ひつまぶし…蓬莱軒
味噌カツ…矢場とん
手羽先…風来坊or山ちゃん
味噌煮込みうどん…総本家or本店
きしめん…吉田
どて煮…島正
天むす…千寿
エビフライ…海老どて
あんかけスパ…ヨコイ
鉄板スパ…ユキ
台湾ラーメン…味仙
カレーうどん…鯱乃家
名古屋コーチン…一鳳
小倉トースト…リヨン
変わり種…マウンテン
ファーストフード…スガキヤorコメダ
ういろう…青柳or大須
鬼まんじゅう…浪越軒
江戸時代に旅行をする文化あったのか?
関所越えるのも大変なんだから今みたいな気軽に旅は行けない
>>12 東海道中膝粟毛が書かれたあたり、あるにはあったかと思われ
伊勢参りとか大山詣りとかなら動いても良かったんでしょ
江戸時代の最大の宿場町は東海道の宮宿(熱田)
しかし、大津も最大の宿場町と名乗ってるが
実際はどうなの?
寺ばかり行ってたわけではないでしょ
小林一茶だとか木更津あたりによく行ってたはず
江戸東京博物館いってみな
そこらへんの展示は、あるよ
坂東三十三観音なんかも流行ってたし
成田詣でや帝釈天だって江戸から距離的に扱いやすいから流行ったんだよ
そこらへんが明治になると鉄道におきかわっていくだろ
大津や熱田が大きな宿場町って言われても微妙だな
大津は、古来からの港町
熱田は、それなりの都市の側にあって熱田神宮自体の目的地なわけで
生粋の宿場町じゃないからな
宿が多いだけなら江戸や京、大坂のが多いだろうし
それに温泉番付なんてのも江戸時代には、作られている
草津だの、熱海だのは、とっくに江戸時代には、有名温泉地
こういうのは、画像検索するだけでも見つかると思うよ
確か関東平野は藩札なしで往来自由じゃなかったかな?
箱根の関所破りは死罪だが、そこまでは自由だし
現代感覚で日給6000円の職人が東海道で一泊ニ食の一汁三菜で6000円、中山道が同4000円強
大動脈なんで宿場町に米が統制価格で優先的に回されていた
共に板の間の大部屋だと3分の1程度の値段で泊まれたらしい
だから行って戻って数日程度の旅行なら割と気軽に行ってたらしい
金沢八景が一般的で、草津と日光東照宮は江戸庶民の贅沢って感じか
箱根の関所破りは、死罪だが実のところやぶ入りといって見つかっても温情でだいたいみちまよい扱いにされてた
実際に 死罪になったのは、1例か2例ぐらいしかないはず、死罪になったやつは、何したんだろう
関所の手形は、確か菩提寺でもらうんだっけ?
>>23 お玉ヶ池の話はかわいそうでならないが、みせしめの為だったらしい
江戸時代ちゅうても初期と後期で社会情勢や役人の考えかたも違うしな
日本の観光旅行の始まりは、いつなのかね?
新婚旅行は、坂本龍馬だの五代友厚だのって説があった気がするけど
昔読んだのでウロ覚えだが、輪島の庄屋の土蔵から詳細な記録が発掘された時の内容
凶作と重税に苦しんでる時代の貧農の嫁さん連中がべっ甲の櫛を買って、収穫祭が終われば数年毎に連れ立って山代温泉経由のお伊勢参り
戻りは京見物を兼ねた琵琶湖ルート
藩黙認の隠田があったからだと総括してたが、それにしても・・・
>>28 戦乱が終わってある程度豊かになった江戸中期じゃないかな
北斎の富岳や広重の五十三次も観光ガイドやもっと言えば
今の旅行番組を見るみたいな感覚だったみたいですね
京や大坂の庶民のほうが豊かで距離的にも気軽に伊勢/熊野/奈良/お遍路に行ける気がする
外様同士なんで親藩譜代で固められた東海道とは状況が違うかと思うが、当時のGDPは武家半分で百万都市の江戸と、ほぼ庶民で40万都市の大坂がほぼ同等だし
今暗くなるまで車で移動して周辺の街で宿さがしたりして行き当たりばったり旅してるけど江戸時代もこんな感じだったんやろな
ありえないでしょうね
日が沈むまでに宿探すのが鉄則だったはず、宿場町から少し離れれば街道筋でも追い剥ぎ(まあ強盗の類いですね)にあう危険が高かったと思いますね
落語ややじさんきたさんにそういった描写がかなり出てきますからね
大坂や京の人は、旅行したのかね?何か資料があるんだろうか?
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を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人全員に支給する、『ベーシックインカム』
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▽都人からみた吾妻男
東人は常に云わく、額に矢は立つとも、背に矢は立たじと云ひて、君を一心に護るものぞ(聖武天皇/続日本紀)
あずまをのこは いでむかひ かへりみせずて 勇みたる 猛き軍卒(大伴家持/万葉集)
相模国鎌倉は、下界の鹿渋苑、天朝の築塩洲也。武将の林をなす、万栄の花よろづにひらけ、勇士の道にさかへたり(海道記)
戦士の勇、山東の民一にして千に当たる。あに皇畿近州の嬰児を以て、東関蛮夷の勇健に対せんや(吉田定房/吉田定房奏状)
▽江戸っ子から見た京女
水 水菜 女 染物 みすや針 御寺 豆腐に 鰻鱧 松茸(大田蜀山人/一言一話)
京によきもの三つ 女子、加茂川の水、寺社(滝沢馬琴/羇旅漫録)
京は石地小砂利のみ多く、土気すくなし。故に人きれゐなり。女などはいにしへより美人多きぞ(二鐘亭半山/見た京物語)
京地は婦人よし(司馬江漢/西遊日記)
▽九州男児からみた大阪男
大阪なんかな、「またも負けたか8連隊」ち、大阪なんか言いおったっじゃっどんな(鹿児島歩兵第145連隊)
大阪の兵隊は途中で会ったけどその場でビンタですよ。「こん、ばかたれが」っていうような状態だったですからね、うん(久留米第18師団)
うちの部隊にも何名か大阪人がいましたよ。もうこんな「ぜえろく」っていってみんなから蹴飛ばされてたけどね(自動車第34連隊)
講を組む以外で気軽に旅行はできんだろう 橋もほぼないんだし
でも出羽三山講なんかみるとよくあそこまでいったよなと思うな
鉄道なんかあってもおれでもまだいったことねーや
寿司はまだなれ寿司だったころかいな
魚は脂っ気のない初ガツオが人気の時代だし、口に合いそうなものはぶっかけめしかなぁ
旅行者ってどう思われてたのかね
まあ身分もあるんだろうけど
伊能忠敬だの松尾芭蕉だの昔それなりにあちこちに行ったことがある人は、なんか尊敬されてたんじゃないかと感じちゃうんだが
その辺になると特別扱いだったのでは
伊能忠敬が泊まったところって今でも残ってたりする田舎の豪商とかばっかだしね
よく明治以前で一番あちこち行った人で誰が一番あちこち行ったんだろうとかかんがえるね
でも江戸になると日本中くまなく歩いた伊能一行や大黒屋光太夫一行みたいに地球一周したのも出てくるし、銭屋五兵衛なんかもタスマニア説もあるもんな
江戸時代の関東と九州の食文化なんて今以上にかけ離れてただろうし、その辺歴史旅番組にしたら面白そうだわ
熊本なんか酒は赤酒だし、伊能忠敬もなんじゃこりゃだったろうな
>>48 当時は、どっちかていうと西日本が先進地域だったし、伊能が商売してた佐原の街もその先にある関東で二番目に大きいと言われた銚子も近畿からきた商人が作りあげた街って面が強かったから勉強になったと思ったんじゃないかね
薬売りの人たちも全国まわってるね
富山が有名だけど佐賀もてびろくやってた
サロンパスの久光製薬のルーツも薬売りだったはず
江戸時代の旅なら、「大名の参勤交代」と「町人の旅」を分けて考えた方が
良いだろうな。
参勤交代のたびって、喋れるわけじゃないし、たんたんと歩いてるだけだからつまんなそうだな
宿の飯だけが楽しみだったんじゃねーかな
時代劇できつねうどん食ってたけど、油揚げとかあったんじゃろか?
稲荷寿司も登場するもんね
甘味料は高価だろうから甘味はなかったのかもね
wikiよんだらいなり寿司が、書物現れる初見は、1844年になってるからわりと幕末近くだな
ただ、尾張には、前からあったとのことだから名古屋発祥なのかも
豊川稲荷かぁ
関東でも関西でもない独特な味覚は当時からだったんだろか
歌舞伎の演目が由来の助六寿司というのもあるな
そういわれだしたのは明治以降なのかもしれないけど
江戸ってあっちから移り住んできたのになんであんなに味が違うんだろう
江戸は、単身赴任者王国で、圧倒的に男性比率が高くて、ファーストフード文化だったていうね
野菜や魚は、今より地場のものじゃないと難しい時代だしな
醤油なんかも関西発祥で関東で自力で作られるようになるのは、かなりあとだし、食材は、大阪のが圧倒的に豊富だったろ
油については、明治になっても大阪の問屋が圧倒的に強かったようだ
酒も銘酒として登場するのは「灘の生一本」だもんな
酒なんか水さえよければうまい酒ははできそうな気もするけど、関西食文化へのコンプレックスや憧れゆえかな
うどんは元々関東メインだったけど飢饉だかで蕎麦を食べるようになったみたいね
醸造技術の差でしょうね
江戸界隈の造酒屋とか醤油醸造業は、その先祖辿ればだいたい近畿に出自を持ちますよ
佐原あたりの旧商家の出自みればよわかります
関東で初めて醤油を作ったヒゲタは、和歌山の庄屋の一族ですよね
銚子港自体が紀州人が開発したことは、よく知られてます
たぶん製造技術もそうですが、流通システムの差もあったでしょう
当時の物流は、日本海経由で大阪通じて関東にくるルートですからね
大阪は、物流の中心にあって圧倒的有利でした
江戸の庶民が飲んでたのは焼酎とも聞くね。
今の焼酎とは全然違ったものらしいが、
熊本は赤酒ね。
すごく甘くて、飲みなれていない他藩の人たちにしたらうんざりだったろう。
ほーwikiの酒の歴史読んでたらのめり込むな
朱印船でもう日本酒って東南アジアの王侯向けに輸出してるんですね
ザビエルもフロイスもかなり好んだとか
面白いちと勉強しよう
『西遊草』
著者:清河八郎(山形県=出羽国東田川郡清川村出身の幕末尊攘派志士。剣は北辰一刀流)
▽庄内人
他国の者は胸の中がらりとしていて、我が庄内人のような決断のつかぬのと比べものにならない。
▽名古屋
瓦屋根の並んでいる様は京にも大坂にも劣らないが、人々の口のきき方は軽薄である。
▽岡山
東西に開け村々も多く、山にも海にも産物が豊かであるから、よろしい土地である。
▽関東
剛強な気質で心正しく、人を憐れむ。関東に遊ぶものはあっさりとした心で楽しみ、ものを疑う必要がない。
▽江戸
関東の中でも最も清潔な所だから安心してよい。
▽関西
柔弱で事に堪えず、人を欺く。上方に至るものは万事につけて注意に注意を重ね、手落ちのないように心懸けなければならない。
▽播磨
人情が極めて軽薄で、実意のない通り一遍のあしらいで人を欺くことが夥しい。
▽京都・大坂
京都は四方に山を負い綺麗な水が多い。中でも鴨川の水の清らかさは人の知るところである。
京師は口先はうまいが心がねじけているので、買い物は大坂がよい。
大坂は江戸に比べると客が少ないので食物は万事よろしくない。中でも鰻は最もまずい。食わない方がよい。
京・大坂は人にへつらうばかりで意気が上がらず、東方男子の風と異なる。
▽宇都宮
下野の中でも格別気風の荒々しい所だから、万事につけて人に後れを取ることを嫌うという片意地な悪習慣がある。
▽陸奥国
関東とは人の気持ちも違い、かつ言語も思いのほか鈍重である。
▽福島
町家は特に見事だという事もないが、近辺から人の集まる所で、何事につけても上品である。
▽米沢
近辺の国々よりも優れて政治が行き届いているから、人は皆穏やかな気立てで、人情に厚い。
▽最上
要害の地で土地もよく肥えているが、怠け者や無法者が多い。
京師・大坂あたりの芸子どもは誠にとるにたらぬ下手ものばかりにて、見るにたらぬなれども、田谷村連は外の気合をしらぬ故、
唯国元の事にのみ比しならぶるゆへ、至て上手の様に思われけれども、江戸の積にすれば、素人よりも面白からで、越後新潟の足もとも及ばぬなり。
一体上方は気の緩きところゆへ、歌舞ともに張りあひのぬけたる風にて、殊に未熟の様に思わるなれども、田舎よりはじめて来るものは、
いまだ目のきかぬ事ゆへ、時によると彼らの為に惑さるる事ままある也。
吾等などは関東、新潟辺にて修練のもののみ見聞きするゆへ、上方の歌舞妓は却て酒興の邪魔に思わる。
那智勝浦旅した時に寿司のルーツといわれる「なれ寿司」なるものをいただいたが、独特過ぎて美味しさは感じなかったなあ
とはいえ熊野詣をした昔の人はみんな食べてたんだよなあという感慨はあったよ
日もちさせるのが本来の目的だろうし旅には、ぴったりかと
那智勝浦では醤油で味付けして高菜でくるんだ「めはりずし」が素朴な味わいながらうまかった。
頑固おやじの店で出来立てで食べない客には嫌な顔をするらしい
確かにその日と翌日では全く味が違った。
それにしても高菜は九州のイメージだったがあっちの方でも食べるのね
>>74 内牧温泉が五番目って今では考えられんな
泉質や湯量が変わって衰退したり繁盛したりもあるんだろうね
自分は、小河内が入ってるのがびっくり奥多摩なんて温泉街のイメージないが
江戸に近いから多少ブースト感じる
奥多摩に温泉街あればそら江戸っ子が押し寄せただろうね
水源が湖底に沈んでるから何かきっかけででなくなれば終わりだからね
数馬とかは、沈んでないが大した湯量ないだろうな
林羅山に三名泉とうたわれた下呂温泉も今では地味な存在だもんねえ
昔は名古屋方面からのちょい旅行に最適な温泉場だったみたいだけど、飛騨高山方面に気軽に行けるようになったしで大苦戦らしい。
温泉自体も一旦枯れて江戸時代とは泉質も違うとか
馬車は何で流行らなかったんだろ
荒れた道が多くて無理だったんかいな
牛車は貴族が使用したみたいだけど、のろのろであれも優雅な人たちだからだよな
>>82 明治になると乗り合い馬車は、かなり流行りますがね
それに馬車鉄道なんてのも出現します
そもそも日本の馬は、馬格があまりない今でいうポニーみたいなのばかりだったからかもしれませんね
山あり谷ありで、西部劇に出てくるような延々と続く平野がないからかな
飛鳥時代に存在したという古代道や太閤道がすたれずそのままだったら馬車は普及したかも
今あるような一泊二食付きの宿は江戸時代に始まったらしいね。
それ以前は食料と寝具を持ち歩いて旅してたとか
そりゃ大変だわ。
お伊勢参りは、語られるが、こんぴら参りはどうだったのか?
昔は現金持ち歩いてたんだからそりゃ治安も悪くなるわな
途中で金なくなったり、とられた時は、どうやって帰ったのか
ATMないもんな
奪う側になったんだろうな
明治になって近代化する前は些細なケンカからすぐ地域対立の大喧嘩になってたりしてたし
孤独を癒してさすらう旅か 愛を求めてさまよう旅か
頼れるものはただ一つ 己の腕と腰のドス
治安はそれほど悪くはなかったよ
追い剥ぎも捕まれば死罪だからね
むしろ 家康が日本統一するまでがすごい時代だった
700年間位戦乱が続いて農民ですら普段から武装して自衛してたからな
いつどこで襲われてもおかしくない時代が700年とか怖いよな
農民は農民で川の権利とかですぐ地域間戦争起きてたのも有名な話
五十三次の錦絵集めて想像しながら旅気分に浸ってる
ちなみに自宅は権太坂の近く
『壬戌紀行』 太田蜀山人著 享和二年(1802)4月4日(高崎通過部分)
左に八幡宮あり、大門に檜の並木つらなれり、右のかたに川水ながれ、左に富士を祭れる社あり。
藤塚村の人家を見るに、竹の簾にほりすかして絵のかたちしたるをひさぐ。
右に若宮八幡あり、鐘楼ありて木立物ふりたり。
左に八幡山常安寺といふ寺あり、門に掲げし八幡山の額に藤煥図篆とあり、
是は徂徠の門人東野の名なり、いかなるゆかりありて此所の額をや書けん。
豊岡村を過ぎて右に大日堂あり、ゆきゆきて右の方に見ゆる城は高崎なるべし。
高崎川の橋を渡る。烏川とも云う。高崎の驛舎にぎははし、江戸にかへりし心地ぞする。
米旨太織小間物薬店など見ゆ、当国舘山名沼田たばことかける障子もあり。
赤坂町に書肆あり、三河屋喜八といふ、中山道にてはじめて書肆を見る。
本町一丁目より三丁目にいたりて曲れば、左に前橋道三里といへる石のしるしたてり。
田町をへて左に寺あり、連雀町にも又寺あり、右に田舎屋といへる本屋も見ゆ。
諏訪大明神の社はちさき土蔵づくりなり、新町にも又寺あり。
此驛を出て両行の檜みちをはさめり、左右ともに畑なり。左の木の間より浅間山遠く見ゆ。
此あたりは檜に松の枝をまじへて風すずしく、麦の青葉のそよぎわたるにはじめて夏に入りし心地ぞする。
石橋をわたりて勝澤の立場あり、一里塚榎をへて右の方をかへり見れば高崎の城まで見わたさる。
倉賀野の驛の本陣には松平右衛門左殿(肥前少将御嫡子)宿らせ給ふ。
今宵は脇本陣□□□□□□が家にやどる。庭に牡丹の花さかりなり。
宿のあるじまめやかなるものにて酒すすめ物がたれり、このわたりには塚の様なるもの多し、
去年も土にてつくりたる馬の形したるもの堀出せり、下佐野にての事なりといふ。
佐野の舟橋も近しときけど、帰るさいそぐ旅なれば立よりて見ず、のこり多かる事なるべし。
>1,2,3, >4,5,6,7,8, >9,10,11,12, >13,14,15, 16,17,18,19,20
>21,22,23,24,25, >26,27,28, >29,30,31 ,32,33, 34,35,36 ,37,38,39,40
>41,42,43,44,45 , >46,47,48, >49,50,51 ,52,53,54,55, >56,57,58,59,60
>61,62,63,64,65, >66,67,68, 69,70,71,72, >73,74,75,76,77, >78,79,80
>81,82,83,84, >85,86, >87,88,89,90,91, 92,93,94,95,96,97, >98,99,100
∧_∧
(´・ω・`) n
 ̄.. \ ( E)
フ a..f..i... /ヽ ヽ_//
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江戸時代、宮から桑名へ船で渡った。それなりの宿場町であった。
佐屋街道を使うのは少数派。
江戸時代に限ったこっちゃねーけど、昔の便所が嫌だな