、前掲書)