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すまん!
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... のところを net/test/read. これ加えて下さい。
>>1-2 ご苦労サンなぁ
まぁこれ終わってもぉお主がぁバンバンスレ立ててもぉちゃれやぁ。
お前さんはぁ新規スレ立て係にぃ指名しちゃるかんな。
カーンもぉ75だかんな。
猪木はぁ何とかぁ79迎えられたしぃー。
坂口がぁー80とかぁ。
昭和の名優達ゃあどんどん年取ってもぉちゃる。
お亡くなりもぉ沢山いちゃるしぃー。
カーンも猪木も何とかぁ回復して欲しいかんな。
猪木のバワイはぁもぉ歩けないみたいだがぁー。
ブッチャーもぉ歩行でけないしぃー。
昭和っちゅうたらぁ今時点でもぉ34年も前だかんな。
そりゃあ年をぉ取んのもぉ当たり前だぞぇ。
馬場はぁ23年も前にぃ亡くなってもぉたしぃー。
ステロ使用者、常用者のバワイはぁもっと早くにぃお亡くなりだしなぁ。
まぁお前さん達もぉカーン回復をぉ願ってもぉちゃれやぁ。
動画考察スレでぁ馬場と猪木の比較っちゅうのがぁ数日前にゃああったぞぇ。
考察すれはぁ維新軍のぉワカパヤシとかぁコブラとかぁDEEPとかぁあるかんな。
細かい部分だとぉ間違いもあっちゃるがぁー。
しかしぃあぁゆぅ考察スレっちゅうのぁ本当におもろいかんな。
本からぁ動画の時代にぃなってもぉたしぃー。
そぉゆぅ動画にゃあ必ずぅカキコっちょるぞぇ。
ハンドルネームはぁ…ナイショだかんな。
あんまりぃこぉゆぅ事をカキコるとぉ身元探されてもぉちゃるゎい。
真夜中にぃ居住地からぁ謎の出火とかぁ勘弁だぞぇ。
そぉゆぅバカ連中がぁー沢山いちゃるしぃー。
取り敢えずぅ動画にぃコメント必ずぅカキコるのぁ定番だかんな。
◯◯
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《》
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≪≫
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≪≫
ハンセン著『日は、また昇る』で、超獣対決について
「ブロディ対ハンセン戦は誰もが見たかったろう。私自身が考えてもかなりの好カードだ
…シングルで雌雄を決するよりも
強烈なタッグのイメージをそのままにしてもらえたことが
結果的には良かったような気がするのだ」とある。
ファンクスの兄弟対決も、長丁場のクリーンファイトで確かに良い試合だったが
見終わってみると何かモヤモヤとした気分になり、複雑な感情だった。
(兄弟だからもあるが)
夢のBI対決も結果、やらなくて正解だったんだろうな。
プロレスなんだからガチは有りえず
結局「馬場が勝ちを譲れるタイミングで
試合する。内容は馬場の顔も立つ形で構成する」
しかなかった。
猪木の糖尿病がなかったら、1982年は有り得るタイミングだったけどね。
おんどれらの言う通り馬場ー猪木はぁやらんで良かったかもなぁ。
後はぁ鶴田ー藤波やハンセンーブロディもだぞぇ。
当時はぁ絶対にぃ見たいっちゅうにぃ思うたわぃ。
しかしぃやらんで正解だったかもなぁ。
ハンセンとブロディはぁタッグ対決はぁ度あったがぁー。
そいからぁブッチャーーシン戦はぁ逆にぃやらん方がぁー良かったっちゅうにぃ。
あれもぉ夢のまんまの方がぁー良かったかんな。
ブッチャーがぁ全日にぃ戻ってもぉたからぁ絡ませないわけにゃあいかんっちゅう流れでぇ。
他にもぉ鶴田ー前田やらぁ天龍ー前田もぉ見たかったがぁ。
結果的にゃあやって幻滅すんならぁやらんかった方がぁー良かったっちゅうにぃなるかんな。
>>11 坂口曰く、第三者(おそらく元子)の介入だね。
元子はなあ
直接被害はなかったが
会場で若手やファンに偉そうに説教してる姿を
何度もみたから悪い印象しかない
馬場本人にとっては元子の存在は何物にも変え難いものだったんだろうけど
飛行機トラブルで外人レスラーが来日出来なかったとき、日本人レスラーだけで興行を行った
メインは馬場対吉村のシングル戦。レフェリーは猪木が務めた。キャンセル客が相次いだ
馬場対猪木の試合を組めばキャンセルは防げただろうに、なぜそうしなかったのか
時間切れ引き分けでも両者リングアウトでもいくらでもできただろうに
>>15 >飛行機トラブルで外人レスラーが来日出来なかったとき
会場は後楽園ホール。
昭和43年の2月でも、馬場対猪木がやるにしては小さすぎる。
それに、この日は猪木も試合に出なかったんだから
キャンセルが出たのは仕方がないなぁ。
というより、この興行は有料だったのか?
「日本プロレス全史」によると、
「同日のチケットは3月8日の大会分に延期された」、とあるんだが?
そもそもキャンセルってできるの?
スポンサー的にチケットを買ってもらっている大口はあるかもしれんけど
一般客がじゃあ払い戻せといって当時の日プロ窓口がカネを返すとは思えない。
当時の日プロでなくてもマスカラスとドスカラスが帰ってしまった興業とか
金返せの声はあるだろうけど取りあわないように思うんだが。
>>15 レイス初来日のシリーズ。2月16日(金曜日)後楽園からの開幕戦生中継
ところが羽田空港が雪で閉鎖され、外人勢を乗せた飛行機は千歳空港へ
で、次の興行が23日前橋大会だから1週間の間、外人選手を遊ばせていたことに。
(ちなみに、23日前橋から金曜8時の中継が毎週になる)
3月8日の後楽園大会でチケットが有効になったとて
テレビが入ったら埋めなきゃカッコがつかないだろうしねぇ
>>17 基本的に出来ないよね。
俺の体験から言うと、1989年1月8日だったかな?
昭和天皇崩御で、新日の後楽園ホール大会取りやめ、
また94年2月、新日のNKホールでもやはり大雪で
選手が東京に来れないので取りやめになったが
それぞれ翌月、同所での振替興行になった(払い戻し無し)
ただ、1971年12月9日、大阪でのドリー対猪木のNWAと
UN戦ダブルタイトルが猪木の急病で中止→坂口が代打になった時、
それを伝える貼り紙に
「払い戻しを希望される方は、体育館の正面窓口で行っています」
という文言があったのだが、それが棒線で取り消されている写真を見たことがある。
>>19 >それが棒線で取り消されている写真を見たことがある。
心配する程でもなく、坂口への期待値で埋っていったんだろうね
日プロ時代のぉ猪木はぁ120超の時代があったらしいかんな。
大型外国人相手にぃ体力負けしない様にぃ体重をぉ増やしちょったとかぁ。
猪木自体がぁー太りにくい体質らしいかんな。
後はぁ馬場に見劣らなくする手段もあったんかもなぁ。
新日以降はぁシャープな身体っちゅうのにぃ目覚めたとかぁ。
糖尿病発症した82年以降のぉ猪木はぁ実質100切っちょったっちゅう話だがなぁ。
まぁ猪木がぁ糖尿病発症せんかったらぁ展開は違っちょっただろぉがぁ。
そぉなりゃあIWGPもぉもっと大きなスケールで開催されたかも知れぬ存ぜぬだぞぇー。
でもぉ日プロ時代の動画見るとぉ猪木の体型はぁ後々とぁ違うかんな。
若かったっちゅうのもぉあっちゃるがぁー。
雪で猪木が広島入り出来なかったのも68年だった
その後、インタータッグを奪還して本格的なBI砲時代・日プロ黄金期になるんだね
全日最強タッグにハンセン乱入→馬場と乱闘は忘れられない名場面だが
インテリジェンスっぽい格好で猪木に握手を求めるブロディというのも名場面
>>24 振り返ってみれば、ブロディは、新日のイメージダウンのために全日から送り込まれた刺客、破壊工作者という感じだったな。
馬場は、新日はブロディをコントロールできないとみて、新日によるブロディ引き抜きを見て見ぬ振りをしていたのかもしれないな。
私服で登場したのは、新日では大木、上田、国際の3人、ブッチャー、ブロディ
全日ではハンセンくらいかな?
シンの場合は新日全日ともに乱入が初登場で、ハンセンの再登場も途中から乱入みたいになった。
ブロディのスーツにチェーンはインテリジェンスモンスターをイメージしたんだろうが
一番インパクトがあったのはブッチャーで、歴史が動いた感じがした。
>>25 全日に復帰したブッチャー、ブロディにブーイングはなく、歓迎ムードだったね
そしてブロディは丸くなって帰ってきた。
>>26 寺西は田コロではいなかった
あと出戻りだけど85年のUWF、87年の長州軍とか
全日本だとやはり長州達
後楽園で天龍に挑発されたときや名古屋で馬場に挑発されてリングに上がったとき
>>27 あっ、寺西はいなかったねw
75年馬場vs大木戦の前にも国際勢がリングに上がったのを思い出した。
オープン選手権参加表明だったかな
乱入ではなく、参加での挨拶なら古くは
1963年春のデストロイヤーもマスクにスーツ姿だった。
それと67年、日本プロレス復帰の猪木とか。
71年9月に初来日予定のザ・シークは前週のテレビ中継で
「来週は、シークがリング上で挨拶をします!」
と予告をしたが、来日中止。やはりスーツ姿で来る予定だったのかな?
シークの代わりにフリッツ・フォン・エリックが急遽参戦。
リング上で挨拶したが、過去に数度来日しているので、
いまさら感はあった。そしてリング上の馬場を急襲。
イベントだと全日のレトロ企画に猪木デビュー30周年(バレンタインの笑顔が最高)
馬場猪木の引退試合に鶴田引退セレモニー等かな
>>27 全日の最強タッグリーグ戦で馬場&木村組が仲間割れした試合で放送席でのやりとり。
倉持アナ「おや?誰かエプロンに立っていますね。」
山田隆「あれは元国際プロレスの剛竜馬ですね。」
ということで、エプロンには私服姿の剛竜馬がいた。
スレタイのブルクラが、72年国際に来日した時の対談(別冊ゴング昭和48年新年号)
ブル「レスラーにもふやけたヤツが多くなった。女みてぇなヤツがいるんだから
頭にきちゃうぜ!クラッシャー、お前さんの髪も少し長目だぜ」
クラ「これはな、俺のガールフレンドが長目の方がいいって言うんでこうしてるんだ」
………
クラ「日本でいいのは、女とビールだけになっちまったな」
ブル「ゼンガクレン、ノーキョウも俺は大嫌いだ。
いつでも大勢固まって行動しやがる。1人1人じゃ何もできねぇ奴らばかりだ!
日本のファンだってそうだぜ。アメリカじゃ1人で控室まで斬りこんでくる
勇ましいファンもいるが日本のファンは大勢で騒ぐだけだ。青白い顔して遠巻きにして
人の尻馬に乗ってワイワイ騒ぐなんてのはキンタマぶら下げた人間のやる事じゃねぇ!」
………
学生運動が終わった頃の日本人を見た感想だろうけど、
そんな日本にしたのはあんたらの国だろうが(笑)
日本プロレススレ
ミツヒライ親子は親子揃って性格悪いんだな
藤波が猪木の付き人だからあんま試合組まなかったらしい。
なんで猪木が嫌いかと言うと出戻りのクセに自分よりだいぶ上の序列だったからという人間の小ささ(笑)
大谷とパンチ佐藤を比べるようなもので猪木とヒライではモノが違うと言うのもアホらしいほど比較にならないのにな。
動画でぁ第二回オールスター戦実現寸前話をぁ拝見したぞぇ。
ありゃあかなりぃ勿体ないかんな。
そんな事でぇ開催でけなかったっちゅうのぁ驚き 桃の木 アゴ猪木
あん時開催でけちょったらぁかなりぃ盛り上がったのにぃ。
馬場がぁー前向きだったっちゅうのぁ意外だったぞぇー。
馬場はぁ反対のイメージしかなかたしぃー。
そんでもぉ馬場もぉかなりぃ前向きで開催寸前っちゅうのもぉ。
まぁあの動画内容がぁ全て正しいとぁ思わぬがぁー。
82年ならぁ色んな面で良かったっちゅうにぃ思うちょるんよぉー。
それとぉ馬場と新間のぉ駆け引きっちゅうのもぉおもろかったかんな。
話合わせたぁ筋書通りのぉ駆け引きっちゅうのもぉかなりぃ盛り上がったらしいぞぇ。
「たいてい新弟子をしごくのは松岡巌鉄で、こっちが弱ってきた頃合いを見計らってしごいてくるのが本間和夫だった。
特に松岡には、えげつないイジメを散々されたものだ。バトルロイヤルで松岡巌鉄にブチ切れたのでパンチを入れていると
止めるどころか「もっとやれ!」と焚きつけてくるのがミツ・ヒライ
(日プロに入団するはずの)草津が来ない。合宿所に1本の電話がかかってきた。
『おお、俺、草津だけど、金がないから送ってくれるように事務所に言ってくれ』
非常に偉そうな物言いだった
ミツ・ヒライ「おい、今、草津の野郎から電話がかかってきたんだけど、あの野郎、ナメてやがる。
あいつが来たら、ソウヅケ(ボコること)にするぞ。わかったな」
ヒライの印象はあんまないけど、若手レスラーのブッキングを任されていたらしい。
まぁBIの先輩だし、特別猪木嫌いだから藤波の試合を組まなかったというより
相撲上がりのガタイのイイ若手が揃っていたからじゃないの?
まだ少年の藤波は、なかなか太らない体質だし、潰される危険もあったし
あと、何故かデストロイヤーがヒライを評価してたらしい。
Wリーグに何回も出てるし、NWAタッグリーグには第1回馬場、第2回大木と組んで出場
第3回に永源と、急にランクダウンしたけどw
>>35 出戻りの前から入門はヒライの方が2年先輩だったが、
猪木の方が目を掛けられ、ワールドリーグ出場(62年、
海外遠征(64年)も先だった。
猪木もそういうヒライの嫉妬を感じていたのかな?
71年暮れに改革する時は、ヒライを解雇するつもりだったという。
>>38 その話、グレート・カブキの自叙伝にあるね。
電話を受けたのがカブキ(当時・高千穂)でそれを寮長である
ヒライに告げたら「よーし!ソウヅケだ!」と(苦笑)
日本プロレスでは、BI砲はもとより大木よりも先輩なんだが
最後までタイトルを取れなかった。全日時代もなしか?
ヤフオクに吉村道明の自伝が出品されてるけど、凄いな。
1000冊限定、昭和48年当時で定価9000円。
純粋なファン向けというより近大関係者やタニマチ向けのものなのかな。
今さら王道プロレス(正統な流れをくむ?)の定義がよく分からないんだけど
馬場プロレスって海外修行時代に身に付けた
60年代アメリカンプロレスを生涯貫いていた感じがする。
猪木も日プロ時代は単なるアメプロのテクニシャンだったと思うけど
新日創ってからは、アメプロ+世間に真剣勝負に見える事にとにかく拘ったというか
それがストロングスタイル、闘魂のイメージをファンに刷り込み
カリスマ性が備わっていったと思う。
馬場の時代は、外国人レスラーよりデカイ日本人が勝ち続けるだけで通用したが
ファン心理の変化を読み取り、日本人が好むような
真剣勝負風にアレンジしていった猪木が支持されていったのは当然だろうなぁ
ヒライだけしっかりとした実績
>>43 リングサイド3000円で今で言えば2万5000円くらいでは!?
50年前の4月3日、日本プロレスが馬場のNET登場を解禁
ワールドリーグ新潟大会の馬場&坂口vsマードック&ブルータス戦が中継された。
そもそも69年にNETと契約した事が、BI対立に拍車をかけたんだよね。
エース馬場を放送できないNETは、No.2の猪木を馬場と同格にするよう日プロに求め
ワールドリーグ優勝、UN選手権獲得、NWAタッグリーグ連覇と
急速に猪木の実績作りを行った。
野心家の猪木をその気にさせたのはNETなんだよね。
>>42 やっぱり力道だろうとBIだろうと強い外人を迎えうつという図式が要る
馬場も日プロ時代はピンフォール二つとって防衛なんてほぼなかった
ただ独立して差別化しようとしたのか多くの外人にピンフォール二つで
勝負をつけてしまってもう目標やミッションがなくなったのが間違いだったんだろう
ブラジルキニスキーエリック、もう勝ってしまった相手に防衛戦っても客は
また勝つなら観なくても応援しなくても、と思うよ。
ざっと馬場のインター防衛戦の記録を見ると、
初来日の強豪、(キニスキー、エリック、サンマルチノ、コックス)
当たりは引き分けか、リングアウト、反則勝ち防衛だね。
次回も、インター戦を組むために2フォール勝ちは出来ない。
それで2回目も3回目も、日プロ時代は完全決着がなかった。
逆に、A・ネルソン、I・コロフ、S・アリオンあたりには、ちゃんと
2フォール奪っている。もうこのクラスは、次の挑戦はないと
判断されたんだろ。C・マルコフは、反則勝ちとファールのステレート勝ち。
3本勝負ではなく時間無制限1本で、負けたのが昭和44年のフレッド・ブラッシー、
彼も、もうインター挑戦はなし、ということだろう。
43年に再来日で時間無制限1本で早々とフォール負けしたクラッシャーも、
もう御用済みだったのかな?43年の来日はブルーザーとのコンビとは言え、
インター挑戦はなかった。
>>46 >>47 立ち向かう姿、挑戦する姿勢にファンは共感するからね。
ところが馬場は60歳 猪木は50過ぎてまで現役を続け、プロレス界を支配してきた。
これが良くなかった気がする。
(実際に支配していたのはテレビ局だが)
老体を晒してまで現役を続けなくても、40前後できっぱり引退して
鶴田なり藤波長州等に託していれば……
考えてみると力道山は30代後半、初代タイガーマスクは20代半ばに
強烈なインパクトを残したまま消えているし
馬場と同時代に全盛を誇った大鵬や長嶋も30代で引退しているが廻っているんだよね
まぁプロレスが特種なジャンルだから可能なことなんだけどw
エリックはレスラー業を引退してプロモーターに専念したが馬場はそうしなかった
馬場夫妻に息子がいなかったのが原因とされている。カネだけでなく権力に固執したかった
>>48 馬場は昭和50年前後猪木は57年くらいに引退すべきだったね。
昭和50年だど流石に日本プロレス至上有数の逸材鶴田でも荷が重いか…
57年の猪木だと藤波長州がいて前田高野谷津平田が控えてるから何とかなったと思うが。
>>49 馬場に息子がいても、エリックのようにレスラーにしてないだろうな。
百田を見てるしねぇ〜
ヒライの息子も大成しなかったし、柴田ができた方かな?
巨人症は遺伝しないので、馬場の魅力が減じる。
元子もやたら高身長なので実子の背が低くなるとは思えないが
ジャイアント・ババ・ジュニアは190pくらいだろう。
>>50 そのくらいの時期に馬場が引退していたら、ホントにサムソンクツワダに乗っ取られていたかも
馬場の家族の体格は普通だったらしいね。
馬場に息子が産まれても、そうはデカくなかった
かも知れないが、元子譲りのキツイ性格で
プロレスラー向きだったかも。
馬場家が養子をとらなかったのはなぜだろうか?
噂される大仁田とか選手引退してさようならになったのは何故?
フロント入りすればいいだけの話だと思うんだよね。
>>56 大仁田が断ったんじゃないかな。
金持ちだし全日オーナーにもなれる可能性が高い等メリットもそりゃあるだろうがやはり馬場夫妻の息子になりたいかと言われたら誰しも二の足を踏むでしょ。
養子じゃないがサイモンみたいな例もあるし
実子だったらオケとはならないけど養子はどうなんだろうか
レスラーはうまくハンドリングできてもテレビとかは?
馬場厚でも馬場健太でもなんかしっくりこないねえ。
>>56 馬場は大仁田と三沢に声掛けてるけど2人に断られて断念したんだろう。
仮に馬場ジュニアがいてプロデビューしたとしても
オヤジの名前がデカ過ぎるし、キャラが強すぎるから
全く別タイプのレスラーを目指すしかないねw
違うタイプか……
ラッシャーみたいな感じだと面白いが、なんとなく田上っぽいかなあ。
>>49 馬場は猪木と違ってプロレスが好きだからな
猪木は若い時からプロレスなんて一生の仕事じゃないと割り切り
政治家や実業家になる野心家だった
馬場が出ないと不満を感じる客がいたから馬場は試合をしてた部分はある
権力とはまた別だと思うけどね
そもそも長生きできないと思っていたから早々と引退して
ハワイで余生を過ごすつもりだった
>>60 >オヤジの名前がデカ過ぎるし、キャラが強すぎるから
>全く別タイプのレスラー
百田光雄だな!
>>60 しかしイノキナオトってのに何となくプロレスラーとして
期待しちゃう自分がいるんだけど
>>62 猪木長州前田はプロレス好きじゃないね。前田はともかくそれでも仕事となると自分に厳しく真面目。
思ったのは3人とも入門時までプロレスファンじゃ無かったッテのは大きいだろうね。
猪木の場合本人かゴーストか知らんが少年時代からのプロレスラー志望なファンだった様に偽装した時期もあったがね。
ブラジル時代はいきるのに必死でそれどころじゃ無かっただろう。
こう言いつつも私は猪木のブラジル時代は言うほど過酷では無かったのではという気もするがね。
>>54 鶴田祐士氏に期待してたんだけどなぁ
顔なんてそっくりだし、身長もそこそこあるし、、何で映画監督なんだよw
LEONAと絡んで欲しかった。
顔が似てるってのは期待ポイントじゃないと思うけど
レオナにしてもそうだが鼻が…
息子が親父超え
ファンクス、ニック、マードック、ジョナサン、オートン、デビアス……
超えられなかった息子
サンマルチノ、キニスキー、ガニア、百田、坂口、藤波、マシーン……
息子が親父超え
ランディー・サベージ>アンジェロ・ポッフォも
ケリー・フォン・エリックは親父(フリッツ)も
取れなかったNWA世界王者になったが、越えたかどうかは微妙だね。
カート・へニング(元AWA王者)とラリー・へニングの関係も。
ドス・カラスの息子はどうなんだろう なにしろ久しくプロレス見てないし
エディ・ゲレロもそうかな
ルチャの場合2世など腐るほどいるし外国での成功が判断基準のひとつかも
>>65 あの体型で「自分に厳しく真面目」は絶対ない
デカくてコワくて貫禄があるプロレスラーは、80年代前半でほぼ絶滅した気がする
(以降もポツポツは出現したが)
線が細くなったというか、カッコよくなったというか、、
あと、世界王者がコロコロ代わるのもどうかと思うなぁ〜
最低3年、ブルーノなんて8年保持して権威を保っていた。
上の人も書いてるけど、ケリーやカート、デル・リオは、実績で親父を超えてるけど
昔の"らしいプロレスラー"のイメージじゃないんだよな
大谷事故の記事を見て、アンドレのツームストーンで頸椎損傷になり
再起不能と言われたターザンタイラーを思い出した。
タイラーはリハビリ後に復帰できたが、無理しないで引退して欲しいよ
三沢や高山柴田と、頭部への事故が続いているから恐ろしい。
ノアや旧全日でこういう事態ぎ頻繁に起こらなかったのは奇跡だな。
それを三沢が一気に貰い受けちゃった感じだけど。
馬場は殺人魚雷戦でコーナーに振られた時
背中を変な打ち方して動けなくなった事があったな
>>77 受け身の取りそこない、といっても90年代の馬場は脚がついていってなかったし
SWS騒動で大量離脱の心労も重なった時期かな?
日プロ時代もAトーレスのドロップキックで失神(アングル?)とか、
吉村がKKコックスの垂直落下ブレーンバスターの餌食にあってたな
>Aトーレスのドロップキックで失神
フライングヘッドシザースだったわ。
>>77 「明るく楽しく激しいプロレス」とか言って、自分は「明るく楽しく」担当とばかりに、前座で悪役商会相手にコミックプロレスの6人タッグやっていたのに、大量離脱で無理矢理メインに出たら、他のレスラーの動きについていけなくて醜態曝したよな。
鶴田がインタビューで「裏切るより裏切られた方が良いじゃないか」
と、馬場に諭されたと語っていたな。
それは諭すという面もなくはないが
ほぼ愚痴じゃない?
>>83 一応、天龍も筋を通してるから愚痴ともいえる(笑)
まぁ、プロとして当然の選択だと思うけど、もし同じ条件で新日に誘われていたら
そこは流石に天龍も断るだろうね。
坂口体制で良好な関係だったから有り得ないことだけど
天龍、おまえまさかメガネには行かないよな?
社長ただの噂です、デマです。行きませんよ----。
これ言ってたら「騙された」だろうけど、天龍は騙してないよね?
あって答えの言葉を濁したぐらいだろ。
>>82 それはサムソンクツワダに唆されて全日離脱し新団体設立しようとしたときじゃないのか?
>>85 >>82 これに関して言えば天龍が出るのは承知してたけど、その後にボロボロと抜け出して大量離脱になる想定外の事態になったこと。
それに馬場が参った時に鶴田に言った言葉だと思ったけど。
天龍自身も全日本新日本と節操なくこいつも来るの?となって想定外だったとか…(天龍はコロコロ変わるからあまり信用出来ないんだけどね)
んで裁判沙汰になってメガネが開き直って引き抜きしますと口外してたような…
>>86 過去にそれがあったから、鶴田に対する皮肉にも聞こえる(笑)
>>87 あぁ、確かそうだったよね。
なかなか馬場は良いこと言うなと、当時は単純に思ったもんだが…
他にも馬場語録では「怪我するレスラーは二流、怪我させるレスラーは三流」とか
「身体は鍛えてきているが、基礎を教えてもらった事がないんじゃないのか」とか
「シュートを超えたものがプロレス」とか、妙に納得できる事をボソッと言ってた。
中にはライターの存在もあるようだが、猪木語録より少ないと思う。
>>88 馬場語録だと「この世界のトラブルは全てヤキモチから産まれる」ってのがリアル
大抵は「なんであいつより俺が下なんだよ?」から始まるからね
昭和40年代のプロレス雑誌って前は3500円とか5000円したんだがいま寧ろ千数百円で買えるんだな・・
普通は古くなればなるほど値段は上がるんだがね・・
>>89 馬場語録ではプロレス界以外でも結構使われる「男のヤキモチは手に負えない」もある。
けれどコレの出典がよく判らなくて「この世界の〜ヤキモチ〜」を元にライターが作った引用した様な気がする。
>>89 >大抵は「なんであいつより俺が下なんだよ?」から始まるからね
境遇の悪かったレスラーは、何故そうなったのか考えもせず他人のせいにする。
49年前の今日、池上本門寺でギブアップ宣言した残党の中にもいる。
力道山は自らの後継者について、違う待遇をしている馬場と猪木をじっくりと見ていた。
側近の1人だった岩田浩氏は
「力道山は二人をスターにしようとはっきりと考えていましたね。
ちがうタイプのプロが張り合って、お客を巻き込んでいく。
そのために二人がライバル心を燃やし合うことを黙って見ていました」と語っている。
二人の性格の違いや年齢差を考えた時、馬場から猪木への移行は規定路線として
力道山の頭の中には出来上がっていたんだろうな。
>>94 馬場が海外遠征で稼いだ莫大なドルを借金して結局、踏み倒したらしいね。
裁判にもなりかけたが、正式な証文を受け取ってない馬場側が泣き寝入りしたとか
馬場を日本へ引き留めるため、日プロが立て替えたんじゃなかったかな?
力道山が急死してしまったから、百田家は苦労したそうで
不動産の形で残ってた遺産は買いたたかれて、残した借金に長年苦しめられた
日プロ経営陣は美味しいところだけ頂いて援助等せず
>>96 百田義浩が成人したら日本プロレスの社長を譲ると言う約束をバックれたんだよね>日プロ経営陣
この世界は口約束なんて通じないけどね
力道山の死後に社長になった敬子さんを、負債逃れ?のために追い出したんだよね
(それにより敬子夫人の次の社長は長男義浩とする約束をダラ幹が反故にした形に)
その時に、敬子夫人が同じ会社名の日本プロレスを登記したからややこしくなってるw
代官山と赤坂にふたつの日本プロレスが存在していた。
>>97 口約束が通じないどころか。
契約書や念書があっても、紙切れ一枚で……なんて居直る奴が出てくる世界なんだよ
>>99 しかもそれを言ったのが契約社会のアメリカで飯を食っていたマサ斎藤なんだから
他の連中はいかに酷いかわかる
馬場は「プロレス関係者に口約束は通用しない」と身に染みてわかっていたので
レスラーを契約固めにしていたんだろうね
ジャパン・プロ分裂でもSWS裁判でも契約固めが物を言った
ハンセン著『日は、また昇る。』の中で
「私が全日本に復帰したとき、最初に3年契約を結んだ。だが、3年後からは
引退までずっと契約書などの書面を求める必要はなく、馬場との握手だけで25年間
私は全日本のリングに上がり続けた。その間ギャラに関してのトラブルなどは一切ない。
お互いに信頼関係があったから、握手ひとつですべてが成り立っていた」とも語っている。
その話を昔はほほぉと受け容れていたが
今思うと契約条項に双方には
双方に異議なければ自動更新する、という文言があったんだろうな。
>>102 そりゃそうだろうな(笑)
ただ、馬場については一緒にやれたことは本当に良かった、幸せなことだった。
馬場から「Don't worry」と言われればすべてが解決し、リング上でも前向きになれた。
と、プロモーターとしては一番信用してたんだろうな。
>>101-103 プロレス界屈指の常識人のハンセンだから通用した事だろうな
馬場は著書で
「ハンセンは良い意味でのヤンキーだ。契約を完了させれば後から金の事は何も言わない。
外人レスラーには客入りが良いとボーナスを要求してくるのがいるが、
ハンセンはそういう事は無かった。契約を終わらせればサバサバしていた。」と書いていた。
広告とかデザイン業界ってちょっと変で
仕事を頼んでできたはいいが、いいものができたから○○円で頼むって
言ってくる。こちらが頼んだ金額の2〜3割増しだったりする
値切られないようにかもしれないし
たまたま変な業者に続けてあたっただけなのかもしれないが困った慣習だと思う
流星仮面も新日とは握手だけで関係続けてたと語ってたな。
>>107 ハンセンから「全日に出場しないか?」と誘われたが断わったと言っていたね
M・スーパースターもハンセンもプロレス界屈指の常識人
普通に考えて何の契約も無しに商用ビザが取れるかっつーの。
緩い時代だから羽田空港で「sightseeing!」とでもハンセン等が言ってたっていうのか?w
普通に考えて手続きは団体側がやってたんじゃないの。実務がどうなってたのか
なんか知らないけど。
団体を信頼して任せてたって意味だろ。
>>110 契約に関しては102の人が書いてる通りだと思うし、自動更新の話はどこかで見たなぁ
ハンセンやスーパースターは、団体と信頼関係を築けた常識人だと思うけど
ブッチャーなんかは特別ボーナスをせがんだクチ...
>>94 力道への金銭的恨みが、全日社長時代の守銭奴振りにつながっていったんだろうな。
外国人レスラー(外面)には良かったけどね
守銭奴はひどいと思うが……
がめつくないし、ケチでもない、シブチンだと思う。
なんだっけ関西でいうよね。がめつい大阪、ケチな神戸、シブイ京都、だっけ?
ブッチャーは確かいつもシリーズの終わりに馬場が「次はいつ来てくれ」と
言うのに言わなかったから最後なんだと気付いたとかいう事を言ってたな。
出戻り後の事なんだろうかな。
>>115 ブッチャーが川崎市体育館に登場してIWGP参戦表明したということは
新日も当初はそのつもりだったんだろうな
でっち上げたベルトまで返上したんだから。
"世界一を決める"なんて大風呂敷ひろげたのに、通常のMSGシリーズみたいになって
MLB(NWA)に対するWBC(IWGP)みたいな胡散臭さを感じる。
当時の新日外人にあとロビンソンかドリーでも加えたら
IWGPは名実ともに世界一決定戦といっていい陣容だったと思う。
少なくとも馬場全日がやったオープン選手権よりも強いイメージがある
レスラーが揃っていた。少なくとも旬なレスラー達。
ただ彼らが一同に会して戦う風呂敷がだんだん小さく畳まれていったのは
惜しかったな。なにか足踏みしているウチに商売優先になってしまったのかな。
第1回IWGPはシリーズとして大成功で、今なお新日の看板タイトルなんだから、IWGPは大成功なんじゃないの。
世界中のベルトを統一するはずだったのに第3回がIWGP&WWFチャンピオンシリーズになったのはどうなの?て感じだった。
>>119 ハンセンがいて、アンドレ・ホーガン・ボック・ブッチャーが揃うと思っていたからなぁ
猪木の集大成的な大会を煽っていたしね。
ニワカにはタイガー人気もあったから、興行的には大成功だろうけど..
>>111 「カジセンセ、ミーにもブロンズ(像)チョーダイよ」ってアレですね
オープン選手権は興行的にどうだったんだろう?
地方の発表数だけ見るとIWGPより多いけど。
主催者発表は主催者発表なのであれだが超満員なのは米沢くらいで
馬場ドリーの天王山(といえる)対決なのに超不入りの鈴鹿や
満員じゃないんだ? な最終戦の川崎……。
全日は70年代後半から80年代前半あたりまで経営不振が続いて
日本人レスラーに現物支給やってたらしいが、
このオープン選手権のギャラが引き金になったのかもな
>>126 1974年のNWA世界王座奪取と、翌75年のオープン選手権開催を契機に、新日との差別化を図るため、米マットで格付けの高い外国人レスラー招聘に金をかける方向へ傾斜していったからな。
問題は、大枚叩いて呼んだレスラーがファイトマネーに見合うほど観客動員に寄与しなかったという点だね。
加えて、肉体的な衰えから馬場メインのシングルマッチが盛り上がらず客が呼べない、大物外国人レスラーに忖度し格付けを無視してまで鶴田をエースに押し上げられないといった事情から、外国人レスラーによるベビーフェイス・ヒール抗争をメインに据えざるを得なくなったよね。
この間、サムソンクツワダが鶴田を引き込み新団体旗揚げを企てたと言われているけど、こうした事情が遠因になったのかな。
観客動員力、視聴率でつねに優位だったのは新日本で
80年代初頭までに勝敗はついていたよ。
全日では、馬場の経営能力に業を煮やした日テレが社長を送り込み
馬場から鶴龍を看板にする改革が始まる。
ここで一気に、新日が全日を叩き潰すかと思われたが
ハイセル事業の失敗でクーデター勃発。新日は、配下のレスラーたちが去っていく時代に..
その頃から馬場と猪木は水面下で接近していたが
それはBI対立時代の終焉といっていいのでは?
猪木がアリ招聘のため使ったカネに比べたら、馬場のアメリカ人レスラーへのギャランティなんて微々たるもんだわw
全日のバワイはぁ最強タッグでしか優位にゃあなれんかったかんな。
新日はぁ年末のタッグリーグ戦にゃああんま力をぉ入れちょらんかったしぃー。
それがぁ全日にゃあ幸いだったぁ?
まぁ馬場はぁ蔵前でぁあんま興行せんかったぞぇー。
赤字を懸念しちょったっちゅう。
正直入る自信がぁーなかったみたいだしぃー。
だからぁ最強タッグ最終戦はぁ蔵前がぁ定番だったかんな。
でもぉカードによっちゃあ蔵前でもぉ入ったっちゅうにゃあ思うわぃ。
蔵前でやらんのぁ勿体ないっちゅうカードがぁ地方で組まれたりぃ。
新日のバワイはぁ猪木っちゅうより新間がぁー蔵前乱発しちょったぞぇ。
80年代前半はぁ新日の蔵前でのぉ興行回数はぁ多かったしぃー。
新間はぁかなりぃ強気だったかんな。
しかもぉ新日ゃあ蔵前をぁ毎回超満員にしちょったしぃー。
こぉゆぅのがあって新日もぉ『新日ブーム』っちゅうにぃー言うちょったんよぉー。
でもぉMSGタッグだきゃあ不評だったかんな。
ありゃあ最初だけだったぞぇー。
後半はぁ惰性でやっちょる様にしかぁ思えんかったしぃー。
あれじゃあ最強タッグにゃ勝てぬ存ぜぬ だぞぇー。
馬場が全日旗揚げした経緯からして、
日テレがそう簡単に全日を見捨てないので
新日が全日を叩き潰す、なんてあり得なかっただろうけどな
当時の日テレは読売新聞と巨人のバックで盤石だったし
オールスター戦の後、BI対決やって、
馬場に億の金払って新日が全日を吸収って話も日テレが反対したんだろうし
>>131 >馬場に億の金払って新日が全日を吸収って話も日テレが反対したんだろうし
日テレが反対したのか、元子に反対されたのかは不明だが
猪木提案の馬場に一億円ファイトマネー話は
日テレとの契約更改(10月)の時期で、馬場は引退しようと考えていたんじゃなかったかな?
そんな時にテレ朝の栗山Pから話があり、自分が辞めたら
日本テレビも放送を続けるかどうか分からないし、全日が消滅しかねないと
だったら新日が全日を吸収する形、もしくは全日を発展的解散に出来ればいいと
バックのテレビ朝日さえしっかりしていれば
馬場は最後の花道としてBI対決を受け入れるつもりだったんだよね
>>128 意外にも新日本プロレスは旗揚げ1年目の昭和47年で観客動員数4団体中1位
テレビがつかず閑古鳥が鳴いていたというのは嘘らしい
中にはそういう会場もあっただろうが
>>133 それは意外だな。
昭和49年の猪木小林戦まで、プロレス業界は不況だったってのは聞いた事ある。
>>133 確かなデータはあるのかな?
(あっても主催者発表だしな)
だって、新日は3月からスタートだろ?
10月旗揚げの全日はともかく
老舗の日プロだって、都内で東京都体育館、田園コロシアム、
蔵前とビッグマッチを打っている(超満員にはならなかったかも知れないが)
72年の新日は10月の猪木対ゴッチの蔵前決戦のみ。
あとは地方の試合で、その時の館内写真をみたことがあるが、
やはりガラガラだった。
ちなみに、1972年、各団体の年間試合数は
日プロ=156、国際=123、新日=103、
全日は2シリーズだけだから30
単純にカウントして、新日は、全日の1.5倍以上、動員しなければ
観客動員数4団体中1位になれないわけだが?
日プロは、夏までは馬場(と坂口)と、豪華外人も揃っていた。
秋以降は坂口一枚看板で観客数も減ったとは思うが。
トータルで新日に負けたのかな?
ノーテレビ時代の新日はゼロ1つ余分につけて発表してると言われてたからな。
>>136 訂正
×新日は、全日の1.5倍以上、動員しなければ
○新日は、日プロの1.5倍以上、動員しなければ
追記すれば、いち興行あたりの動員数が、ということ。
>>136 猪木、馬場が離脱した後の日本プロレスは、後楽園ホールでも不入りだったからね。
後の第一次UWFについて前田が「興行だけなら完全な黒字だった」と言っていたが
それでもTVなしだとやっていけなくなって新日と提携したがそれに近いんじゃね
坂口によると猪木は日プロの合併話の時に芳の里の会長就任もOKしたそうなので
そこまでしてTV中継が欲しかったはず
海賊男やTPGの様な糞アングルも10%位まで落ちていた視聴率を上げる為でその根本には
「TV局に見放されたら国際プロレスの様に潰れる」という恐怖があったのではと指摘されている
>興行だけなら完全な黒字だった
じゃあ、なにで赤字になっていたんだろうか、よくわからんのだが。
選手やスタッフの月給のことか?
>>135 ミック博士昭和プロレス研究室の中の
シリーズ日プロ崩壊への軌跡4「猪木と坂口が握手!新・日本プロレス誕生」の文中に
『この時日本には四団体がひしめき合う戦国時代……一方の新日本は
観客動員こそ一番ましだったがテレビ局が付いておらず設立一年目にして
財政は困窮の度を深め……』と書いてあるな。
これ関係ない情報だけど、明日26日の13:00〜13:30
徹子の部屋 スターたちの美と健康の秘訣
〜ジャイアント馬場さん・浅香光代さん・森光子さん・榎木孝明さん…
>>139 >>143 うむ!全日はともかく、興行数で20も、50も
勝っていた老舗の日プロ、国際が新日に観客動員数で
押されていたのか!?ちょっと情けないな。
まぁ主催者発表だがね。ミック博士にしろ実際に試合会場に
行ったわけでもないだろうが。観客数サバ読みは他団体も同じか?(苦笑)
新日は、72年には、10月4日に蔵前でゴッチとの世界戦→9日広島で
レッド・ピンパネールとの初防衛戦→10日、大阪でゴッチとリターンマッチ
(奪還される)しかビッグマッチを行っていないよね。
あとは、リップ・タイラーとかジョニー・ロンドスあたりをエースに持ってきて
話題性もなかったんだが、やはりテレビに映らない猪木を見たい!というファンが
多かったんだろうね。
第二次UWFが上手くいったのはハウンド・ドッグとか音楽業界の人と付き合いがあって
興行で儲けるノウハウを吸収したからだとか
永ちゃんなんてLIVEでタオルを売って借金35億を完済したって言われてるしね
>>145 旗揚げ戦は満員マークが付いたが、シリーズ通すと不入りが続いたみたいで
ゴッチへ支払うギャラも3戦分しか無かったようだね。
それが4団体一の観客動員力とは、よっぽどプロレス人気が冬の時代というか…
藤波なんかは、選手もチケットを売り歩いたと語っていたりもした。
結構、倍賞姉妹の協力があったのかもしれない。
https://news.yahoo.co.jp/byline/kiyonoshigeki/20220225-00283305 >>145 大阪府立は5月にも、広島県立は8月にも行っている。
8月は愛知県体でもやってる。
どれも大して入ってないだろうが。
1972年
Kゴッチ、Rピンパネール、Jドランゴ(Bアームストロング)、Eサリバン、Rタイラー
Sリーガン、Bボイヤー、Wブリッジ、KVストロハイム…
1973年坂口加入迄
ザ・タイガー(後のキウィズの片割れ)、Tチャールス、Jポーツ…
後々わかったけど、72年にはカマタの実弟コーア・ティキとか
ポーク・チョップ・チョイスに改名するボビー・キャッシュなんかも参戦している。
しかし、日本で名のあるレスラーが数人しかいなくて よく一年もったもんだ。
このメンバーを見てきたらKKクラップなんか大物だわな〜。
インタータッグ元王者だし、青銅の爪だし。
ゴッチ以外にニックネーム付いてるレスラーほぼいないじゃん。
団体の観客数は、結局、主催者発表を信じるしかないのだが、
発売中の「Gスピリッツ」は、ちょうど「ノーTV時代の新日本プロレス」、
藤波へのインタビューで
インタビュラー「旗揚げ9戦目の秩父宮大会は、発表では観客1500に
なっていますが、実際は50人だったとか?」
藤波「50人も入っていなかったんじゃないかな?会場入りした時、
ひとりもいなかった」
ゴッチ、ドランゴ兄弟、Iカマロフ、Eフリオッソ、Iペルアーノ、Bキッドでスタートした新日
それに比べ全日は豪華版だね。
ブルーノ、シニア&テリー、ブラッシー、Dデヌーチ、Dサベージ、Jコザック
旗揚げから'75年12月11日と同じ構図になってる。
ゴッチも、前年71年に国際プロレスのワールドシリーズに
参加して、まだ現役で出来るぞ!ということをアピールしたから
旗揚げシリーズ、その後の世界選手権でも王者として参加できた。
あの国際への来日、ロビンソンとの対決がなければ6年ぶりの
試合となり、その当時の若いファンは「ゴッチって引退して
日プロのコーチをしていて、その後、ハワイでゴミ清掃していた
というぞ!?試合できるのか?」という雰囲気になっていただろう。
ゴミ清掃員どころか、国際参戦後にはNYでWWWFタッグ王者になってるもんね(笑)
しかし、第3回IWAワールドシリーズのゴッチ・ロビンソン・ロシモフに加え
海外修行中だった小林の4人は皆、猪木と日本プロレス史上に残る名勝負を行っている。
全盛期に成りつつあった猪木の、プロレスラーとしての力量の凄さというかね。
>>150 新日のノーTV時代に来日した選手で過去に日本でタイトルマッチをしたのは
以下の選手くらいかな?
○トニーチャールス
1969年4月月、国際、英国西部選手権を賭け(当初王者)G草津と3度対戦
翌69年6月には、草津の英国西部南部選手権に挑戦。全敗。
○イワン・カマロフ
1965年1月、日プロ、アジアタッグ(with S.ゴーリキ )VS豊登&馬場
この時のカマロフと新日に来日した同名の選手は別人説もあるが、
同一人物と見なして。
○レッド・ピンパネール(アベ・ヤコブ名義)
1967年1月アジアタッグ(with ミスターアトミック)VS吉村&大木
○ジョン・コワルスキー(ジョニー・コワルスキー名義)
1970年7月、国際IWA世界タッグ(with J・ラサルテス)VS杉山&草津。
尚、k・ゴッチは、1966年日プロ夏、馬場のインターに挑戦予定だったが
負傷のためキャンセル。
まぁゴッチ以外、シリーズのエース格はいなかったな。
今日は、新日事務所に日本刀を持って嫌がらせに来たグレート小鹿の傘寿80歳の誕生日
どこまで本当の話なのかと思ったら、結構有名なエピソードだってね。
後に、小鹿藤波の双方が証言しているが時系列に違いがある。
藤波は、72年新日旗揚げ間近かと言い
小鹿は、73年日プロ残党が全日に合流する直前と言っている。
日本刀話でもうひとつ。
大木が「猪木と坂口を結びつけた原因は芳の里にもある」となじった時に
日本刀を準備して食ってかかったのが高千穂といわれている。
なんせ高千穂は、芳の里が会社の金を持ち出して銀座で豪遊していた話も信じていなかった。
>>157 例の熊本旅館破壊事件でも全然証言食い違うからな
その場にいなかった古舘まで臨場感たっぷりに話を披露する始末
人の記憶はアテにならない
まして50年前の話だしな
>>153 全日も、サンマルチノとテリー以外は、ギャラがかかるだけで大したことはないメンツなんだけどな。
>>156 73年NETが放送開始とほぼ同時に、目新しい謎の男シンを
センセーショナルに売り出したのが良かったね。
猪木が嫌っていた遠藤幸吉もロスマット(マイク・ラーベル)とのパイプがあり
それ繋がりでビンス・シニアとも提携できて、74年にはビンスがアンドレをブッキング
この動きに心中穏やかでない馬場は、Gモンスーンを通して
サーキット中の鶴田をMSGへ出場させ、第2回カーニバル後にMSGシリーズを開催
シリーズ後には、自ら10年ぶりにMSGに出場して新日を牽制したんだよね。
この辺りの新日と全日の駆け引きも実に面白い。
ハッキリ言って馬場が猪木と手が合うレスラーだろうが自分で抱え込むから多くの夢の対決が失われてしまった。
全日は全日で我が道を行けばよかっただけだから企業防衛でもないと思う。明らかに猪木に対する悪意や嫌がらせが大半だったろうね。
1975年には新日本がNWAに加盟したね、新間と坂口が会員だっけ。
>>163 72年設立した全日は、翌年あっさりとNWA加盟が承認され正式メンバーに
対する新日は、73〜74年の2年続けて申請するも却下
75年8月のNWA年次総会で、猪木名義でなく坂口と新間連名による個人加盟が認められた。
しかも年度中のNWA世界ヘビー級タイトルマッチは全日に限られる事と
レスラーの奪い合いをNWAメンバーとしない等の条件付きだった。
よって加盟後も、新日に来る外国人レスラーの顔ぶれは変わることなかった。
日テレって全日に資金援助とかガンガンしてくれたらしいね。
それがあったからあれだけの外人を呼べた面もある。
国プロでも3000万円投資しての外人テコ入れ作戦があったがテレ朝が新日本の外人獲得を支援とかは聞いた事ないね・・
資金援助って放映権料とは別にって話?
日テレとテレ朝、それぞれ年間どれぐらい払ってたのかもわからんからなあ
まあテレビ局としては当時、日テレの方がNET/テレ朝より資金力あっただろうけど
馬場が猪木に負けて新日が全日を合併って話も日テレとテレ朝との企業規模差を考えると
その点だけでありえないと思うわ。
いくら当時の物価にしたって1億円で負けて引退、団体も実質譲るっていうのがね。
桁が1個違うんじゃないのかな。
当時でも真男国は別にして夫婦で1億以上は稼いでいたんじゃないかな。
負けて引退なんて年収の10倍くらいじゃないと割に合わないと思う。
いくら当時の物価にしたって1億円で負けて引退、団体も実質譲るっていうのがね。
桁が1個違うんじゃないのかな。
当時でも額面は別にして夫婦で1億以上は稼いでいたんじゃないかな。
負けて引退なんて年収の10倍くらいじゃないと割に合わないと思う。
>>168-169 その話はテレ朝の栗山しかしていないし信憑性は低い
「そういう話を持ち掛けたが断わられた」位の事だと思う
そもそも現実化しなかったわけでね
猪木の借金の額を聞いた馬場が
「おれはその金を今すぐにこの机の上に現金で集められる」と言ったほど
資産に差があったわけで人一倍メンツを気にする馬場が
一億円ぽっちで負けを飲むわけがない
資産の差を考えれば猪木が
「馬場さん、負けブックを飲みますから私の借金を肩代わりしてください」と
持ち掛ける方が自然な流れだ
>>168-171 まだ日本には億万長者という言葉が存在していた時代でありバブルの10年ほど
前の日本って時代背景をお考えになってるんだろうか?
まだ週休1日で日本があくせくと働いていた。
法人税も50%近くあり、個人所得に関しては所得税80~90%って時代は
1億年収があれば長者番付のトップランクに入れても
残る手取りは1割って時代に資産なんて大して残せるわけがない。
全日とて1回目の不渡り出して全日は潰れると外人レスラーたちは思ってたくらいだよ。
馬場に当時10億以上の資産があるわけがない。
1979年と現在との貨幣価値はせいぜい倍くらいしか変わらないだろ。
>>173 庶民の貨幣価値と上流階級では話しが違うのよ。
ゴッチャにしてる時点でお察しですわ。
1億稼いで1千万しか残らない時代と
100億稼いだら50億残る時代は
年収にして100倍、課税後で500倍違うのだね。
馬場の資産については前田が最近こんな事を言っていた
前田日明「ジャイアント馬場さんは間違いなくキャッシュで30億以上持ってました」
https://yamaitachi.com/archives/21501 なんで前田がというのがあるな
噂で聞いていたとか十分あり得るけど
東郷とアトキンスにピンハネされる。
税金払う。米国から日本への外貨持ち出し。力道山に貸し出す。
馬場にいくら残るっちゅう話ww
真面目な話、72年に30億の資産があったら働かんだろうよ。
当時なら残高補償の定期預金や定額預金だって10%くらいは利子付いただろうからな。
働かずして年収3億だよ。落合が年俸1億超したのが86年だからな。
>>174 言ってる意味が分からないが?
物価が上流のと庶民とで違うのか?上流と庶民とを分ける明確な境目が
公にあるのか?
貧乏人にとっては1億円は大した事ないが、金持ちにとっては累進課税がキツイから
大金だということを言ってるのか?
>>171 確かに栗山満男氏しか言ってないんだけど、生々しく詳細に書かれている。
馬場は「新日本プロレスからファイトマネーとして受け取る事自体に不安があります。
それに全額受け取っても半分ぐらいは税金で持っていかれてしまう。
そこでファイトマネーとして一千万円ぐらいは仕方ないが、残りの九千万円については
私がテレビ朝日から借り入れして、5〜10年で返済するという形が取れないか
これを至急調べて返事を頂きたい。」そして
「全ての話し合いにはテレビ朝日が同席立ち会いの下での事にして頂きたい」と
使い道を聞かれると「残りの九千万円は、ハワイの銀行に預けると
年利16%ぐらいで運用できると考えている」
まぁ、秘密裏に行われた交渉だし、決裂した話だからね。
栗山氏の創作としても面白い。
>>178 力道山への貸付は3000万だかで日本プロレスからかえしてもらってる
全日本が不渡だしても馬場の個人資産には関係ない
全日本プロレスリング株式会社の赤字は日本テレビに尻拭いしてもらってジャイアントサービスやリング屋のB&Jの黒字はそのままポッケに入れてそう
力道山が死んだ時、アメリカ滞在中だった馬場を引き留める為に
東郷とアトキンスが出した条件が年収20万ドル
当時のレートで約7000万円~8000万円
これは引き留めの為の金額だから実際馬場が貰っていた額はこれより低いとして
馬場がアメリカ行っていた期間が合計で2年半ぐらい?
メインイベンターになるまでの期間とかあるから
アメリカで稼いだのは1億円ぐらいかねえ
今の価値にすると10億円ってところか
そんだけ売全米でれていた馬場だが米全日旗揚げ時は米マットとのパイプなんかどこにもなかったらしい。
たまたま大熊がドリーファンクシニアのとこにいて、大熊が彼と話をつけた。
後はシニアの口利きで他のプロモーターもという流れだって。
>>184 そんだけ売全米で売れていた馬場だが全日旗揚げ時は米マットとのパイプなんかどこにもなかったらしい。
話をつけたのは明らかに駒だろ
確かに大熊もアマリロにいたけど
>>179 言ってる意味が分からないのはあなたが庶民だからに他ならないw
私も庶民ですがねw
大体、貨幣価値とは購買力の事であり、物価とは文字通り
物の値段の事で、同義で言葉を使っている時点でお察ししますww
>>186 大熊には、ビジネスをまとめられるくらい、流暢に英語を話していたイメージないんだよな。
>米マットとのパイプなんかどこにもなかったらしい。
確かに馬場はプロモーターとしては、全く未知数だが
サンマルチノ(+Dデヌーチ)、デストロイヤーらは
彼の個人的な付き合いから招聘できた。
全くパイプがなかったとも言えない。
あと、ドリーファンク・シニアとも1962年のアメリカ遠征中に
面識があり、そこで旗揚げの協力を得たとも聞いている。
>>171 栗山って人は猪木にも馬場にも手玉に取られ騙されるかなり間の抜けた人だよなw
>>181 後のUインターの1億円の招待状の時に橋本が
「あのメンバーが背負っているものを考えたら1億円は安い」と怒った位で
1億円じゃ安すぎる
馬場VS猪木が実現して勝ちブックがもらえるなら
新日は1億円なんてケチなことを言うはずがない
猪木VSアリと同じレベルの金額でも新日は支払ったと思う
猪木は「馬場VS猪木ができるなら興行権も放映権も譲渡しても良い」とまで言ったわけでね
それを考えてもガセとしか思えない
>>191 馬場戦のファイトマネーで何で10億オーバーなんだよwww
しかも完全に落ち目の馬場だぞw
>>191 じゃあ、ユセフ・トルコ著「プロレスへの遺言状」の幻のBI対決もガセだろうな。
オールスター戦から18年後、1997年にBIの先輩トルコが仕掛けようとしたもので
企画書には
1.両雄が引退する前に東京ドームで1997年11月に試合をする。
2.興行収益は日本赤十字社に寄付する。
3.主催はチャリティを目的としたこの大会のみのプロジェクトチームとし、
新日本プロレスと全日本プロレスは選手の派遣のみとする。
4.テレビ局は未定。
5.馬場vs猪木戦のレフェリーはユセフ・トルコが務める。
トルコがまず猪木に企画書を見せたところ「馬場さんがOKならいつでもやる」と二つ返事
次に馬場のところに持っていくと意外な事に「先輩、やります」と返事をしたという。
但し馬場は「シングルマッチはきついからタッグマッチにしてくれ」と提案
トルコは「レフェリーは自分がやるから何も心配するな。タッグでも5分でもいいから
二人で思いきり肌を合わせろ。絶対実現しよう」と念押ししてその日は別れた。
しかしその後馬場とはなかなか連絡がつかず一ヶ月後にやっと会えたと思ったら
「やっぱり出来ません」とキャンセルされた。
「あれだけ約束したじゃないか」と説得したけどダメだった。
猪木に伝えたら笑っていた。馬場がノーと言ったら
もう絶対不可能だと猪木も知っていたからそれ以上彼は何も言わなかった。
ちなみに企画書のダミーカードには
馬場・渕vs猪木・藤原の記載があった。
奥さんが反対したんだよね、
一見馬場が奥さんにいろいろやらせてるように見えて馬場夫婦の主導権は奥さんだからね。
>>193 この試合のみのプロジェクトチーム、ね。これはやばそうだ。
寄付するという収益も売上げ箱から掴み取った残りだから10万円かもしれないし
猪木も馬場もこんなのあかんわ、と丁重にお断り、取りあわなかったと思うが
トルコの脳内では実現寸前になってるんだろう。
大日本プロレスの千代の富士の件とかでもそうだと思うが即決で断らない場合は
可能性大、実現ほぼ確実、と脳内変換されてしまう人なんじゃないのかね?
>>187 貨幣価値は物価指数から算出するんだぞ、マヌケ!
>>193 >ユセフ・トルコ著「プロレスへの遺言状
あの本は、例えば「大日本プロレス構想(P176〜180)」
など、完全にトルコの記憶違い、事実誤認が見られる。
(1983年に設立の話があり、横綱になる前で、伸び悩んでいた
千代ノ富士も参加決定していたとか=事実はもう横綱昇進(81年)後、
絶頂期でプロレス転向はありえない)
BI対決の話も読んだが、ちょっと眉唾ものだよ。
力道山会とか日本プロレスOB会とかの組織を構成し、馬場対猪木戦を含むオールスター戦を開催して莫大な利益を掌中に収めようという連中が蠢いていたみたいだね。BIの直接会談で開催が決まりかけた第2回のオールスター戦も、こういう人物が聞きつけて介入したことで、BI両者が嫌気して取り止めになったみたいだね。
>>197 その本の一番の読みどころは、日本プロレスの経理をしていた三沢氏が語る猪木日本プロレス追放事件の真相だね。
>>197 まぁ、97年なんかに実現してもなんだよねw
馬場と猪木が戦って、名勝負になりうるギリのタイミングは
75年オープン選手権の時期までだと思う。
ジャンボ鶴田 対 モハメド・アリ
が実現しそうだったとはな。
猪木は結局アリ戦もパクリだったのか。
>>200 お前の巣はここじゃないぞ早く帰りな
あと薬を病院で処方してもらえよ
馬場 対 猪木はぁ95年『夢の架け橋』96年『力道山メモリアル』
この二つの大会でもぉ企画されたらしいかんな。
特にぃ力道山メモリん時ゃ大会の趣旨からもぉ実現にぃ相応しいっちゅう事でぇ。
しかしぃ結果的にゃあ企画段階止まりだったとかぁ。
夢の架け橋はぁドームだったからぁ実現にゃあ相応しいっちゅうにぃ。
力道山メモリはぁ横浜アリーナ。
シングルはぁ無理でもぉタッグでの対決がぁー企画されたんよぉー。
藤原や渊がぁ互いのパートナーっちゅう。
他にもぉパートナー候補はおっただろぉがぁ。
しかしぃ95年96年じゃあ名勝負はぁ期待でけないかんな。
やっぱりぃやらんで良かったっちゅうこっか?
>>196 ガハハwwwフェラーリ買うのと米や電気代の価格が
消費者物価指数の同じ土俵で算出されるんですか?
やめとけやめとけwww
>>203 どこからフェラーリが出てくるんだ?
阿呆は黙ってろよ!
>過去の貨幣価値を概算するための代表的な指数には、企業物価指数(卸売物価指数)と
消費者物価指数があります。
https://rnavi.ndl.go.jp/research_guide/entry/theme-honbun-102809.php メンドクセー爺だなww
70年代初頭に30億の資産を持っている個人がいたとしたら
それは日本で100位に納まる金持ちだって事。
それが起業による株式資産でなければ、なおさらその資産は自由となる。
上流階級を飛び越えた一握りの層に物価指数など関係ないという例えだろうが。
いちいちググってる時点で無知を晒してるだけですよ。
ああ、それからそんな資産がある奴がかみさんから
金借りて全日を起業なんてしないだろうよww
馬場がキャッシュで30億、前田のこの発言がおかしい。
なんで前田が、というのもあるが
キャッシュで30あるなら総資産は100億はあるんじゃないかね。
やっぱり前田がおかしいな。
でもこの業界関係でいちばん持ってるのは日テレの大株主徳光だったりして。
>>200 おそらくこれの事だと思うけど、それこそ雑談レベルの話だよ。
具体的な動きが何もないし、馬場も嫌う企画だよ。
75年にアリが「東洋人で俺にチャレンジしてくる勇気のある奴はいないか」
発言を聞いた八田会長が、こんな話があるよと冗談で振っただけの話
猪木サイドは本気だったから、パクリではないだろう。
https://news.yahoo.co.jp/articles/33f702cbc5a1fd5d23aa1f0f2d81e3ae04db28ef プロレス関係者の言う事は8割引き位で聞いた方が良い
タイガー戸口は1985年頃に後援者を通じて全日復帰しようとしたが
とりつくしまも無く門前払いを食らった
これもそのうち「戸口は全日復帰寸前だった」とかにされかねない
実現しなかったって事は「話を持ち掛けたが条件が折り合わずに潰れた」ってだけ
新日も戸口なんて体はデカいし顔は悪党ヅラだしそれでいてテクニシャンだから上の位置で使ってやれば良かったのに
>>210 戸口は『虎の回顧録』の中で、ストロングスタイルを貶している。
「彼らの試合は、1コマ漫画と一緒で、1コマで笑って、1コマで泣いて終わり
つながりがなくて、最後まで同じような試合が続く。それは選手の自己満足
猪木さんがそうなんだから。俺だったら言いますよ。『お前ら、何やっているんだ。
金を貰って試合を見せているんだから、その日の試合、興行のつなぎをやれ。
1コマ、1コマでおわらないで、前座はメーンイベントが熱くなるように
持っていかなくてはダメなんだよ。そのためには線なんだ』って。それをわかってない
……目立とうとする選手ばかり」と述べている。
>>211 「ら、その日の試合、興行のつなぎをやれ。
1コマ、1コマでおわらないで、前座はメーンイベントが熱くなるように
持っていかなくてはダメなんだよ。そのためには線なんだ」
日本の客がこれを求めているのかとなるとまた話が違ってくるよね。
そもそも戸口自体がそこまでのレスラーでもないしな
結局全日にも新日にも不満ぶちまけているだけ
戸口は全日(G・馬場)の批判もしている。
アメリカの一流選手を数人招聘して、
第3、4試合あたりで使うと、
もう一流選手ではなくなると。
猪木はもちろんのこと藤波より遥かに集客力が下の
戸口が言っても説得力が全くない
集客力は一流だった大仁田の言葉の方がよっぽど説得力がある
>>211 同じことはカブキも言っている。
前座は前座の試合をやれ(大技を使うな。前座時代、越中が
ブルドッキングヘッドロックを使っただけで怒られた)
対して、新日は前座も若手も「俺が!俺が!なのだと、、
しかし、つまらんストーリー漫画より、面白い1コマ漫画の
連続の方が良いかも知れない。
前座の大技の話だけで言えば、
80年代頃までは大技禁止だったはずだけどな
ドロップキックの回数まで決められてたと前田が言ってる
その後、西村修がムーンサルトプレスとかやりだしてウヤムヤになっていった感じ
85年の新日前座は、
山田恵一がジャーマン、船木がサマーソルト、
武藤がムーンサルト・プレスを使っていた。
新日前座の若手達が大技使い出したのは長州達大量離脱後の印象。
うるさく言う先輩達がいなくなったからなのかな?
プロレスって何だ?の問いに猪木は興行と答えた。
なるほど明瞭な回答だと思う。
プロレスで競っているのは集客であり収益である。
そのために新日本のスタイルがあり全日本のスタイルがある。
軍配がどちらに上がったのかも誰の目にも明らかだ。
>>217 少なくともカブキや戸口の試合より新日の若手の試合の方が面白かったからな。
現に戸口やカブキの全日より新日の方が客が入ってた。
ストロングスタイル商法の嘘がバレてたら全日本が勝ってたんじゃないのかね?
嘘云々言い出したら全日も新日も似たようなもんだろ
最強タッグの最強は本当なのか?とかな
ストロングスタイルとかの喧伝がない世界、又は今の様な公になってる世界ならば馬場なんて衰えていてもスター継続してたんじゃない?
逆に猪木は幻想が無いから馬場よりも少し動ける人でしかないからね。
そもそも興行の世界、人気商売なんだから幻想持たせてナンボだろ
後の時代の視点でその幻想なかったら、とかバカ丸出しの仮定でしかない
>>223 >>224 全日本や馬場のプロレスのキャッチコピーに使われていた「王道プロレス」とかいう商法も、「ストロングスタイル」同様の胡散臭さはあるよな
ボクの大好きな馬場さんが叩かれて悔しい!ってか
いい歳してみっともない
>>229 王道プロレスは別に新日本に対してディスる要素なかったでしょ
三銃士時代だってケロが普通に三沢すらディスってましたからな。
>>229 結局は興行の世界でやってることだからな
最強云々とかスタイルがどうこうとかも結局は興行で作り出した幻想でしかないのに
「鶴田最強」とか今でも騒いでるアホがいるのに呆れるわ
>>232 プロレスのメッキが剥がれた結果と違うの?
猪木のメッキは剥がれて強いと呼ばれなくなった。
逆に馬場と鶴田の地金が出たという事じゃないのかね?
全日の人気が上がってもそれが世間でプロレスブームと呼ばれた事は一度もない
その程度の存在
>>233 アマレス経験のある鶴田はさておくとしても、馬場の地金が出て、馬場の強さが認識されるかね
昔「MCハマーはいつもペプシ、それをコカ・コーラに代えておくとどうなるでしょう?」という
比較広告があったがストロングスタイルはその比較広告のようなもの
全日新日UWFみんな一皮むけば同じプロレス
馬場強い!鶴田強い!とか妄想は自分の巣に帰って存分にやればいい
このスレでも誰も興味ないし同調する奴は皆無
話が逸れてるが、新日のストロングスタイルも全日の王道プロレスも
それなりに幻想与えて、観客集めてたから否定されるものじゃない。
試合がつまらなくて、観客動員力もなかった戸口やカブキが能書き
垂れてんじゃないよって言いたいだけなんだが。
>>238 戸口、カブキ、カーンが偏屈老人化しているのは
アメリカで多少売れても日本のメジャー団体のメインストリームから外れてしまった
怨念の方が上まわるからだろう
>>238 言いたいことの半分は理解できるんだが、ここはBI砲を語り比較するクラシックなスレ。
ストロングスタイルが猪木のパフォーマンスだとして、では王道プロレスってのは
馬場のパフォーマンスを指す表現ではないと思うのですよ。
それはターザンが評し、主に四天王プロレスを指すものじゃ無いのかね?
その四天王プロレスに乗っかって、後付けの様に馬場プロレスを評価するのはいかがなものかと思うのね。
プロレスは集客と収益を競うものであり、馬場プロレスは猪木プロレスの軍門に下ったわけで。
こういうこと書くと馬場信者から猪木信者と書かれてしまうのだけど
れっきとした事実だからさ。
試合がつまらなくて観客動員もなかったのが全日馬場プロレスでしょ?
その全日馬場プロレスの中を構成するのが馬場、鶴田はもちろん、カブキも戸口も含まれると。
猪木は馬場の横にいると小僧でしかない。
マスコミの前では「馬場はショーマン」と喧伝して馬場の前では「馬場さんお疲れ様です、いつもすいません」と言って馬場に甘えてた。
それに騙されたのが信者というだけだ。
>>238 カブキは集客力あったでしょ。
最初の凱旋帰国の頃だけは。
カブキをわざわざ日本に呼んだならもう少しいい扱いしても良かったのにな
いろいろ馬場に不満が溜まるのもわからない話ではない
>>243 天龍の宣戦布告に高千穂から
「源ちゃんには帰る場所があるじゃないか
俺には帰る場所がないんだよ」と言われた話が書いてあったが
ガチガチの芳の里派の高千穂は馬場にとっては所詮は反主流派
(小鹿に対して「連れてくるな」と言った上田や松岡ほどではないだろうが)
日プロ勢が新日に合流したらどうなっていただろうか
大木松岡はどっちにしろ首か飛び出すだろうね
なまくらで能力不足な平井や林、羽田は確実に首かな
小鹿はうまく立ち回るだろうし上田は猪木と馬が合うらしい
ついでにクツワダは大型だしクーデターの動機から考えるとプロレスに対しては真摯なんで意外に馴染みそう
高千穂が一番微妙というか
馴染んでいたり無難にやっていたかそれとも冷遇されたり飛び出したか・・
>>245 轡田は全日旗上げから参加してるから、新日との合流はない。
小鹿は猪木とは意外と仲が良かったと言ってたな。
大木、上田はどこかで猪木に反旗翻すアングルが与えられたのかな。
高千穂は藤原、木戸みたいな影の実力者的なポジションかも。
新日、全日は練習好きと練習嫌いで別れたと揶揄されるが
現実として新日に行ったら永源やカーンとかも一緒に練習してたわけだよ。
坂口とて70年代は合同練習に参加していた。
それ考えると全日に行った日プロ組の新日だったらというイフは
あまり意味が無いように感じる。
>>247 失礼だな。
全日は練習週二回と谷津がSWSに行った時に鶴田が断言してるぞ。
>>248 大抵のスポーツの強豪高校、大学の練習ってのは厳しいのが当たり前。
現に三沢は全日の練習は足利工大高に比べて楽だったと発言している。
対して五輪選手の長州は当初練習についていけなかったと吐露している。
使う筋肉が違うとかはあるにしてもね。
両者の発言から練習量に大きな乖離があったことは明かですな。
橋本みたいなボディを作り上げたり中学生に負ける道場は強いわなあ…
>>250 それを実話だと思うのなら川田を褒めてやりなさいよww
橋本も吉江も全日と違って決してたるんだデブではない。
あんな体格、柔道界ではゴマンといますわ。
新日が、ゴッチ直伝の厳しい練習をしている
という幻想を与えていたのは1984年までだな。
その年、道場主の藤原やゴッチが一番可愛がっていた木戸が
UWFに移籍。彼らは一旦、Uターンするがまた新生Uを設立。
また、練習していないと悪評がたった全日も身体が緩んだ選手がSWSへ
大量離脱の後、超世代軍が奮起し、小橋が「練習の鬼」になったと伝えられた。
まぁ田上なんかは練習嫌いだが(苦笑)
90年代、三銃士の新日も、エースの橋本は練習しているイメージがないし、
武藤は、天才だから練習しなくてもプロレスが出来たイメージ。
いずれにしても新日から「道場論」が消えて、全日に移った感があった。
>>253 んな事いったら馳先生が怒るよwカシンも真壁も大谷も・・・怒ります。
小橋はジムで筋トレオンリーなイメージしかないな
全日に道場論が移ったとか初めて聞いた
新日は馳、健介が仕切るようになっても道場の練習しょっちゅう公開してたが
全日が道場で練習してるところ何回見たかな
全日が練習してないと言いはる時点で話にならない
坂口が練習してたの?
橋本は?
小橋は誰よりも練習してたし関節技も習得していた。
三沢や川田も同じくね。
それら事実から目を背けて新日道場は特別とか片腹痛いわw
まずは中学生に負けない練習せえよw
>>253 一番身体緩んでた馬場、鶴田が全日残ってるしなあ
なんか妄想というか願望入ってないかお前
>>257 キサマにお前呼ばわりされる覚えはない!
>>256 小橋が関節技を習得?例えばどんな関節技?
>>259 マレンコ道場に行ってるし、そもそも全日本に関節技が伝わってないと思いこんでるのがね…
>>260 だから具体的にどうぞ
あ、もしかして関節技知らないとか?
>>261 レベル低いねぇ…
新日を未だに信じてるくらいだから仕方ないのかね…
藤田が腕ひしぎすら新日で習得してない事実を知ってもストロングスタイル最強と思ってるんだろな
>>262 出せないのならゴメンナサイだろ?
いい歳してみっともない
>>263 腕ひしぎすら教えられないストロング道場には誰も勝てませんw
>>263 腕ひしぎすら教えられないストロング道場には誰も勝てませんw
そもそも本域の関節技は猪木だって出してませんけどw
まさかコブラツイストだの卍だのを関節技と認識してるんですかぁw
>>260 ハワイじゃ無かったか?
そしてそのマレンコ自身から簡単に関節は習得できるわけが無いと
コメントされた記憶がある。小橋が関節技を習得なんて話しを盛り過ぎww
猪木が関節マスターなのは試合で証明しているからアンチと言えども文句のつけようが無いはずだが。
それは青木や高坂も認めてるしね。
当時として猪木は最先端だよ。柔道から寝技も疎かになってた時代だしな。
>>267 猪木の話がどこから出てきたの知らんが、ペールワン戦のアームロックは知的障害のお前が言うところの「本域の関節技」じゃないのか?
で、早く小橋の本域の関節技とやらを教えてくれよ
>>269 あれ程度なら小橋はプロレスでも出してるわw
>>270 だから具体的にどうぞ
小橋のどの試合だ?
知的障害のお前には難しい注文かな?
関節技を知っている事と、それを実戦で披露できることは別の次元。
4の字固めなんて誰でも知っとるわwしかし、それが現実の格闘技で
使われたことは一度もない。ゴッチは言っていた。技を知ることじゃなくて
タクティクスだとな。その通りだわ。
>>271 ジョニースミスにジャーマンをかけられた後に出してフィニッシュになってたような気がしたがね
>>273 小橋は関節技習得してる!
小橋はプロレスでも出してる!と風呂敷拡げた挙げ句に「なってたような気がした」か
知的障害だからって甘えてんじゃねえよ無職ジジイ
ちゃんと具体的に出すまでやり直しな
さっさとしろよ
>>274 間違いなく出してましたけど?
それで不服ならばどうにもなりませんな
>>275 なら知的障害のお前に優しく教えてやろう
いつ(何年何月何日)の試合だと聞いている
さっさと答えろよ?
2000年のチャンピオンカーニバルじゃなかったかな?
会場は後楽園ホールだったような
>>277 その位の時期の後楽園ホールで間違いないね
>>276 必死ですな…
猪木信者はコワイコワイ
>>261 フェイスロックに落とせコールする人たちだからね・・・
で当の三沢も試合後に「今ひとつ落としきれなかった」とコメントしてたしね。
>>280 アームブリーカーやドラゴンスクリューで骨が折れたと思い込むストロンガーには敵いませんw
フェイスロックでの「オトセ」はジャンボ鶴田陥落(ギブアップ)という実況のからの「墜とせ」なんでね…
>>284 なぁ…
>>276に知的障害なんて言い出して小卒かよと思ったよw
>>284 なぁ…
>>276が知的障害なんて言い出して小卒かよと思ったよw
>>285-286 ほんと知的障害って哀れだな
もう少し落ち着けよ
知的障害「猪木さ~ん」
八百長なんですけどww
猪木信者は知的障害なんでしょうねwww
このアウアウの馬鹿は自分から猪木、猪木と騒いで「猪木信者が~」とか喚いてるんだな
頼んますよ
伸びてると持ったらこれ・・
日本プロレスに関心があるなら結構な高齢なはず
分別盛りでそれですか・・ 頼みますよほんとうに
荒らしてるアウアウは、普段隔離スレにいる無職知恵遅れだな
そこで相手してもらえなくてここに来ているようだ
>>264 いつもの鶴田ヲタのバカか
「時には謀略的な手段で馬場を追い詰めた猪木だが、実は馬場の最低限の名誉だけは守っている。それは若手時代のスパーリングにおいて馬場を圧倒したという事実を1度もマスコミに話さなかったことである。周囲からは決してわからない、猪木ならの馬場への経緯がそこから透けて見える」(井上譲二)
もうこんなことまで活字になってる時代に頑張るね
>>294 猪木はケーフェイ最後まで守るつもりみたい。
誰が強いとか弱いとかも基本的には一切言わない。
自分は格闘技をやってきてプロレスラーになったわけじゃないんで
そういう意味では基礎がなくて強かったらおかしいんで……
みたいなことは言ってたが、そこまでくらいかな。
>>295 そら守るだろうよ
プロレスに市民権を、と奮闘した自分の人生否定するようなもんだし
>>296みたいに捏造するのも出てくるから自分の発言には気を使ってる
俺は、憶測も交えて"あんな事も、こんな事も知ってる"としか書かれてない
暴露本を出したミスター高橋だけは好きになれないな。
こっちだって、おおよその事は理解し飲み込んだ上で楽しんでいるのに...
金の為に現役レスラーや多くの関係者に迷惑かけて
自分だってプロレスで長年飯を食った人間だろうに
馬場猪木が現役の時に出してみろと言いたい。
現実として猪木ほど過去発言の矛盾や破綻が起こっていないレスラーはいないだろ?
プロレスに対しても異種格闘技に対してもね。
現在認知されてるプロレスの受けをきちんと明言したのも猪木。
後付けの王道プロレスなんてより、それを体現もしてきた。
プロレスラーになるために生まれてきたような人物だろうよ。
>>298 生きているうちに出しただけでも大したもんじゃんって思うよ。
高橋本も深読みすれば猪木への愛情とか妬みとかだから
新間告発と似たようなもん。本当は猪木に振り向いてほしいだけだからw
全くタネ明かしがなくてもつまらんけど、全てを明かされてもつまらん。
やっぱり猪木には最後までケーフェイ守って欲しいね。
猪木は馬場に道場で負けたこと無いと言ってるけどな
しかし現実的には若手の頃はそれでも全盛期の馬場には勝てなかっただろうがね
実際猪木より馬場が強かったとする証言はほぼ皆無。
本人談だけでなく関係者合わせてもな。
なのに馬場は強かったと、何をもって書いているのか滑稽でもある。
>>299 世間がプロレスをショーだと見ていた時代に、真剣勝負と言い切り
「自分の仕事をインチキとか笑われて黙ってられるかよ」と
八百長論へ真っ向から勝負を挑んだ。
この姿勢がファンの共感を得たのは確かだが
いつも利用されたのが、スタイルの違うプロレスを行ってきた馬場で
2度目の小林戦後のインタビューでは「プロレスが何だかんだと言われる原因は
どこにあると思いますか?いい加減なプロレスをやっている人がいるからですよ」
と、同じケツキメなのに馬場を貶めている。
>>303 馬場対猪木が行われたら、ズバリ、馬場が勝つとはトルコの話
ただ、何度か対戦することでトータルでは猪木の勝率が上回るかもしれないと述べている。
日プロ経理部長・三沢正和もナチュラルには馬場と断言
高千穂、戸口、安達も、経営者としてはともかく、レスラーとしては馬場の方を評価
これらは全て日プロ時代の話だと思うけどね。
>>304 プロレスラーとしてどちらが評価されるのか?という話しと
ガチ、セメント、格闘技者としてどちらが強いかって話を一緒にしちゃダメでしょ?
猪木は馬場ありきで成功できたが馬場は単独で日米スターになった
馬場がいなかったら猪木は平凡なレスラーで終わっていただろうし日本プロレスも終わっていた可能性は大いにある
馬場がいなかったら猪木は存在しない・・・などという妄想に行きつかなきゃいかん程
馬場は落ち目だったってことだよねw
同じ妄想は世に存在し、猪木がいなかったら70年代にプロレスというジャンルは消滅したと。
相殺ですな。
>>305 そういうことね。
そんな猪木も、自らのレスラー人生について
「結局、俺がやってきたことは人を喜ばせたかったということなんです。
現役の時は俺も粋がっていろんな言葉を言ってきたんだけど
突き詰めて今のところ思うことは、ただひたすらに見ている人たち、ファン、
大衆を喜ばせたいという、それに尽きるんですよ」と語っている。
>>308 結局いつの世も評価されるプロレスってのは
自己犠牲によって成立してるんですよね。
猪木にはそれがあり馬場にはそれが無かったという事だと思う。
大体さーカブキ、ドク、ヒトと馬場に毒付けば嘘吐き扱いしといて
馬場褒めたら採用ってのはダブスタ過ぎんだろww
どちらにおいても証人として採用するのか、もしくはしないのかにして下さいよw
>>307 70年代に猪木がいなかったらプロレスは存在しなかったってのは大分あり得るな。
対立団体って言うストーリーが無くなって全日だけがってなった時のケースは、新日がズンドコ繰り返し低迷してた時期に盟主を自称してたノアって例があるからね。
実際、全日単体だと日本テレビの金がないと数年で潰れていただろうね。
馬場は日プロ時代で事実上終わってる
全日時代だけなら猪木はもちろん他のレスラーよりも劣るよ
インター王者時代を焼直してるだけで何の冒険もしてないからな
そりゃじり貧になるしかないわ
後身の猪木がのし上がるには馬場の持っていない術・キャラを使うのは
当たり前であって、猪木が強さをもって前面に押し出したってのは
馬場が強くなかったからこそっていう証明になるだろうね。
まぁ、どちらがどうとかの決めつけで他方を批判するのはスレが荒れるもと
猪木が実力日本一を主張すれば、馬場は日本人初のNWA世界ヘビー級王者に
すると今度は猪木が格闘技世界一で張り合う。
このプロレス的な対立構造が堪らなく面白かったわけで、馬場も猪木も好きなんだよなw
シュートファイトが好きならそれはそれでいいけど、MMAは全く興味ない。
プロレス内でも、いざとなったら仕掛けられる準備をしていた猪木は
あるべきレスラー像だとは思う。
>>314 >>まぁ、どちらがどうとかの決めつけで他方を批判するのはスレが荒れるもと
まんま、「猪木と馬場、どっちが強い」論争じゃん。
令和の時代にそんな論争ができるのが嬉しいね。
私は、断然イノキ!
猪木がいなきゃUWFもない。
入門前は猪木など好きなレスラーの1人に過ぎなかったことがバレた藤波は
どっか入っただろうが佐山や前田、高田はプロレス入りしていない。
そうなるとUWFや修斗もなかたわけで・・
それどころか坂口もプロレス入りしていない可能性すらある。
なんせ猪木の穴埋めや対抗でスカウトしたという話もあるんでね。
>>314 馬場、猪木両者のプロレスラーとしてのキャリアを俯瞰すると、馬場はNWA世界ヘビー級王座を獲得した時点で、猪木はムハマドアリとの格闘技世界一決定戦を実現した時点で、それぞれプロレスラーとしてやりたいことはやったという境地に達し、以降は借金やら、TV局やら、団体のレスラー、社員たちを食わせるためやらで仕方なく惰性でプロレスをしていたのではないかな。
馬場は鶴田に後を任せ、ハワイで悠々自適の生活をしたかっただろうし、猪木は坂口に団体経営を任せ、アリ戦で高めた知名度を利用して世界的なビジネスをやりたかっただろうし。
馬場は昭和50年猪木は昭和55年までに引退すべきだったね。
無論2人とも情熱もってレスラーに専念すればまだまだいい仕事は出来たと思うけどね。
ただまあ美学としてはそうだが早すぎる引退がそれぞれの団体やその後の日本マット界の為になったかとなると解らない。
50年に引退して鶴田に任せられたのか。55年に引退してというが多くのレスラーを輩出した新日本だが
55年時点で藤波長州にバトンを渡しても仕方ない。(そもそも55年の長州なんてメインエベンターに出来る風体や試合ぶりじゃない)
>>317 BI共に一度、頂点に立つともう降りられないと思う。
引退してプロデュースする側に回っても、自分を超える名声を得ることを許さないみたいな..
おそらく力道山が生きていても同じだと思う。
馬場はカブキに対し、自分より目立つことを嫌っていたというし
猪木も坂口体制になって、猪木時代とまったく異なる戦略で潤っているのに
95年に参議院議員選挙で落選すると、既にズレた感覚で会社に介入してきた。
その頃から暗黒期に突入するわけだが
まるで「少しぐらい人気が出たからって偉そうなことを言うな。
新日本プロレスは俺が作って成長させた会社なんだぞ!」
みたいな感じに受けとれるんだな。
理想は>318氏の言うように40代前後に引退し、後進に道を譲るのが正しい形だと思うけど
自らの肉体の衰えで、引退時期を測れる他の格闘競技と違うからね。
人気さえあれば居座ることが出来ちゃうんだよなぁ〜、プロレスはw
馬場も猪木も引退はぁでけなかったっちゅう意見がぁー大半だかんな。
馬場はぁ例のぉ38で引退、ハワイにぃ定住との目標がぁあったぞぇー。
猪木もぉ実際にゃあもぉちぃとぁ早く引退したかったみたいだしぃー。
猪木はぁ89年に当選した時にゃ引退するつもりだったかんな。
しかしぃ周囲の猛反発によって引退でけんかったんよぉー。
こん時にはぁ猪木はぁ引退して国会議員に専念するつもりだったっちゅう。
しかしぃ結果的にゃあ二足草鞋(わらじ)にせざるを得ずぅー。
猪木の本意でぁなかったらしいぞぇ。
猪木からしたらぁ二足草鞋(わらじ)はぁ有り得ぬっちゅう考えだぞぇ。
しかしぃ結果的にゃあ自分がぁそぉゆぅ状況んなってもぉたかんな。
>>319 猪木が介入してきたのは99年に藤波が社長になってからだろ。
坂口体制で猪木が新日に迷惑かけたのは95年の北朝鮮遠征くらい。
北朝鮮興行という建前をもって朝銀だかの融資を受けたが
北朝鮮興行に使ったのはその数割であって、残金があってこそ
新日は延命しUインター興業まで耐え忍べたという見方がある。
2日に38万人を集めた猪木ゴリ押しの企画"平和の祭典"について調べてみたら
大会直前にとんでもない問題が発生していた。
北朝鮮からは1円も貰えない、完全持ち出し興行なのは仕方ないとして
フレアーやアリのブッキングも完了し、ほぼ準備の整った時点で
興行の費用の一切を負担するという在日のスポンサーが降りてしまったらしい。
慌てた猪木は社長の坂口に泣きついたが、急なことで銀行の融資も受けられず
長州の個人的タニマチの福田政二氏から2億円の融資を得てなんとか開催に至ったそうで
その時に新日本プロレスの振り出した手形の裏書には吉田光雄と記入されていた。
要するに長州が個人的に保証人になることで興行資金を調達したということだが
これがなかったら、今も続く猪木と北朝鮮のパイプは存在しなかったことになる。
平和の祭典では多額の借金を抱えた新日本プロレスだが
同年10月のUインターとの全面対抗戦でアッサリと全額返済になったという。
>>321 坂口が退くことになって、次期社長に藤波を指名してからだね。
当然次は長州だと思われたが、猪木にとってイエスマンの藤波の方が
やりたい放題だからw
K−1との抗争やPRIDEを支援する一方で、新日に対してはカード変更や
安田をトップにするよう指示したりと、藤波は従うことしかできなかったと...
でも、意図は何だったんだろうね?
猪木の目には、長州と三銃士でスポーツライクになり過ぎた新日を
自分が主役だった頃のような"戦い"を全面に出した格闘色の強い団体に戻したかったのか
その為に、橋本じゃないけど"破壊と創造"をしようとしたのか?
>>324 >>323のように自分がやらかした「平和の祭典」の尻拭いをしてくれたのは長州なのに、坂口の後任社長に長州をすっ飛ばして藤波を据えるところが猪木らしいなと思いますね。
猪木が長州を社長にすることを嫌ったのは、スポーツライクになりすぎてリング上から殺気がなくなったこともあるけど、決定的だったのは、大仁田やインディーのレスラーたちを新日リングに上げたこと立ったのでは?
>>324 94年頃のインタビューでUWFが参戦してた時代を振り返って「あの頃はみんなピリピリしてましたね。今はそれが薄れてきたから、またやってみますかw」なんて言ってたから三銃士時代のプロレスに対して一石投じたいというのはあったと思う
全く語られることのないロスでの「平和の祭典」
あれだって結構な金掛かってるだろ
>>325 長州は二度目の離脱の時に「なんで馬場さんがあの男(猪木)を無視し続けたのか良くわかった」と
ボロクソに言っていたな
そんな猪木と長州がまた寄りを戻したのも凄いが
だから皆さん勘違いしているんだって。
北朝鮮興行がなければ新日は(可能性として)潰れてたんだってばさ。
>>328 長州は猪木に「出ていく時は俺のことをボロクソ言え」と言われていたから
猪木は将来的な対抗戦を頭に描いていたのかも
今でもあそこから寄り戻したのが凄いとか言われてるし
恩讐の彼方、って言葉があるでしょ。
讐はさらりときれいに流す
ただ恩もさっぱり忘れてしまう
かなり特異な性格ではある。
>>327 96年 平和の祭典第3弾だよね。(第1弾は90年のイラク)
猪木&Dスバーンvs藤原&Oタクタロフという、年寄り2人と米・露のUFC組
集客もPPVの売り上げも散々で、2,000万円ほどの赤字だったらしい。
>>329 北朝鮮での平和の祭典と、猪木引退試合の収益は別格で
特に引退興行は、猪木の個人的な借金もギャラで全て完済された
ある意味、借金返済興行という側面もあった。
この2大ビッグイベントの成功で、プロレスが半端なく儲かる商売だと勘違いした
長州のタニマチである実業家の福田政二氏は、後にWJで地獄を見ることになる。
日本プロレスの二局放映から崩壊の顛末を分かりやすくまとめた記事
坂口、大木だと視聴率が一桁に転落したそうな
やっぱり馬場猪木の様にスキルが無いとダメなんだな
「馬場が登場しないなら番組を打ち切る!」放映権をめぐる因縁、“猪木・坂口合体計画”も頓挫…人気絶頂から日本プロレスはいかに崩壊したか?
https://news.yahoo.co.jp/articles/8dde5bee737ba1149c6178119ea71dfed0fd47f2 猪木追放後、新たな“NETのスター”として坂口征二を擁立。日プロ幹部は、猪木より身体が大きく、
柔道日本一の実績を持ち、マスクもいい坂口なら、すぐにでも猪木の穴を埋めることができると考えていた。
しかし、坂口と大木金太郎中心となったNET『ワールドプロレスリング』の視聴率は急落。
それまで平均15%あった視聴率は、1ケタ台を記録するようになってしまった。
>>325 >決定的だったのは、大仁田やインディーのレスラーたちを新日リングに上げたこと立ったのでは?
他のインディーズはともかく、プロレスこそ最強の格闘技と謳い
新日をメジャーに育て上げた猪木の団体に
「ワシは弱いんじゃ〜」と叫ぶ大仁田が挑戦状を叩き付けたのは爽快だった。
対局だからねw
>>333 では全日や新日のテレビ中継視聴率が良かったか?と聞かれたら
大したこと無いんじゃないの?私は数字は知らないけどね。
70年代ってのはプロレス業界自体が沈んでたからこそ
中盤以降の猪木人気が無ければ、そのままプロレスってジャンルは消滅してただろうと
言われたわけじゃないの?
日プロ退団した馬場が、義理を通したなんて言われて崇められる風潮があるけど
そもそもTBSから日プロを引き抜いたのが日テレであって、馬場退団も出来レースで
チャンチャラおかしいと思うんだよね。
https://www.wikiwand.com/ja/●ワールドプロレスリング
●を抜く
>視聴率は末期の視聴率が8?10%台だった『NET日本プロレスリング中継』よりアップし、
>1973年末には15?18%台に達してプロレス中継ではトップの座に躍り出て
>1974年2月には、ストロング小林が国際プロレスを退団し、新日本へ移籍。同年3月19日に行われた猪木VS小林の初対決は19.8%を記録した。
>同年10月には大木が新日本へ参戦し、10月10日に行われた猪木VS大木は、20.2%を記録した。
同時期の全日は野球のシーズンは4%~9%で推移していたそうだ。
全日はともかく新日が大したこと無いというのはどういう根拠なのか意味不明だな
>>336 私が知りたいのはストロング小林以前の視聴率ですよ。
>>337 1973年末の視聴率も書いてるが、それはストロング小林以前ではないのか?
>>338 おっと失礼。ではそれは日プロに馬場猪木が在籍してた日テレ終盤と
比較していかがだったのですか?
なんか必死な奴がいるな。
昭和の日本プロレスの時代まで出してなんかしたいのかな?
映像コンテンツとして馬場の倍は需要があったって結果が出てるんだけど一体何を知ったらどう言うことを言いたいんだ?
馬場の価値は猪木の半分であろうが、あの当時相当な優秀なコンテンツだぞ。馬場が上じゃないと嫌なのか?
数字ねつ造して欲しいのかね?
>>339 その質問をしてくる意図が全くわからん
坂口、大木で日本プロレス中継の視聴率が一桁に転落した、という書き込みに
「全日、新日の視聴率も大したことなかったんじゃないか?」とレスがあったから
73年の新日でも視聴率はとっていたと返したまで
自分で書いた「新日の視聴率は大した事なかった」の根拠を示さぬまま、話を逸らす意図はなんだ?
金曜8時の新日版ワールドプロレスリングは、中継開始当初こそ10%台前半の視聴率だったけど、猪木対小林戦あたりから10%台後半、時には20%超の視聴率をコンスタントに取っていた。裏には「太陽にほえろ」があったことを考えると大したものだったと思う。
TBSはワープロと太陽の牙城を崩すべく、その当時の人気アイドルを起用したドラマを金曜8時にもってきたが悉く惨敗、その後、金八先生がヒットしたが、視聴率ん食われたのは太陽の方で、ハンセンが起爆剤となってプロレスブームを起こしたワープロの視聴率は揺るがず、むしろ上昇した。
>>342 ワープロを金曜夜8時から追い落としたのは「風雲たけし城」で
そのレギュラーメンバーがストロング小林だったと言うのも
遠回しなリベンジのようで面白い
全然話を逸らしていない。
馬場猪木、国際、大木坂口・・・視聴率という
可視化できるデータをもって、私の知らない70年初頭の4団体時代にに
誰が人気があったのか?数字を持っていたのか?を知りたいだけだ。
自分、他スレでは散々猪木ヲタ扱いされてるのにとても新鮮な気持ちww
私はニュートラルだよw
>>343 というより新日のたけしプロレス軍団を
新日ファンが認めていれば風雲たけし城は裏番組にいなかった事になるんじゃない?
>>345 TPGの時はすでに月8になってたじゃん
1967年の今日、5月12日は岐阜市民センターで馬場猪木が初のタッグ結成(BI砲55周年)
タッグマッチ60分3本勝負
馬場&猪木(2-0)WVエリック&Mデビアス
猪木(9分44秒 反則勝ち)デビアス
猪木(5分7秒 アバラ折り)デビアス
日本テレビで全国生中継された。
テッドの義父は、初の日本遠征から帰国後に、コックスやゴッチとWWA世界タッグ
キム・イルからWWA世界ヘビーを獲得。
69年試合中に心臓発作を起こして 45歳の若さで死去した。
BI砲の初黒星〜67年12月1日高崎市体育館 60分3本勝負
馬場&猪木(0-2)Cリソワスキー&Bシクルナ
リソワスキー(7分32秒 体固め)猪木
リソワスキー(4分14秒 体固め)馬場
隅田川決戦を意識したのは理解できるけど、馬場猪木からフォール勝ちとは...
沖縄本土復帰50年だけど、沖縄といえば 88年の飛龍革命だなぁ
他には 74年猪木×シークのランバージャック、80年猪木×シンのUWA移動試合
記憶にないけど、馬場×カマタのPWF戦も80年エキサイトシリーズで
古くは、復帰前の63年 力道山×カルホーンのインター戦も行われていたらしい。
沖縄といえば奥武山体育館だな。
全日、新日、どちらも二日連続興行をやってた時代がある
いつのまにかやらなく(二日はやれなく)なったようだけど。
基地があって米人がよく来るので、みたいな理由説明も見たような記憶がある。
国際は沖縄にいってたかなあ?
国際もぉ沖縄ではぁ興行しちょったぞぇー。
沖縄総合体育館
那覇体育館
那覇文化体育センター
沖縄武術会館
沖縄市民プール特設
国際もぉそれなりにぃ沖縄興行あったかんな。
しかしぃそれぁまだ国際がぁ潤っていた時代だしぃー。
昭和も50年代になるとぉ人気面ではぁ新日や全日にぃ抜かれてもぉたかんな。
馬場とラッシャーのシングルでもぉラッシャー負けブック飲まされたりぃ。
国際はぁ完全にぃ全日の下っちゅう位置付けにぃなってもぉたぞぇー。
同じくぅー新日よりもぉ下っちゅう。
新日や全日にはぁ人気面でぁ大きく差を付けられちょったかんな。
そぉゆぅ面でもぉ国際はぁ対抗戦の類いでぁ星取りがぁー気の毒だったぞぇ。
>>351 '80スーパー・ファイト・シリーズで、国際初の沖縄興行を行った(テレビ未収録)
末期の東京12チャンネル時代だね。
全日も90年代は沖縄には全く来なかったな。
それはノアになっても変わらなかった。
「ファンはどう思っているか知らないが、馬場さんは試合巧者だ。猪木さんもそうだが
相手をちゃんと盛り立てる術を知っている。
馬場さん、猪木さんの両巨頭と対戦経験のある俺の率直な感想は
2人のプロレスの巧みさは他の日本人レスラーに比べると群を抜いていた」(Kカーン)
「馬場さんはアメリカで最も成功した日本人レスラーは自分だという思いがあったから
俺や高千穂さんのようにアメリカでオーバーしたレスラーを
快く思っていなかったような気がする」(Kナガサキ)
「猪木さんって、運動神経がよくないとか言われたりしていたみたいだけど
実際、ショッパかったよ。ドロップキックも正面飛びでやって
ドテーンと背中から落ちたりしていて、それが何でエース候補になれたかというと
タッパがあったから。」(Gカブキ)
「時には猪木さんと対立する場面もあったけど、子は親が間違っている時は
物申してもいいんですよ。俺はアントニオ猪木の子供だから文句をいう資格がある。
そのかわり第三者が親の悪口をいったら許さない。俺のスタンスはそういうことだよ」(前田日明)
いろいろ言われてますな。
天龍曰く、元全日本の人間は馬場を笑いにするそうだが
元新日本の人間は猪木を茶化すことを嫌がるらしい。
まぁ、馬場は雲上の人だから...
>>355 猪木が何でスターになれたかってそれは持って生まれたスター性とレスリングに対する姿勢というか自分に対する厳しさだよね
どっちもカブキの中の人には大きく欠ける物でしょ
元々それなりの陸上選手だし入門してうさぎ跳びをやらせたらこいつは物が違うと沖識名をうならせ、若手時代からレスラー仲間から素質を絶賛されていた程だから
運動神経は悪くなかったんじゃない? 球技とかは苦手だろうけど
武藤は「正直、猪木さんは運動神経だけでいったら、めちゃくちゃ悪いよ。
球技なんかやらせたらとんでもないことになる。
でも、プロレスは運動神経だけじゃないんだよ。技だって凄い技をポンとやったんじゃ
何の記憶にも残らない。意外とドン臭いほうがリアリティがあって観客の心に届くんだよ。
それにプラスして、猪木さんはプロレスの基本でもあるやられっぷりもいいんだよ。
カッコよく勝つだけじゃ、何の面白みもないわけでね。
その振れ幅が大きければ大きいほどいい試合になるわけだから」と語っている。
猪木がぁー運動神経悪いやっちゅうのぁ確かにぃ頷ける部分あっちゃるぞぇ。
かなりぃ前にぃ藤波とのタッグん時にぃ比較した時にぃそぉ思うたかんな。
藤波や武藤はぁかなりぃ運動神経良いっちゅうのもぉ見ちょってわかるしぃー。
後はぁ猪木のバワイぁかなりぃ身体がぁ柔らかくて柔軟っちゅうのもぉ。
猪木 前田 武藤はぁかなりぃ柔軟だしぃー、猪木はぁブリッジ凄かったんよぉー。
藤波 坂口 後はぁ長州辺りはぁ身体がぁ硬いっちゅうのもぉあるかんな。
若い頃、ジュニア時代の藤波はぁ柔軟そぉにぃ見えたけどぉ硬いぞぇー。
ベイダー ビガロもぉ運動神経はぁかなりぃ発達しちょったっちゅうのもぉ。
あの身体でぇあんだけぇ動けるっちゅうのぁかなりぃ運動神経高いかんな。
あの延髄斬りの高さと美しさの両立は誰も真似出来ていない事実。
しかも猪木は当初、左右の延髄斬りを使っていた。
大体フィジカルで日本人より優れるブラジルの国内大会で優勝しているわけで
猪木のフィジカルは数値以上に非凡なのは間違いないだろう。
>>360 テンテン君、キミもぉ包茎チンポの分際でぇ取り敢えずぅわかっちょるなぁ。
猪木の延髄斬りはぁあな見た目の素晴らしさはぁ誰にも真似でけないぞぇー。
藤波や鶴田のぉ延髄斬りの見た目の悪さはぁかなりぃのもんだったかんな。
強いて言うたらぁ佐山タイガーの延髄斬りはぁそれなりだったけどもぉー。
猪木はぁ球技等がぁー全くダメなんはぁよぁくわかるがぁー。
そんでもぉプロレス的な動きはぁそれなりだったしぃー。
レスリング技術や動きをぉ習得すんのぁかなりぃ早かったみたいだかんな。
まぁ猪木のバワイぁ17でプロレス入りだからぁ早く習得でけた部分もぉ。
>>360 テンテン君よ、差し詰センズリをオナニーと呼ぶ輩はヘタレっちゅうこったわぃ。
>>360 猪木の延髄と卍、馬場のランニングネックブリーカーは、他の追随を許さなかった。
もしかしたらブラジル時代に走り高跳びもしていたのではないかと妄想する。
延髄斬りのモーションの後に身体を前に捻ればベリーロールに似る。
さすれば猪木の延髄きりの高さと水平さの美しさは理解できるのではないか。
>>362 美しさなら贔屓無しにMスーパースターの方がよほど素晴らしい。技名は違うがね。
追伸。球技がダメと言われるが全日新日ソフトボール大会では
猪木は勝利投手にしてホームラン、元プロ野球選手の馬場は三振だったような記憶がある。
間違った記憶ならご容赦を・・・w
それな。
ソフトボールでも全日が負けたのはファンとしてじつに悔しかった。
まさかあれまでヤオなわけはないだろうし…
80年4月頃にぃ新日と全日のソフトボール大会あったなぁ。
あん時ゃあ確かぁ新日がぁー勝ったっちゅうにぃ記憶しちょるけどぉー。
あれはぁ当時は放送されたっちゅう噂を聞いたんよぉー。
でもぉどこの局で放送されたんかがぁ気になる気になる気になる木だな。
テレ朝や日テレじゃあなかったっちゅうにぃ。
契約問題で互いの局にゃあ出られんだろぉしぃー。
でもぁあん時ゃ双方共にぃベストメンバーじゃあなかったはずだかんな。
まぁソフトボールでぁベストメンバーだったんかもぉ知れないけどぉ。
80年はぁ引き抜きング騒動前でもぉあったかんな。
東スポのなんかをぁ記念して行われたはずぅ。
ありゃあ見たかったぞぇー。
>>363 フライング・スリーパーって技名は無理があったw
堂々と、ランニング・ネックブリーカーorジャンピング・ネックブリーカーと言って
視聴者に馬場の技と比較させれば良かったのに。
球技とレスリングでは使う運動神経が違う。
運動神経が悪い新人が「力道山門下生3羽カラス」
と言われるはずがない。特にそのレスリングのセンスの良さは
賞賛されていた。他に卓越した新人が少なかったとはいえ。
武藤の「猪木はメチャクチャ運動神経が悪い」説は
確かに、武藤の運動神経は天才的で、彼に比べたら、、とも
思うし、武藤が新日に入門した時は、もう猪木は40歳過ぎ
運動神経も鈍くなるよ。
>>367 スウィング式のネックブリーカーは普通にスウィングネックブリーカーと言ってたのにね。
>>367 これはホント同意ですわ、そんな技名に変えるのならいっそ叩きつけられた相手がもうイビキかいて気を失ってるくらい徹底してほしかった
まぁ猪木がやったら卍固めだし
馬場がやるからジャイアントパッケージホールドだし
ところで、猪木のバックドロップはいつ頃からテーズ式になったのかな?
日プロの頃は抱え投げだった気がする。
あと、馬場が全日でジャイアントバックブリーカーを使ったところを見たことない。
コブラクラッチからの背骨折りという拷問技は、絵になって好きだった。
>>371 2代目タイガーにジャイアントバックブリーカーかけてる写真見た覚えある。
>>373 練習じゃなくて、試合でかけてたショット?
まぁ、全日時代に巨漢相手なら無理だと思うけどね。
馬場のバワイぁ持ち上げる力はぁなかったからそぉゆぅのぁ無理だろぉなぁ。
軽い相手でぇその相手の協力がぁ上手けりゃあでけたかも知れないけどぉ。
あの腕で重い相手を持ち上げるっちゅうのぁ無理っちゅうか無謀だかんな。
実際にぃ馬場がぁー相手を持ち上げた試合っちゅうのぁあんまなかったはずぅ。
レイスやハンセンにぃバックドロップやブレーンバスターとかぁ僅かだぞぇ。
日プロや全日初期中期ん頃の試合はぁ見ちょらんからぁ知らぬ存ぜぬだがぁー。
馬場もぉ相手を投げんのを失敗したらぁっちゅうにぃ考えただろぉしぃー。
後はぁブロディにぃパイルドライバーやっちょったんはぁ覚えちょるぞぇ。
1961年5月25日 第3回Wリーグ 富山市体育館大会(15分1本勝負)
馬場正平(10分00秒羽交い締め)猪木寛至
BI対決はWリーグ期間中6度、馬場が63年に帰国して再渡米するまでに10度行われ
猪木は1度も勝たせてもらえなかったんだよな。
この頃は実力でも16連敗はしょうがないか..
ちなみに、初対決が行われた富山大会のメインは
○ミスターX(Bミラー)、Iアーキンス、Gライトvs力道山、吉村、東郷●
セミは、○Kクラウザーvs豊登●
失礼、ジム・ライトは"G"じゃなくて"J"でしたw
かつて『ジャンボ鶴田とJ馬場』ってスレも存在したくらいですから、その程度ならノー問題です!
昔の映像や写真見て当時の人の年齢に驚くってよくあるけど豊登には当てはまらないな。
国際時代でも見た目は現代人に勝るとも劣らないレベルで若い。
>>380 芸人オカリナを見るたびに豊登を思い出すw
豊登はぁ童顔だったかんな。
それとぉあの身体はぁミスマッチっちゅうにぃ言われちょったぞぇー。
実際にゃあ豊登はぁかなりぃのパワーがあったっちゅうにぃ言われちょるぞぇ。
ベンチだとぉ200はぁ普通に挙げる位のぉパワーがあったらしいかんな。
超パワー、怪力っちゅう形容がぁー当てはまったっちゅう存在だったんよぉー。
力道山もぉ豊登の超パワーにゃあかなりぃ警戒しちょったらしいかんな。
豊登を起こらせたらぁあの超パワーで来られたらぁ堪らんっちゅうにぃー。
だからぁ力道山もぉ豊登にゃああんま厳しくでけなかったっちゅう話だぞぇ。
豊登はぁ普段は温厚でもぉ怒ったらぁ手が付けられん程だったとかぁー。
5月22日、猪木が青森県の十和田に『アントニオ猪木家の墓』建立
東京でも横浜でもなく、亡き奥さんが好きだった蔦温泉の近くだそうだ。
馬場の墓も確か、新潟じゃなく兵庫県の明石だったよね。
>>363 様式美と言えば川田のジャンピングハイも独特の美しさなんだよな
まさに昭和と平成の違いって感じで
スーパースターは美しいが馬場と較べるとやはり軽いし浅いんだよな
その二つを合わせた究極の一発こそがまさに馬場がブリスコからNWAを取った奴なんだろうが
>>385 馬場は乱発しなかったのがよかったな。
伝家の宝刀を抜いたら、必ずといっていい程ピンフォールが取れる必殺技
ピンを取る確率からいっても、16文32文より高いんじゃないかな?
スーパースターは高さがあって美しかったが、この技に関しては馬場だよ。
>>386 一時期、多用していたと思う。昔の動画で、良く見たが。
俺が言いたいのは誰のオリジナルとか誰のファンとかは関係なしに
誰のランニングネックブリーカーが素晴らしいかって事。
Mスーパースターは素晴らしかった。
馬場だって言う人は思い出補正というバイアスが掛かってると思うよ。
誰に聞いたって長州よりハンセンのラリアット、川田より猪木の延髄、
藤波より武藤のドラゴンスクリューってのは相対ではなく絶対的だから。
それぞれのキャラクターに合わせて独自の技になってるのが良いんだよな
>>389 パワーズの「足8の字固め」なんかそうだよね。
諸説あるみたいだけど、自分の足を相手の足の裏側にロックするBロジャース型と同じで
裏返っても痛くならない「足の字固め」のようです。
地味な技だけど、見栄えのよかったのは受け身で衝撃を与えるデストロイヤーより
半身を反らしてアピールするフレアーかな
意外にもぉ蝶野もぉドラゴンスクリューを使っちょった時期がぁーあったんよぉー。
蝶野がぁー凱旋した89年以降のぉ数年はぁドラゴンスクリュー出しちょったぞぇー。
そいからぁ蝶野はぁバックフリップやらぁダイビングショルダーなんかもぉ。
こん頃の蝶野はぁ若くて首も痛めてなかったからぁそぉゆぅ技を普通に出しちょったかんな。
他はぁブレーンバスターやパイルドライバーなんかもぉ普通に出しちょったしぃー。
その後にぃ首を痛めてからはぁそぉゆぅ技はぁあんま出さなくなってもぉたかんな。
出さなくなったっちゅうよりはぁ出せなくなってもぉたっちゅう感じだったんよぉー。
89年から数年の蝶野はぁ今から考えっとぉ本当に意外な技をぉ出しちょるぞぇー。
馬場が最も肪の乗り切った時期は66〜68年だろうな。
2月のテーズ戦からコックス、モンスーン(連戦)、エリック(連戦)
67年にはオースチン、サンマルチノ(連戦)、デストロイヤー、エリック、
キニスキー(連戦)、Aネルソン、タイラー、リソワスキー(年跨ぎ連戦)
68年もイアウケア、ブルーザー、オルテガと防衛記録を21まで伸ばすも
6月にブラジルに敗れる。
リマッチで奪還するわけだが、この時(或いはキニスキーに敗れた時)に
猪木にエース交代させていたらどうなっていただろう、、、
まだ馬場人気でもっていた時代だけど、一度猪木をトップに据えていたら
その後の対立はなかったかもしれない。
馬場の一枚看板は68年末の蔵前のキニスキー戦までの印象だな
翌年からは次第に猪木とのインタータッグの方が興行の軸になっていった感じ
>>392 68年6月の対ブラジル戦は、勝っても負けても
日本で2連戦だった。この時に、猪木のエースはまだ早い。
70年12月キニスキーに破れインターが海外流出した時は、
同月、ロスでリターンマッチが行われたが、それで馬場が
奪還出来ない時は、猪木が1月、さらに2月に坂口が挑戦する
という話があった。その時、猪木奪還を期待したファンは
多かったと思うよ。
その時のロスではメンドーサがUN王座を防衛してたんだよな
>>394 >馬場が奪還出来ない時は、猪木が1月、2月に坂口が挑戦するという話があった。
その間にキニスキーがあっちで防衛戦に失敗してインターを取られたらどうすんだ?
と考えていた当時小4のおれ
68年国際にロビンソンが初来日して大当たり。69年には若きNWA王者ドリーと続き
ダイナミックなんだけど馬場の試合運びが
前時代的なものに映って見えはじめてきた(悪くいうとウスノロ)
12月ドリーの来日時に、NET側はなんとか日本で猪木に勝たせて
翌年1月アメリカでベルトを返すという案も出たようだが
そうすると馬場のインターが一枚下がるということにもなり
日本プロレス内では、日テレ側(芳の里)とNET側(遠藤)の駆け引きは
自分で自分の首を絞めていくことになっていくんだな、、、
>>398 NETとの契約書に印鑑押したのは芳の里に違いないが、派閥でいうと日テレ側でしょ
解説も芳の里は日テレで遠藤はNETだし
まあ、ダラ幹連中には我が世の春かもしれないけど
この頃から日プロ内部でのギクシャクが始まる。
>>400 日テレが撤退してNETが日プロ独占放送になったが、73年春に新日に鞍替え
馬場の退団から僅か1年足らずで日プロが崩壊したから
比率はわからないけど、日本テレビと三菱が大株主だったんだろうね。
週プロで今日の日に行われた馬場と猪木の二つのタイトル戦をやってるがもしこの時に猪木が馬場さんにやられたとでも思ったならあるいは五年後の一因になった可能性も
71年に猪木が馬場への挑戦を宣言した時、芳の里や遠藤の貴族幹部は
「何もかもうまくいってる時に何であのアゴは余計な毒をはくんだ」
と言って頭を抱えたらしいが
猪木が野心家でなく、組織に忠実なレスラーだったら
自然とエースの座についていただろうけど
掻き回してなかったら、日本のプロレスそのものが衰退の一途をたどっていっただろう。
坂口の加入でNETの放映が決まった新日本
ダラ幹遠藤は、解説者になる見返りに日本プロレスと蜜月関係にあった
ロスのプロモーター、マイク・ラーベルを仲介
坂口も海外修行していた五大湖地区のジョージ・カノン(Mカノン)ルートから
北米の独立団体NWFと繋がり、新日に看板タイトルをもたらす。
全日はPWF設立にデストロイヤーの加入、嫌々ながら日プロ残党の受け入れと続き
秋には鶴田の凱旋帰国と日本テレビ主導でスカウトしたヘーシンクのデビュー
1973年は新日と全日の団体カラーが見えてきた年だね。(国際も含め3団体時代)
前スレにもあったが、門茂男について調べてみた。
門は馬場も猪木も嫌いだったが、全日設立以降ビジネス上のトラブルがあり
それからはレスラーとしてもプロモーターとしても馬場をこきおろすことしかしなくなった。
発端は73年10月7日の蔵前大会で、当初は沖識名引退興行として門が代表を務める
全国プロモーターの任意団体『ジャパンレスリングユニオン』が蔵前国技館を押さえ
全日本がそれに協力する形で開催が決まっていたが
東京スポーツが10月14日、新日本の蔵前大会の主催者に名を連ねていたところから
馬場が東スポのスポンサードをどうしても取り付けようと解説者をしていた
山田隆氏に依頼して協力を得ることに成功
7日の蔵前を一旦キャンセルさせ、新たに2日後に全日本として蔵前を押さえた。
続き…
ユニオン代表の門は元東スポ記者で
懲戒免職に近い形で辞めさせられているという説もあり
この一件が門を決定的にアンチ馬場に走らせた最大の原因と思われる。
また、馬場はユニオンの看板を外す条件として、インタータッグ挑戦者チームを
全日本から1人、日プロ残党から1人組ませて挑戦させると口約束していたが
鶴田が帰ってくることが決まると、売り出したい一心であっさり約束を破ってしまった。
このことにはチケットを売り捌いた上田と松岡が激怒して離脱につながる。
どうも 門と相性の悪い東スポ(井上博社長)への恨みが絡んでいるのが理由のようだ。
>>407 ユニオンは練習生の親からも金を徴収しようとしてたとか問題があり
門茂男と東スポ社長の私怨もあり東スポ社長が馬場にユニオン主催に協力するなら全日本を東スポで扱わないと脅したとか
>>408 >ユニオンは練習生の親からも金を徴収しようとしてたとか問題があり
それを暴露したのはミスター・ポーゴだね
魑魅魍魎の世界だ
>ただ一方で、会費の取り方には問題があり、入門したての新弟子の実家に予告無く
>50万円の請求書を送りつけたこともあったようである。
>これを著書で暴露したミスター・ポーゴに言わせると、選手や関係者を食い物にしたという評価となる。
>>408 当時の東スポが新日本寄りだったのはそういう事情もあったかな
>>410 単に猪木の方が新聞が売れると言う理由が大きいだろ。
当時の馬場で新聞が売れるとは到底思えん。
まだその時期じゃないからな
むしろその後の小林戦のアシストも含め東スポ自身が猪木を売り出したと言った方が近い
>>412 新間ですら新日初期は豊登が助っ人に来てくれて客を集めてくれたと言っていたからね
S小林戦やシンとの抗争からだろうね
『一流シナリオ作家を経費的に起用できなかった各団体は、チープさが取り得だけの
プロレスオタクの記者をアングル、シナリオ作りのアルバイトをさせることにより
結果「学芸会のプロレスごっこ」までに凋落させていった』
この門の分析は、半分は賛同できるんだが
初期新日は無名の外国人レスラーが多かったから、ブック通り受け入れてくれても
最初から豪華メンバーがウリの全日は、そうもいかなかったんだろうなぁ
ブッチャー(orシーク)が日本橋高島屋前の中央通りで買い物中の馬場夫妻を襲撃とかw
チープさが取り柄って酷い言い様だな。
そのチープさは自分達が日プロ時代に培養してきたものだろうに。
門がいうところの一流シナリオってどんなものかわからないが
映画やテレビのそれを指しているならその業界を見て見ろよといいたい。
プロレス記者は口を揃えて「プロレスがインチキだから
その記事もウソになるのは当然」と開き直り
インチキの誇大妄想=竹内宏介
妄想たかり屋=山本隆司
妄想与太=井上義啓
与太飛ばし屋=井上譲二
とも書いてるな(笑)
自分はどうなんだと、、、
アナザーストーリーで力道山特集
https://www.nhk.jp/p/anotherstories/ts/VWRZ1WWNYP/episode/te/Z9PWK39JZP/ 昨日はBSよしもと花王名人劇場で
桂米助(ヨネスケ)が『馬場vs猪木』という落語をやってた。
ティーバーでやるのか知らないけど、81年当時のプロレス界を面白おかしく落語噺にしていた。
ジータスで撮りだめしていた試合を整理してたらビル・ドロモ2度目の来日映像が、、
馬場は彼の性格の悪さを嫌って、最後まで全日には呼ばなかったが
米マットを含めると、力道山、豊登、馬場、猪木、大木、坂口
あと国際にも来日しているから、鶴田以外の殆どの日本人エースと対戦している。
(米マットでの別名ビリー・ズビスコや新日でのジ・インベーダー含む)
シングルに比べ、タッグは非アジア人が多かった。
日プロでは、超一流と少し格の落ちるコンビが王者になってるけど
全日で復活してオーツ兄弟や、まだ若かったエリック兄弟とかがなってるからなぁ〜
>日プロでは、超一流と少し格の落ちるコンビが王者
ジン・キニスキー&カリプス・ハリケーンとか
ザ・デストロイヤー&ビリー・レッド・ライオン、
キラー・カール・コックス&エディ・グラハムが当てはまるかな?
(このチームはアメリカでは、コックスが上でもなかったが)
こういう外人チームがアジアタッグを奪った時は、
同タイトルが、唯一のタッグ王座(必然的にNO1タッグ)だった時だ。
=インタータッグが日本に定着する前。
インタータッグ定着そして、猪木がアジアタッグ王者になってから
外人チームが同タッグを奪ったことがない。
正確には猪木がアジアタッグ王者に返り咲いてから
あと全日本では昭和六十年代は完全な日本人オンリー展開
>>418 昔は人種差別とか激しいのに上田馬之助と友達なんだからいい人なんじゃないの?
力道山の時代は別にして、インタータッグで影が薄くなったアジアタッグが
再び輝いていたのは、NET中継が始まり2局体制になってからだろうな。
面白いのは、69年にコンビで初めて来日したブルクラのバラ売り
8月9日名古屋のアジアタッグ王座決定戦 猪木・吉村vsリソワスキー・マハリック
8月12日札幌のインターヘビー級選手権 馬場vsブルーザー
8月14日広島のアジアヘビー級選手権 大木vsリソワスキー戦と
アジアタッグ選手権 猪木・吉村vsブルーザー・ミラノ戦
8月11日札幌と13日大阪で王座移動劇があったインタータッグはブルクラコンビ
王座の格からいってアジアタッグにブルーザー&クラッシャー組は使えなかったんだろう
ランザ&マリガンのブラックジャックスがコンビとして来日してたら
アジアタッグじゃなくてインタータッグの方だろうな。
だいたいコンビ結成が71年と遅いけど、AWA、WWWF、NWAでも活躍している。
ブルーザー・ミラノ組は、おぼろげながらテレビで見たのを覚えている。
「ミラノは、ブルーザーに触発されたのか?今日は荒っぽいですね!」
と実況されていた。
このチームなんかはインタータッグに挑戦しても遜色がなかったと感じる。
69年夏からNETが猪木主体で放送を始めた時は、猪木からみのタイトルマッチは
アジアタッグしかなかったから、シリーズのエースが挑戦した
(ドリー、エリック、キニスキー、バレンタイン等)。
大木&吉村のアジアタッグ王者には、来日中でもブルーザーやキニスキーは
挑戦していない。
>>426 ブルーザーの唯一のアジアタッグ戦だよな
とにかくアジアと北米はタッグの方が上のイメージ
>>427 新日に初めてもたらされた北米タッグも、新日の管理下に置くために
遠藤を窓口にマイク・ラーベルに働きかけて作ったタイトル
「闘いのワンダーランド」で放送されたロスの
パワーズ・パターソン組に猪木・坂口組が挑戦したNET中継最古の映像があるが
パワーズ・パターソン組も、黄金コンビが奪取したショッツ・ヘス組も
ダミーチャンプの可能性がある。(パワーズ・パターソンはタッグを組んで一緒に仕事した記録はなく
ショッツ・ヘスはNWF世界タッグ王者)
本来パワーズ・パターソン組から王座を獲りたかったが
パターソンのサンフランシスコのスケジュールが多忙ということで招聘を断念
事実パターソンは73年に来日してから76年までブッキングできなかった。
(アメリカでの実績と評価はパターソンの方が上)
日本にインタータッグをもたらしたゲーリン&パドーシスも典型的なダミー王者ですからね。
当初はビジランデスの予定だったそうですが。
インタータッグがフラッグシップタイトルになったのは66年秋だが
春の第8回ワールドリーグ期間中にはインタータッグ並みの試合があった。
4月27日大阪布施大会 アジアタッグ王座決定戦
△馬場・吉村vsスナイダー・モラレス△ (王座は空位のまま)
>>431 スナイダー・モラレスとは強力タッグですね。
モラレスは、現役WWA世界王者だったし。
インタータッグ日本定着まではアジアタッグがフラグシップタッグタイトル
だったので力道山時代は、デストロイヤー&バディ・オースチン組という
強力タッグも63年12月に挑戦しています。オースチンは、まだWWA王者に
なる前ですが、このチームはその後、69年にBI砲のインタータッグにも挑戦。
あと、インタータッグが空位だった72年暮れにG・キニスキー&KKコックスが
坂口&吉村のアジアタッグに挑戦。インターシングル挑戦経験者がタッグを
組んでアジアタッグに挑戦って、このチームくらいでしょう?
と思ったら、69年にオースチン&M・アトミック組があった。
>>432 オースチンは力道山最後の対戦相手だよね。
力道&豊登&吉村vsデスト&オースチン&パウロ(63.12.7 浜松)
後年、真樹日左夫が酒の席でオースチンと喧嘩になって勝ったと
「プロレス悪役シリーズ」or「空手バカ一代」にあったけど、本当なのかな?
信憑性をだすためか、69年11月5日ダイヤモンドシリーズ最終日青山のバーとまで描かれている。
ドリル・ア・ホールで新人2人を殺してしまったというのもギミックだったし
あやしいね(笑)
>>433 ても、あのパイルドライバーが危険な技だったのは本当。
膝に頭を挟んでタイツを掴むスタイルだったから、頭の固定が不安定になり脛椎を痛めてしまいやすい。
今日の安全パイルドライバーは、頭を大腿に挟んで胴体に手を回して固定している。
…まぁ何にしても、オースチンのような職人タイプのレスラーも昔語りだなぁ。
以上、スレチ気味で失礼しました。
>>433 証人は見当たらない もう片方の当事者はとっくに死んで真樹さん本人が語ってるだけだった。
真樹さんの話は憎めないおじさんの憎めない嘘だと話半分で聴いておけばよかったと思いますよ。
>>433 さらばアニキには梶原一騎と2人がかりでやっつけたと描いてある
>>434 オースチンのドリルアホールは、相手のタイツを引っ張って持ち上げるスタイルだから
体を持たないぶん自由落下するわけで、危険極まりないね。
タイツは引っ張ってないけど、蔵前のPWF戦で
ブロディが馬場に不完全なパイルで落としてヒヤッとしたことがあった。
まあ、オースチン式の復活はないかもしれないね。
>>435 梶原兄弟の創作でしょうね。
真樹さんも強面でダミ声だけど、どこか憎めないのは同感
ハワイで豊登の誘いを断り、猪木が第8回ワールドリーグに凱旋参加していたら
馬場・猪木・スナイダー・モラレスの4強(キムイルを含めると5強)が競う訳だけど
まだ11回や13回のような展開は早いかな?
その年、実際には東プロでバレンタインと好勝負するくらい成長していたが
馬場全盛期だからスナイダーに次ぐ3位がいいところか…
猪木が第8回ワールドリーグに参加したら、
スナイダーに負け、モラレスと引き分け。あとの6人には勝ち
日本陣営で、馬場(7勝1分け)に次ぎ、大木(6勝1敗1分け)と
同率2位じゃないかな?なお吉村は(6勝2敗)。
>>439 自己レス、猪木が第8回ワールドリーグに
すんなり帰国参加したなら、大木は、その大会に
出なかったようだな。
当時、大木は母国・韓国をメインにしていて
日プロは、猪木欠場の穴埋めに大木を参加させたと。
猪木参加の場合、やはりスナイダーには勝てず、
モラレスとは引き分けか、反則負け(負けた場合6勝2敗で吉村を同率)。
でも、猪木対モラレス戦は、スピード&テクニックの新しいプロレスで
ファンを掴んだと思う。
となるとやはり馬場猪木とスナイダーモラレスでのアジアタッグ決定戦か
インタータッグは誕生しなかったかもな
>>441 1966年秋に、日プロが。アジアタッグがあるのに
インタータッグタイトルを設立させたのは、猪木の東京プロレスが
アジア以上の広域を示すタッグタイトルを設立させたときに、
対抗するためと聞いた。
元々、当時の日プロに2個のタッグタイトルは不要だったと思うけれどね。
>>442 東京プロレスのNWA世界タッグに対抗するためにインタータッグ?の話は知らなかった。
>>443 以前、ドクトル・ルチャのブログでも幻のポスター見た記憶がある。
いつ変更になったのか知らないけど、ワットとケンタッキアンじゃなくてよかったね。
肩書きが第1回チャンピオンカーニバルのムリヤリ感を思い出すが
上田だけ日本ヘビー級ホープ(笑)
>>442 元々アジアタッグはタッグの二番手になる前はインターに続くタイトルの二番手だったんだよな
その意味でインタータッグはインターと並ぶトップ王座の位置付けか
NWAが世界タッグベルトを設定してないのが後々めんどうになったんだろね。
シャープ兄弟はあれはよくわからんのだけど、ともかく
世界がない以上、次にえらいのはアジア、北米、ヨーロッパになってしまうし
それで行くのはしょうがいないし当たり前。
>>440 この時点で猪木が日本プロレスに参加してたら、その後の展開はどうなってたかね。
東京プロレスのエースの肩書きで67年に復帰するのと、どっちが得だったか。
>>447 猪木が、1966年春のワールドリーグにすんなり
凱旋帰国したら、やはり最初の序列は、馬場の下の
NO2だろうね。下手すると、大木の下。
でも、段々、人気を博して、馬場とタッグ王者。
そして第11回ワールドリーグ優勝、、と同じルートを辿っただろう。
でも、あえて日本プロレスに戻らなかったことで、、
若くして新団体(東京プロレス)旗揚げ、蔵前でジョニーバレンタインと
伝説の名勝負、US王座獲得、馬場に挑戦状を叩きつける。
しかし、興行不振で団体を解散、豊登と告訴合戦。
そういう波乱万丈な猪木劇場も見られなかったわけだ。
それも猪木の勲章だと思うね。
「寛ちゃん、これ持っていけ。俺はもう使わないから」(64.4.27
サンディエゴ)
5歳年上で同期の馬場は、猪木にとってライバルというより兄貴といった存在で
馬場にとっても可愛い弟のような存在
66年3月13日、2年間の武者修行を終えて帰国途中に立ち寄ったハワイで
吉村、馬場、沖レフェリーと合同トレーニングを行い
16日には吉村と今後についてミーティングをもち、19日夕方の便で帰国し
25日から始まるシリーズの中で猪木の凱旋試合を行うという段取りまで決まっていた。
ところが帰国当日の午後になって…
運命というか、ドラマだねぇ。
で、すんなり帰国していたら >448さんの推測どおりの流れになるだろうね。
ただ、坂口のプロレス転向とか東郷の動向も気になる。
>>449 日本プロレスで馬場に迫る人気を誇った
猪木を、東郷派は引き抜きにかかるだろうね。
その場合、猪木が応じる可能性はある。
TBS旗揚げ戦は猪木テーズとな。
>>450 そうしたら、TBSプロレス、ひいては日本プロレス界の勢力図まで全く違ったものになったかもね。
テーズが猪木にどこまで花を持たせたかはわからないけど、少なくともあのグレート草津の無惨な敗退とは比べ物にならない試合になったことだろう。
猪木ならテーズに連敗した後、3戦目引き分け、
4戦目涙の勝利のシナリオでも、無難にこなせそう。
初防衛はホッジ。その後、東郷が離脱したら、
ロビンソン、ゴーディエンコと防衛戦。
70年はガニアに挑戦、71年はゴッチ戦。
72年はロシモフ、ジョナサン戦で盛り上がり、
73年には急成長してきたストロング小林との
日本人対決に踏み切るとかw
猪木がいれば小林はちょっと出にくいと思う
時代が違えばインチキブラザーズみたいな遊びもできるけど
動画ではぁ72年頃にゃあ馬場 猪木 坂口 小林の四大エース時代がぁあったなぁ。
全日 新日 日本 国際っちゅうにぃ各自がぁー団体エース時代っちゅうことでぇ。
でもぉ坂口がぁー73年にぃ新日合流してからぁ四大エース時代はぁ終わりング。
スター性っちゅう部分でぁ猪木がぁー他の三人を凌駕しちょったっちゅうにぃ。
しかしぃこん頃の猪木はぁまだまだぁ燃える闘魂はぁ確立でけてなかったかんな。
この後にゃあ小林もぉ結果的にぃ新日に合流して新日にぃ三大エース揃い踏みだしぃ。
そんな坂口と小林もぉ結果的にゃあ猪木の下の位置付けっちゅうのぁ当然だろぉ。
坂口はぁ早々にぃ猪木にゃあプロレスセンスではぁ勝てないっちゅうにぃ。
坂口だけでなくぅ当時はぁ小林もぉ猪木にゃあ同じ事を思うたはずだかんな。
>>453 そう言えば、猪木に「俺が誰かわかるか」と聞かれて「ストロング小林!」と答えたのがジョージ高野だったっけ?
インチキブラザーズって猪木と小林の事?と思ったので書いたよ。スレチ気味で失礼。
俺もスレチで申し訳ないけど、国際プロレスで行われた選手権一覧を見ていたら
1967年1月5日大阪府立で ダニー・ホッジvsヒロ・マツダのNWA世界Jr.ヘビー級選手権とある。
国際はNWAに加盟してないのに、認定選手権って開催できたんだな
それに、日本国内で行われた最初のNWA世界Jr.ということになるのかな?
猪木&マツダ組が国際との提携興行で
NWA世界タッグ(テネシー版)を開催するのはまだ分かるんだが…
ホッジvs松岡のリンゴ潰し対決もとい NWAJr.も国際でしたっけ?
>>457 坂口がリンゴ潰しをあっさりとやってみせて松岡に見せつけたと
門茂男が書いていたがすげー作り話臭いわ
>>457 ホッジ日本でのNWA世界ジュニア防衛戦
初来日の67年国際プロレスで、1.5大阪と1.30横浜でマツダの挑戦を退けている。
次は6度目の来日、BIの去った72年NWAタッグリーグ最終戦の10.31大阪で松岡に防衛
合計3度NWA世界Jr.の防衛戦を行っていますね。
それより何故、NWA非加盟の国際プロレスでタイトルマッチができたのか?
力道山がテーズのNWA世界ヘビーに挑戦した時も同様なんだけど
「NWAの認定、管理する王座はNWAの会員でなければ挑戦できない」
という馬場のロジックはデタラメだったのか?
1957年8月下旬〜10月上旬、テーズは日本の前に
シンガポールでキング・コングの挑戦も受けたらしい。
コングがNWA会員だったかどうかは不明だが、
このアジア遠征は、NWAとしては、「非公認」というか
まぁ一応、タイトルマッチはやらせてやる、
というスタンスだったのでは?
まずチャンピオンベルトは持参していない。
もっとも、その前6月にエドワード・カーペンティアに取られ、
8月、アジア遠征の直前に王座は奪回したが、ベルトはそのまま
カーペンティアが保持していたという。
で、テーズもアメリカに帰国後、11月、ハットンに王座を奪われた。
もう、それは既定路線だったんだろう。
>>460 >アジア遠征の直前に王座は奪回したが、ベルトはそのまま
カーペンティアが保持していたという。
マソニックとテーズがカーペンティアを泳がせたらしいね
二人のチャンピオンで儲けるために…
これがきっかけで、各プロモーターが自らも世界王座を設定する流れになり
テレビが全国区から地域限定に変化するように AWA、WWWF、WWAと誕生したのかな
>それは既定路線だったんだろう。
NWAの権威とか何だったんだろうね(笑)
新日が3度目の申請でNWAに加盟できたのも
今回却下したらアンチトラスト法で訴えると通告したからというし
>>461 やれNWAだWWWFだと言っても、所詮はプロモーターの集まり、言い換えれば商店街のおっさんの寄合みたいなものだから。
ある時代に最大勢力を誇ったのがNWAだったというだけの事で、ハナっから権威なんてものはなかったと言える。
>>462 だから馬場にしたって、NWAの勢力が落ちてからは、その見かけ上の『権威』に頼れなくなって、日本人対決路線にシフトせざるを得なかったし、『今さらNWAでもないでしょう』と言うしかなかったわけだ。
>>461 記録によると、1957年6月14日、シカゴでエドワード・カーペンティアが
テーズを破り(3本目は反則勝ち)、世界王座を奪取し、世界王者として
防衛戦を行ったが、8月25日に王座移動は、無効と言う裁定が下った。
その翌日、テーズは日本を初めとするアジアツアーに旅立つ。
一応、世界王者というポジションは保ったんだ。
でも、カーペンティアはベルトを返却せず、各地で防衛戦を行い、
コワルスキー(ボストン)や、ガニア(オマハ)、ブラッシー(ロス)に負け、
その地の世界王者を発生させてしまった。
しかし、57年8月26日〜10月25日(日本でのテーズツアー最終日)まで2か月間、
アメリカで正規のNWA世界王者はいなかったわけだね。
カーペンティアが代役を務めたとも言える。
どっちにしろ、1948年のNWA発足から57年まで9年間(途中、ビリーワトソンに8か月、
王座を明け渡したが)、世界王者に君臨したテーズも、57年秋で、王者から
一旦降りることになった。後任は、当時、絶大なる人気を誇ったバディー・ロジャースが
有力だったが、テーズは、「あんな奴に負けるのは嫌だ!」と拒否。
ちゃんとレスリングが出来る本格派のハットンなら譲っても良い、とのことで移動。
でもハットンは地味で人気がなかったそうだ。
長文、失礼しました。
>>462 NWAの権威の最大本質は一つの王座を共同で推戴したという点に尽きる
NWAに権威があったからこそ新日も加盟したかったんだろ。
NWAはアメリカの広域を抑えていたが、
WWWFは、何といっても本拠地が大都会ニューヨーク、
そして世界の檜舞台、MSGだもんな!
馬場が日本人初のNWA世界王座を奪取し、日プロOBから出されていた声明文
「猪木vs大木、猪木vs小林(再戦)の勝者と馬場くんは闘うべき」に対する馬場の思いは
「猪木よ、お前と俺とでは立ち位置が違うんだ。日本選手権だのゴチャゴチャ言ってるが
こちらは世界一だぞ。お前にこの真似が出来るか!?」というものだったろう
>>467 75年7月25日馬場とのテキサスデスマッチに破れたエリックは
8月3日ラスベガスのNWA総会で、マソニック後任として新会長に就任
新日の加盟申請を条件付きで認めると発表。その条件とは
1.馬場とは互いのテリトリーを侵食することなく、共存共栄をはかること。
2.全日本に来日している外国人レスラーは招聘出来ない。
3.猪木のNWA世界ヘビー級王座への挑戦は1年間は認めない。
というもので、猪木はメリットがないとNWAに対する興味を失っていった。
これが異種格闘技路線に走るきっかけとなった
>>471 これの原案を誰が考えたかあれだが
当時は1年間経てばNWAに挑めるんだから儲けじゃないか、と思った。
1年くらい待てばいいのになんでメリットないなんて猪木はいうんだ? と。
でも1年間がまた継続される自動更新みたいなニュアンスがあるのが
大人になってわかった。それぞれはなるほどと頷ける内容で
受け容れても全部寄せるとなかなか厳しい固い状況しか想定できない。
とてもうまい文言だと思う、得にNWAは加盟料が入って損はないし。
加盟したい側に「独禁法で訴える」と、半ば脅されたわけだから(笑)
馬場(マネー)や反主流派に配慮したんでしょうね。
>>473 独占禁止法。
あなたもそうだと思うけど当時のゴングやらから
その中身、内容はともかくアンチドラフト法って呼び方で覚えたよ。
のちに授業で独占禁止法のなんたるかを習って繋がった。
創設8年目のNWAは、1956年にインディー系プロモーションに
反トラスト法違反で告発され、違反を認め妨害しないことを約束しているね。
結果、告発していたプロモーターも加入し、カルテルの一員となり
NWAの勢力はより拡大している。
その翌年にカーペンティア騒動が起きているんだな。
>>478 11年ぶり2度目の来日(68年)
6月25日愛知県体育館で馬場からインター王座獲得
26日大阪府立でオルテガと組んでBI砲とノンタイトル
27日蔵前で馬場にインター王座を奪還される。
70年1月には弟ハンク・ジェームスと組んでBI砲に挑戦したんだよな。
あまりの不甲斐なさに兄ブラジルの怒りをかったけど、月末に予定されていた再戦では
ブラジルのパートナーがデール・ルイスに代わっていたw
その夏初来日したテリーも、ファンクスとしてBI砲にストレート負けだったが
賢兄愚弟ではなかった。
マスカラス兄弟はサイコデリコ(シコデリコ)が期待外れだった。
ハンクジェームスというからには兄ブラジルの本名は
なんたらジェームスというのかと思ってたら違うんだもんな
プロレス界って複雑だわ。
>>481 異母弟だから。
1970年当時 ブラジル46歳、ジェームス33歳
>>480 大阪でのメインは大木と吉村のアジアタッグだったんだよな
蔵前で馬場がインター王座を奪還した試合は
なぜか翌69年ワールドリーグ開幕の前の週に放送されたらしい。
>>480 70年新春シリーズは、ジンとオレイのアンダーソン兄弟(ビジネスだが)も
来日していた。ブラジルとジンの兄貴同士タッグでアジアタッグにも挑戦。
こっちの方がブラジル&デール・ルイスのインタータッグ挑戦組より
強そうな気がした。
とにかく、ハンク・ジェームスはダメだったなぁ。来日前も全く無名だったし、
ブラジルが推薦したとしてもインタータッグ挑戦権を与えてはイケない選手だったよ。
だいたいフォールでストレート負けするというのは、挑戦権がないというに等しい。
アンダーソン3兄弟、デール・ルイス、ボブ・ループ…
個人的な感想だけど、70年の日プロは、テリー、ブッチャー以外
地味なレスラーが多く初来日していた印象で、ラッドは期待外れ。
国際は改名前のアンドレ、ガニア、(少し期待外れの)カーペンティア等
まだ見ぬ強豪にワクワクしたなぁ。
>>486 1970年、日本プロレス、初来日組で期待外れは
ザ・コンビクト(ワールドリーグ)、カール・ハイジンガー(夏)
アーニーラッドとロッキー・ジョンソン〔夏)、レス・ロバーツ(暮)と
ゴングが推奨したメンバーばかりだ。ハイジンガーと共に初来日した
ジャッキー・ファーゴは有名選手だったが、ピークを過ぎていた。
期待以上はブッチャーと、同時に来日したプリンス・ピューリン、
期待通りは、テリーと秋のビッグ・ジョン・クインといったところかな?
あとゴールデンシリーズに来たドン・カーソンもまぁまぁだったが、
再来日はなかった。
>>480 シコデリコは客入れ前の会場でイスにトペスイシーダかましたり
ちょっと頭のネジがアレなメヒコな人だったらしい
懲りたマスカラスはドスにはしっかり経験を積ませ
もう日本に連れてきてもいいだろうと見極めてから帯同させた
昨日は「世界格闘技の日」なのに、猪木アリ戦のネタは尽きたかなw
考えたらキワモノ過ぎるけど、俺は79年に実現寸前までいった
康芳夫企画の猪木vs独裁者アミン戦(レフェリー=アリ)は見たかった(笑)
どちらが勝ってもヤバい試合だけど、シナリオはアミンが尊敬する
レフェリーアリの存在がキーポイントになりそうかな?
ウガンダの内戦がなかったら、本当にやる気だったんだよね。
>>481 ブラジルの本名はヒューストン・ハリス
余談だが、アニメのタイガーマスクには『ポポ・アフリカ』ってのが出てきたなwww
猪木とアミンの試合はぁアミンの亡命がぁなかったらぁ実現しちょったぞぇー。
当時の話を聞いちょるとぉ諸々とぉかなりぃ進展しちょったみたいだかんな。
しかしぃそん時のアミンはぁ既にぃ50前後だったとかだからぁ厳しかったなぁ。
猪木はぁ79時点でぇまだ36だったからぁ年齢的にぃアミンはぁ不利だぞぇー。
アミンはぁボクシングやっちょったからぁボクシングの動きはぁでけたしぃー。
でもぉ年齢的にゃあ50前後っちゅうたらぁ常識的にゃあ論外 圏外 問題外だなぁ。
幾らアミンがぁ2メートル級っちゅうてもぉ50前後の年齢じゃあヤバイかんな。
そんなアミンにぃ負けてもぉたらぁ猪木はぁ逆にぃ立場がぁーなかったんよぉー。
でもぉ猪木とアミンの試合はぁ見たかったっちゅう気持ちになってもぉちゃりぃー。
こん時の事ぁリアルではぁ知らぬ存ぜぬだがぁー、詳細はぁわかっちょるぞぇ。
取り敢えずぅこの対決はぁ実現して欲しかったっちゅう気持ちだかんな。
どうでもいいけど、495は誰の口真似を文章化したものなの?
79年異種格闘技戦の中では、レフトフック・デイトン戦が一番よかった。
でも、あの白いリングシューズには何か意味があったのかなぁ?
チョチョシビリに負けた初戦も濃紺のアマレスシューズだったし…
猪木動画を見たけどぉーかなりぃ回復しちょるからぁちょっくら安心したなぁ。
しかしぃ猪木の喋りングはぁ呂律回っちょらんからぁ見ててもぉキツイぞぇー。
こっちはぁ猪木動画にゃあ毎回必ずぅコメントをカキコっちょるかんな。
いやっ、あんまこぉゆぅ事をカキコるとぉ身元を探されてもぉちゃるぞぇー。
そぉなりゃあ住んどる場所でぇ真夜中にぃ原因不明の出火されてもぉちゃるしぃ。
猪木もぉゲッソリ痩せてもぉてぇこの数年ですっかり変わってもぉたかんな。
でもぉ1年前のぉ今頃に比べりゃあかなりぃの回復具合んなっちょるんよぉー。
去年はぁ流石にぃ猪木もこんで終わりか、っちゅうにぃ思うてもぉたしぃー。
コロナにもぉ感染しちょったらしいしぃー、猪木ぁ生命力がぁー強いだろぉなぁ。
これぁ鍛えてどぉこぉよりもぉ生まれ持った部分っちゅうにぃ思うちょるぞぇー。
あの年でコロナん感染すればぁー命落としてもぉ不思議じゃあないかんな。
坂口みたいにぃ病気んなっちょらんかったらぁ元気なのもぉわかるけどもぉー。
まぁ実際にぃ坂口がぁ病気か病気じゃないかはぁ実際にゃあわからんけどなぁー。
後はぁ同世代の小鹿はぁそぉ考えっとぉ本当にぃ凄いっちゅうにぃ思うぞぇ。
あの年でリングに上がっちょるっちゅうのぁ常識的にもぉかなりぃ凄いかんな。
まぁ相手もぉ小鹿にゃあまともにゃあ攻撃はぁ怖くてでけないだろぉけどもぉー。
>>494 ポポ・アフリカの一番弟子ブラックVにキラー・カール・ポップスとか、サン・ガニア
ハンス・シュレッガー、ブランチー、ディック・アルフォンヌ、サンルチアーノ
ドン・ルカーチ、ターザン・メイラー…
なぜかジャック・ブリスコは、そのままでw
NYの大物プロモーター、ビッグ・ボースンとかも登場した。
>>500 あったね。ちょっと笑った。
ルー・ケーズをお忘れなく…www
>>498 ウェップナー戦はフィンガーグローブだし
>>502 佐山が、ブルース・リーが映画で使用していたグローブに目をつけ改良したやつね。
ということは、オープンフィンガーのルーツはジークンドーになるのかな?
あと格闘技戦じゃないけど、ジャック・ルージョー戦で黒のロングタイツもあった。
細菌が入り込んで膝関節に広がる感染症は、師匠ゴッチも馬場戦の前にあったような
>>503 せっかくスポーティで洗練された印象を与えるアイテムなのに
冒頭シーン、スパーの相手がサモハンてのがw どういう意図だったのか
一昔前の海外武者修行から凱旋帰国して、帰国第一戦で成長した姿を見せつけ
一気にメインイベンターになるというのは、馬場が最初になるのかな?
もちろん日本で基礎を習い、付人や下積みを経験してからの海外修行(遠征)になるわけで
帰国してもスター性やセンスがなければ出世街道に乗れないけど。
あと、馬場も坂口も修行時代はヒールで使われたけど
猪木や鶴田はベビー扱いでいいの?
それとも、ベビーもヒールもやるオールラウンダー?
サモハンキンポーがタップした技は長州の得意技クルスフィックスだな
ちなみにあのシーンがリーが最後に撮影したアクションシーンだったとか
ってかさ、新人時代は基礎体力向上といざという時のためのガチを
叩きこまれて、リアルなプロレス実務を教わるのが海外修業時代であり
それが力道山日プロ~新日の日本マット界の流れでしょ?
海外修業は自動車教習所の路上教習みたいなもん。
逆に馬場並びに全日本が異質だったわけで。
>>505 豊登も帰国後に力道山とアジアタッグ獲って格上げたし、
海外遠征でステータス変えるのは馬場よりも前に確立はされてたんじゃないか
まさに後の馬場と鶴田のインタータッグのパターンなんだよな
こうした後継者候補とのタッグ王者はこの二例だけだったか
日プロ崩壊寸前に海外遠征に出された 安達、戸口、永源達は複雑だったろうね。
出世街道も約束されず、片道切符で島流しされた気分だったのかな
全日本への戸口の登場はまさに凱旋だったな
鶴田も出来なかったインタータッグの一発取りもやってのけたし
全日本への戸口の登場はまさに凱旋だったな
鶴田も出来なかったインタータッグの一発取りもやってのけたし
戸口はぁもぉちぃとぁ上手く活かせたらっちゅうにぃ思うてもぉちゃるぞぇー。
それはぁ全日だけでぁなくぅ新日でもぉ上手く活かせたらっちゅうにぃー。
幾ら昭和はぁ日本人レスラーが大きかったっちゅうてもぉ戸口はぁ逸材だかんな。
あんだけの大型だったからこそぉもっと活かせればぁ勿体ない限りだぞぇー。
まぁ戸口自身がぁー向上心がぁなかったんかぁわからぬ存ぜぬだけどもぉ。
日本とアメリカの二足草鞋だったからぁ日本で活かせなかったのかもなぁー。
でもぉ戸口はぁやっぱりぃ扱い方がぁー勿体ないっちゅう気持ちになるゎなぁ。
全日残ってもぉ後々にはぁ天龍に抜かれちょったっちゅう意見もあるしぃー。
>>513 言いたい事はわかるんだけど…読みづらい
>>514 戸口は運がなかったというか運が悪かったのでしょう。
戸口が新日に移籍した直後に国際が倒産。
木村達残党三人は新日に殴り込みという形で新日に上がる事に。
新日側も戸口(やブッチャー)より国際軍団との絡みを優先にしたのです。
だから戸口の存在は一気に薄れました。
ブッチャーからしても本当に運が悪かったと思います。
あの時期に国際軍団が新日に上がらなければ。
そうなれば戸口やブッチャーはもっといい扱いをされたでしょう。
でも戸口は日本とアメリカを往き来した状態。
扱い方は難しかったでしょう。
どうせなら戸口はブッチャーと組んでヒールに徹すれば良かったと。
そうなればもっといい扱いになったと思ってます。
いい扱いは短期間だったかも知れませんが。
上田みたいなスタンスなら良かったのですが。
戸口の扱い方は本当に勿体ない限りでした。
武者修行とは別に、海外遠征で化けた小沢や高千穂は
キラー・カーンやグレート・カブキのままで帰国し、ブレイクした。
できたなら、アマリロやダラスで大人気(本人談)だった
小鹿のカンフー・リーも見たかったな。
普段は熊さんとの極道コンビとして、シングルの時はカンフー・リーで。
(後に武藤が二役やるが)
まあ残党組だし、当時はそんな発想も需要もなかったのかなw
あと、王者になって凱旋した藤波・大仁田・前田とか
覆面レスラーに変身した佐山・高野・平田・山田とか
帰国組もいろいろあるね。
メヒコでトップルードにのぼり詰めながら帰国したらまた前座中堅の栗栖
名前もグランになって帰ってきた浜田との扱いの違いは…
170ない浜田なんて、全日では入門すら許されてないだろうな
浜田が前日に来てた頃、全日のレスラーの「小人プロレスの前に試合やらせるのか」
とか言う声があったと何かに書いてあった。
あんなゴツいミゼットはおらんw
同級生の関川を車で送って行ったら自分もスカウトされたという昭和のアイドルかって話をしていたが
まあ黎明期の新日と考えると真実味が出てくるな
そのスカウトもクルマ目当てでさっそく取り上げられて社用車にされたというのも
>>515 戸口が言ってるようにやはり鶴田とUNでフルタイム戦をやった時がピークだったのか
カンフー・リーって、どんなスタイルだっただろうね。
コスチュームは中国風だったんだろうが、やっていることが。
グレート小鹿と同じだったら、受けないだろう。
小沢は、海外遠征前は、いち前座選手で、あまり知られていない。
確か、藤波とのカール・ゴッチ杯決勝時にちょっとテレビに映った程度。
で、風貌も大きく変わった。
高千穂→カブキは顔をペインティングしたし、ファイトスタイルも大きく変わった。
王者になって凱旋帰国したのは1969年のストロング小林(IWA世界タッグ王者)
が最初かな?と思ったが、1950年の東富士じゃないかな?
(ハワイタッグ王者、パートナーは力道山)
画像ものすごく汚いけどKung Fu Lee、ハンセンにも勝ってたな。
>>521 新日は戸口を欲しかったのではないみたいですね。
全日潰しというか全日にダメージを与える手段で。
ブッチャーに関しても猪木は欲しいと思わなかったみたいですからね。
新間やトルコと大塚?が欲しがって獲得。
大塚曰くブッチャーは知名度あるから地方でも使えるとかで。
結果的にブッチャーと戸口は飼い殺し状態になりました。
新日はレスラーを“物”としてしか見てなかったとしか思えません。
それも外人トップと全日No.3を。
マードックに関しても同じく。
マードックの場合は後々には新日常連として重宝されましたが。
全日の方が獲得した選手を大事にしていたと思いますね。
ハンセンは言うに及ばず。
シン、上田、チャボもそれなりに重宝された扱いでした。
シン、上田は頻繁に呼ばれてチャボもジュニア王者になったりと。
>>521 でも移籍した彼等はあのまま残るより移籍の選択肢しかなかったかも。
ハンセン意外はそのまま残ってもマンネリで埋没したでしょう。
でも長年同じ団体でトップ張るのは難しいですね。
ハンセンだけは異例ですが。
ホーガンは途中で来日しなくなりました。
WWF王者になって来日できなくなり。
アンドレ ファンクス マスカラスと彼等も衰えてゆき。
アンドレも一時期来日しなくなりましたが。
長年だと世代交代でトップから中堅の位置付けになりますね。
あとは来日しなくなったりインディーに上がったりと様々で。
まあブッチャーと戸口に関しては本当に勿体ないとしか言えませんね。
>>523 カンフー・リーは、デビュー戦のTVマッチでKKコックスと引き分け
数ヶ月前までNWA王者だったドリーと30分ドロー
テリーからはウエスタンステーツヘビー級王座を奪取
遠征してきた馬場ともインタータッグに挑戦
ダラスに移るとエリックに「永住権を取ってやる」とまで言われたらしい
以前はロス地区でも成功してるし、帰国して日本でのポジションを考えると
本場マットの方が財を成すと思うし(日本へはスポット参戦)
それの方がよかったんじゃないかな。
ついでにカブキさんもw
>>518 パシリ要員で入れてもらえるかも。
タイミング次第だろうが。
>>527 でも、佐山がいなかったら藤波の後釜は浜田になっていたのかな?
もちろん、梶原も浜田程度の動きでタイガーは名乗らせないと思うから
素顔のグラン浜田としてだけど。
一応、藤波によってジュニアヘビーが定着したから
そのまま自然消滅ということはないと思うんだよね。
スレ違いの書き込みしたから猪木の話で
2021年1月より大病で入院して、転院はあったが
そこに何度も見舞いに訪れる美津子さんの姿があったそうだ。(『アントニオ猪木』瑞佐富郎著)
>>528 佐山がいなかったら、
藤波のジュニアの後継者は
ジョージ高野だったでしょう?
(実際、佐山の次になったけれど)
ジョージのバワイはぁ後々にゃあヘビー志向だったからぁ微妙だぞぇー。
でもぉ藤波みたいにぃジュニアを経てからぁヘビーっちゅう流れんなったかもぉ。
まぁジョージからすりゃあコブラはぁでければ避けたかったとかだしぃー。
佐山タイガーの後釜っちゅう時期がぁーかなりぃ悪かったっちゅう感じだぞぇー。
佐山タイガー引退直後っちゅう時期だからぁ嫌でも比較されてまぅかんな。
ジョージ的にゃあ佐山タイガーの後釜にされたのがぁ嫌だったみたいだしぃー。
そりゃああの佐山タイガーの後釜にゃあされたかないっちゅうにぃなるゎなぁ。
しかもぉヘビー志向のジョージからすりゃあお断りしたかったっちゅうにぃ。
でもぉ当時の新日の意向にゃあ従わざるを得なかったからこそぉ仕方ナッシング。
ジョージのバワイはぁマシーンとの烈風隊ん時がぁー最も良かったぞぇー。
烈風隊ん時がぁージョージ、マシーンと二人共ぉかなりぃ輝いちょったかんな。
ジュニア王者の扱いってのは二つなんだよな
ヘビーに混ぜるか別枠にするか
藤波が前者で佐山が後者
>>528 別に佐山だってカジが事前にテストしてゴー出したわけじゃないだろ
全盛期の浜田の動きならまあ及第点はもらえただろう
ただ既に名前があり体型も特徴的なのでボツになったのは周知のとおり
新日の選手の進路は二つなんだよな
新日に留まるか、別の団体に移籍するか
藤波が前者で佐山が後者
梶原一騎が出したタイガーマスクの条件は
「コーナーの上に立てること」だけだろ?
新日の選手のスタイルは二つなんだよな
素顔で通すか、マスクを被るか
藤波が前者で佐山が後者
>>534 進路が留まるか、移籍するかの2つなんて、どこの団体でもそうだろw
逆に佐山がプロレスに没頭して、新日を辞めなかったら
UWFも総合格闘技もどうなっていたものかね。
BI以外で初めてプロレス大賞MVPを受賞したのも初代タイガーだったし
もう少し身長があったら、猪木の後継者本命だったんじゃないかな
日本プロレス史で間違いなく重要人物の一人でしょう。
>>539 倍賞美津子さんは男前だねぇ。
日プロを追放され資金繰りに苦しんだ時は「これ、アントンには内緒ね」と
300万円、500万円と新間を通じて振り込んだというし
離婚した時には「離婚した理由は言いたくないんです。一度自分が責任もって
好きになった人の悪口は言いたくない」と雑誌のインタビューで答えていたし
2002年5月2日東京ドームで行われた、新日本プロレス30周年でサプライズゲストで登場した時は
「あの時の私ってきっとすごくいい顔してたと思う。
人を一生懸命愛した記憶って、たとえそれが別れにつながっても
素晴らしいことなんだなって改めて思いました」と語っている。
美津子さんが見舞いに行ってる話は知らなかったけど
今の猪木にとっては、一番の励みになるだろうね。
>>538 佐山にもう少し身長があったら、あの動きは出来てないかもしれない。
そうなると歴史の全部が変わってくる可能性が。
銃撃されたディノ・ブラボー、ハンス・ナイマンを思い出した、、、
安倍さんで思い出すのは、猪木の国会質問で
何故かサンマルチノとホーガンの名前を挙げていた。
猪木とサンマルチノはタッグでしかやってないよな?
まあガチで子供の頃見てないとサンマルチノの名前は出てこないけど
猪木がサンマルチノにシュート仕掛けたけど返り討ちされたと米国では報じられてた
から安倍さんの猪木への嫌がらせみたいにも思えるけどそんな話安倍さんは知らんかった
ろうな。
>>545 安倍さんが中高生の頃にBI砲が全盛だもの
BI砲で馬場のライバルでもあったサンマルチノ、新日でホーガンって人選だったんじゃないかな
あとサンマルチノは、当時大ヒット中だったブルーノ・マーズの影響もあったのかも(芸名ブルーノの由来が人間発電所)
https://news.yahoo.co.jp/articles/48deb47c4271e393f8b2d9307407046ddbe5735d サンマルチノというか、当時は人間発電所とか世界一の怪力男とかいうフレーズの方が
小中学生の間では有名だった気がする。
プロレス人気あったから、安倍さんがサンマルチノ知ってても不思議じゃないよ。
68年にテレビで見た BI砲vs.サンマルチノ&Rスチーブンスのインタータッグの記憶かな
サンマルチノはアジアタッグには挑戦してないんだよな
インタータッグには挑戦してるんだよね
キラーコワルスキーとのウィッグタッグ(韻)
>>550 コワルスキーなんて般若面なんだから、スキンヘッドの方がよっぽど迫力ある
たまたま中学生の頃(1968年)、猪木とサンマルチノの対戦
(インタータッグ)を見て、印象に残ったのかとも思うが、
猪木のライバルとして、サンマルチノを挙げたことからして
安倍氏は、そんなにプロレスを見ていないね。
熱心なファンなら、ドリーファンクかクリス・マルコフを挙げる。
サンマルチノは、あと67年3月に初来日だが、この時、猪木は
日本プロレス復帰前。その後、71年11月に3度目(日プロ最後)の
来日はしているが、猪木とサンマルチノは3度タッグ(その内、一回は6人タッグ)で
対戦しているが、テレビ中継はあったかな?
その後、全く、両者に接触がないのはご存知の通り。
安倍さん、日本でも有名な外人レスラーとしてサンマルチノの名を挙げたの
かも知れないが、なら、デストロイヤーやブッチャーの方が有名で、
シングルで猪木と数度、対戦している。
安倍さんがガキの頃から日本プロレスのコミッショナーは歴代自民党副総裁が務めていた。
政治家一家とプロレスは意外と繋がりがある。
単に誰かが書いた原稿読んだだけだろ
プヲタピュアすぎw
全盛期のBIコンビを実況した徳光の馬場観と猪木観(『猪木と馬場』斎藤文彦著)
「才能があったのは猪木さんで、馬場さんは努力の人」
「先輩の清水さんと私は、馬場さんはすごく強いと考えていました。だから我慢もできる。
若いころは技のキレも素晴らしかった。馬場さんこそストロング派。
練習に練習をかさねて、肉はつかなかったけれどスタミナがあった。
だから、サンマルチノ、キニスキー、ブラジルなどとフルタイムの引き分けが多かった」
つづき、
「力道山は寛ちゃんを『技の魅せ方という点では本当に才能がある』と評価していた。
力道山がそう言ってたそうです。ショーとして魅せることのできるレスラーであると。
力道山は若かりしころの寛ちゃんが自分に似ていると考えたのでしょう」
「猪木が長嶋茂雄なら馬場は王貞治であり、猪木が江川卓なら馬場は西本聖」
・・・んっ??なんか違う気が
>>550 なんだその四角い紙パックジュースみたいな
サンマルチも来日は8回と、決して少なくないが、
そのほとんどは特別参加。
シングルは日本陣営では馬場としか行っていないよね?
外人含めても、67年初来日時にセーラー" アート・トーマスと対戦しただけ、
(その日、馬場と吉村はインタータッグ戦、猪木は日プロ復帰前、
順当なら大木と対戦するところ、サンマルチノが拒否したとか)
とにかく、これだけ来日して極端にシングル戦の相手が少ない選手も珍しい。
いわゆるリーグ戦参加や、他の強豪外人(キニスキーやドリー等)とドリームマッチも
行っていない。馬場戦以外に名勝負もないし、ボロも出していない。
>>559 全日本旗揚げシリーズで杉山、大熊、クツワダと
81ジャイアントSでブロディと
シングルでやってる
>>556 徳光の言うことなど真に受けてはいけない
>>654 木戸修vs.百田光雄、安達勝治vs.戸口正徳
この2試合興味あるなぁ
昨日の隼人マッハ動画にゃあ猪木とブルーノの試合がぁー特集されたぞぇー。
取り敢えずぅ二回の試合をぉ取り上げられちょったがぁ結局はぁ二回だけみたいだしぃ。
安部元総理がぁー当時はぁこのどちらかの試合を見て熱狂したらしいかんな。
ブルーノはぁ馬場との義理や絆からぁ新日にゃあ絶対に参戦しなかったんよぉー。
WWF王者時代にもぉ新日にゃ絶対にぃ参戦しなかったっちゅう徹底ぶりぃ。
そぉゆぅ経緯からブルーノはぁ猪木とぁ日プロ以外の対戦はぁナッシングゥー。
新日はぁWWFと提携してもぉブルーノだきゃあ新日にゃ参戦せずだぞぇー。
WWF王者がぁバックランドんなってからぁWWF王者がぁー新日にぃ。
>>563 >>564にあるように
馬場&大木&小鹿対サンマルチノ&マードック&R・タイラーだったが
試合後のインタビューで、馬場が「マードックは強くなった」
という言葉が印象に残っている。
>>569 マードックは、68年共に初来日だったレイスがインタータッグに
挑戦したことで
出遅れた感があったが、もともとレスリングセンスは抜群で
71年、2度目の来日ではアジアタッグ(2度)、UNヘビーに挑戦
翌72年最後のワールドリーグではモンスーンに次ぐ副将格だったよね。
(この大会でブッチャー虐めがあったのか)
あとレイスのインタータッグ挑戦は初来日だけだったんだよな
>>571 >>572 マードック初来日では、テネシー・レベルとのコンビで
大木&吉村のアジアタッグに挑戦してるね。
レイス2度目の来日からはアジアタッグ要員になった。
猪木&吉村vs.ドリー&レイス(夢のアジアタッグだね)
3度目来日ではバレンタイン、キニスキーと組んで猪木&吉村組に挑戦
72年日本プロレス最後の来日では坂口のUNヘビーと
ボブ・グリフィンと組んで坂口&吉村のアジアタッグ挑戦
以降、全日本の常連になる。
最後の時はインタータッグが流出中だったからそうでなけれはインター挑戦のブラワーと組んで挑戦してたかな
>>573 グリフィンの前に元NWA世界ジュニアヘビー王者のモンローと組んでも挑戦
そのスプート二ク・モンローが、全くダメだったらしい。
同シリーズ、エース格で来日したブルドック・ブラワーも
68年TBSプロレスオープニングに次いで2度目の来日。
馬場のインターにも挑戦したが、その後、どこの団体からも
お呼びがなかった。国際あたりに参加したら、面白かったと思うが。
また、彼は、カナダモントリオール地区インターナショナルチャピオンベルトを
締めている写真があるが、
http://www.showapuroresu.com/belt/local/oversee.htm 同王座に就いた記録がないんだよね。
https://www.wrestling-titles.com/canada/qc/qc-world-h.html#iwa レイスじゃなくてブラワーがエースなんだよな
翌年にレイスがドリーを破った時の日本のファンの反響はどうだったのか
>>577 その時のファンとしては、全く意外だった。
レイスも良い選手だが、相撲で言えば活きの良い小結かせいぜい関脇。
2か月後に本命ジャック・ブリスコに取られた時は、
「やはり、レイスはつなぎの王者」
「WWWFで言えば、(サンマルチノを破り、モラレスに王者を譲った)
イワン・コロフのようなものだ」と思ったよ。
>>577 俺も>578さんと同じで、テーズ・キニスキーときてドリーで新時代に突入と思ったら
ラフ&テクニックもこなすが、突出した雰囲気もなかったレイスが
大NWAの看板になったから驚いたね。
でも実際はドリーが長期政権に疲れ果て、次はブリスコに決まっていたらしいが
ドリーがブリスコに破れての王座転落を嫌い、レイスを繋ぎにしたみたいだけど。
そのへんはワンマンで次期王者を決められるAWAやWWWFのような団体と違って
マソニックとファンク・シニアの駆け引きとか、知れば知るほど政治の世界と一緒で笑える。
ちなみにヒューストンでレイスが初戴冠した73年7月20日は、ブルース・リーが急逝した日らしい。
>>578 ふーん、あの偉大なチャンプがそんな見方をされていたとは
それからはじまる大レイス♪ なんてね
レイスの本格政権はやはりテリーを破っての第二次政権からだろうな
この辺りは安倍元首相のパターンで
レイスがNWA王者だったころはWWFとのダブルタイトルマッチもやってたよな
斎藤文彦あたりがWWFはニューヨークだからマーケットがデカい
NWAは田舎プロモーターの集団でしかない、みたいな事言ってたが実際どうだったんだろう
>>580 レイスは最初のNWAから陥落した後の最初の全日本での来日で初めて馬場のシングル王座に挑戦したんだよな
>>582 レイス対グラハム、レイス対バックランドが実現して、当時は凄いことだと思ったけど
WWWFがNWAに加盟していた時期で、NWAとPWFのダブルタイトルマッチと同じなんだよねw
>NWAは田舎プロモーターの集団でしかない
というか、NWAはプロレス団体じゃなくて
アメリカ中に点在する大小のプロレス団体(或いはプロモーター)がNWAに加盟して
カルテルを結成。世界王者をシェアする仕組みだから
AWAやWWWFと規模が違うんだよね。
あと斎藤文彦は、フランク・ゴッチから始まるNWAの系譜についても
サム・マソニックの捏造(ルーツをたどれば繋がるが)を、昭和30年代の日本のマスコミが
そのまま翻訳しただけで、Fゴッチの統一王座とNWAとは全く別物らしい。
NWA王者も、テリーの次はマードックか
ボブ・バックランドを考えていたんだろうが、
前者は、本人にやる気がない、後者はWWWFに
転出。レイスがその後、長期政権を築いたのも
適任者不足という面もある。
まぁ長期といっても77年〜83年まで
王座期間を単純に計算すると3年7カ月ほどで
ドリーの4年3カ月より短いのだが。
>>585 ブリスコでは地味で集客力がなくなり、テリーとレイスが次期王者の候補に上がり
NWA会員で投票ご行われ、同数だったため 新会長エリックがテリーに投票して
兄弟揃ってのNWA王者が誕生したみたいね。
そのテリー政権も離婚問題でサーキットが出来なくなり、王者候補は何人かいたが
結局、ファンク一家の息のかかったレイスに落ち着いたと、、、
>>568 つまんねー文章だから、相変わらずレスつかねーなw
>>586 まあ最初の短期王者時代に本格王者の資格ありと認めさせてたのが大きい
一期目はサイケパンツ履いてていかにもフロックな人みたいな感じだったね。
ハリウッド映画で前をはだけたシャツを着てて主人公にマウントとる不良みたいな
ところが二期目はタイツも黒い、髪まで黒くなってて雰囲気変わってた。
タイツはともかく金髪もやめるのはどうかと思ったが。
良い悪いは別にして、レイスはタトゥーを
入れた最初のNWA世界王者だろう。
その後も出てこないけれど。
4大世界王者でも初かな?
他団体の荒くれ王者でも、ディック・ザ・ブルーザー(WWA)も
モーリス・バション(AWA)で入れていなかった。
当時、タトゥーを入れていたのはスカル・マフィーとか
かなりの悪党だった。
>>590 > タトゥーを入れた最初のNWA世界王者だろう。
パット・オコーナーは?
>>591 パット・オコーナーが入れていた?
ちょっと画像をチェックしたが
それらしいものは確認できなかった。
あったとしても小さいものでしょう?
当時、タトゥーをいれるって
本当に特殊なことだったしね。
オコーナーが小さなタトゥ―を入れていたってのは俺も読んだことがある
それで「欧米の人はアウトローじゃなくてもタトゥ―を入れるんだ」と日本のマスコミは理解したとか
全然アウトローじゃないジョン・テンタも肩にタトゥ―を入れているしね
オコーナーにタトゥがあったよ。
あっちのタトゥはそりゃまあ品行方正の意味合いとは違うだろうけど
こっちでいう渡世人というか任侠な人という感じとはすこし離れているよ。
>>590 自己レスだが、レイス以前に(大きな)タトゥーを入れた選手で
4大世界王座を取ったのはバディ・オースチン(WWA)がいたなぁ。
だから、正統派(テーズ、ガニア、サンマルチノ)が入れないのは無論、
ヒールでもタトゥーを入れているのは、小物という感じだった。
しかし、対ディック・マードック戦(1975年12月15日)の
Youtubeを見ても、(youtube貼れなかった)
パット・オコーナーの身体にタトゥーは確認できないんだよね。
仮に、「ここだよ!」と指摘されても「え?これかよ?」
と驚くくらい小さいモノだと思う。
やはり、「ハッキリ観客に確認できるタトゥーを入れたNWA世界王者」
はハーリー・レイスが最初であり、それは画期的なことだったと思う。
ホイッパー”ビリー・ワトソン(‘56年に8カ月王者)も
画像で見る限り入れてなかったように思うし。
昨日はぁ動画でぇ74年新日のぉ坂口と大木の確執話の部分をぉ見たぞぇー。
ありゃあかなりぃの遺恨だったみたいだしぃー、本当にガチの遺恨だったかんな。
それまでのぉ経緯考えりゃあ坂口も大木もぉ互いに言い分はぁあっちゃるぞぇ。
それを考えっとぉ猪木とシンの遺恨はぁ逆にぃ可愛く思えてもぉちゃるかんな。
そんでもぉ坂口と大木はぁその後にゃ和解したっちゅうにぃあったんよぉー。
そんだけ遺恨だったのがぁそれはそれでぇ感動的っちゅうにぃ思うちょるぞぇー。
まぁ昭和ん頃にゃ本当にぃ色々あったっちゅうのがぁーわかるんよぉー。
プロレス関連動画見てかなりぃ色んな知識がぁ養えたのぁ良かったかんな。
>>589 王者として最初の来日の時はその中間期ないし過渡期って感じだな
レイスの一番貴重な時期って印象
前腕にあるやつか
>>602 私も、それがクサイと思って
対マードック戦のyoutube(特に前半戦はグランド)
でオコーナーの左腕をつぶさに見たが、
やはり、毛の塊にしか見えなかった。
改めてオコーナー対マードックを見た。
オコーナーの左腕に、黒いモヤモヤがあり、
そのアップ、4分48秒〜50秒や8分42秒は毛だと思ったが、
10分39秒に映ったものは、毛にも見えない。
まぁ彼が小さなタトゥを入れていたことを否定はしません。
この話は、終了します。どうもお騒がせしました。
>>604 いやいや、世界王者とタトゥーの話はなかなか興味深いですよ。
タトゥーといっても、昔の大工や漁師が露出する肌に好んで彫った"刺青"の方で
サモアやタヒチの環太平洋地域が源流らしいし、オコーナーはニュージーランド出身
ワンポイントで入れてても不思議じゃない。
罪を犯した者が入れる"入れ墨"のイメージが強いのは、健さんの任侠映画のせいかなw
あとレイスはカーニバル出身だし、腕自慢の飛び入り相手もこなしていたらしいからね
オコーナーは力道山没後の日プロに来日してないけど
馬場全盛期にインター王座に挑戦して欲しかったな。
猪木とのシングルも見たかったし、スナイダーかキニスキーと組んで
BI砲とのインタータッグ戦も見たかった。
ミスタープロレスとして現在は神格化されているレイスだが現役王者当時はむしろ品格に欠けるという意見が強かったんだよな
現在のプロレスファンにイメージされる
弱くて地元ヒーローに薄氷防衛というNWA王者のスタイルを作ったのは
レイスではないのか?
それまでは対戦者と互角以上の強い王者像だったような気がする。
バディ・ロジャースも受けるスタイルだったろ、よく知らないが動画見る限りでは。
ドリーも別に強い王者像でもなかったけどな
「王座獲れそうなのに獲れない」的な
オヤジが乱入してきたりするし、BIとはきっちり一本とらせてフルタイムだったり
キニスキーは攻めの王者のイメージがあるけど
日本で防衛戦やってないからなぁ…
「戦う機械」だっけ?
「ビッグ・サンダー」がそのまま「カミナリ様」にならなかったのは結果的に幸いだった
短髪のガイジンつかまえて「荒法師」というのもよくわからんが
キニスキーは、「闘うチャンピオン」とも呼ばれていた。
チャンピオンが闘うのは、当然だろ思うが、
それまでの世界王者以上にアグレシップなレスリングをしたんだろうね。
私から見れば、全盛期のルーテーズも「受けのプロレス」をしていたと感じる。
彼のフィニッシュホールドのバックドロップもフライングボディシザースも
いわゆる「逆転技」なんだ。ヘッドロックで長時間絞められた後や、
相手が攻勢に出て、ロープに振られた後に、これらの技を出して逆転勝ち。
私は、世界王者になる前のキニスキーは見たことがないが、王者のなる前の
活きの良いレイス、ボックウインクル(70年来日時)、リック・フレアーは
知っていて、彼等が世界王者になって、ノラリクラリの逃げのプロレスを
見せたのはちょっとガッカリした。
>>613 受けのレスリングってのと逃げのレスリングってのは違うよね。
レイスがスタイルを構築した功績を否定しないけどね。
業界や団体が斜陽となり逃げレスとなっていったのか
逃げレスとなっていき斜陽産業となっていったのかはよくわからんけど。
NWA(AWA)世界王者になったレスラーの宿命だろうね。
地域王者の良さを引き出し、次やれば獲れると観客に期待させ
尚且、ベルトを守らないといけない。
レイス以降顕著になったのは、時代(客)のニーズがそうさせたんじゃないかな
薄氷防衛に見せるのも相当な技量がないと務まらない筈だし
馬場PWFや、猪木NWFの防衛戦と少し違う気がする。
NWA王者って割に合わなそう。
ギャラも同じかもっと稼いでいた人いそうだったしね
週に何度もシングルマッチ、しかも相手は取れないと解っていても地元でカッコつけようと張り切ってくるし、
自分がやられてるように見せてだから相当キツかったろう
NWA王者になる事を打診されて断った人の話を何度か読んだけどそこでは無欲だの勿体ないだの書かれてる事が多かったが、
単純に試合や移動そしてプライベートの少なさでキツそうだから遠慮しただけだろうね。
>>615 NWA世界王者は、加盟団体の各王者(ローカル王者)の挑戦を受ける。
当然、その地では「ヒール」であり、仰る通り
「地域王者の良さを引き出し、次やれば獲れると観客に期待させなければならない」。
>馬場PWFや、猪木NWFの防衛戦戦と少し違う気がする
馬場も猪木も日本のローカル王者。
>>611 インターを取った時も日本で防衛戦をやってない
馬場の初戴冠となるアジアタッグだけか
何かの記事でウィルバー・スナイダーにはNWA世界王者の話があったが
多忙なのを知っていたので断わったって話を読んだな
キニスキーも本人が「もう降ろさせてほしい」と言ってきたとか
レイスがフレアーに破れてNWA王者を陥落した時にテリーが
「こんな長期間NWA王者だった事に敬意を評する」とコメントしていたのを覚えている
>>615 だからそんな王者スタイルを少なくとも
当時の日本ファンは望んでなんかいなかったよなってこと。
NWA・AWAチャンピオンシップスタイルに付き合った全日国際はどん底となり
両王者と無縁な新日が盟主となったのは時の必然だったろうと思うのね。
その新日ですらWWFと付き合ったら、やはり同じ轍を踏むんだし。
>>600 いや、詠むんだけど、とにかく読みづらくて…
>>616 長いサーキットの途中で夫婦中が拗れた話はゴング誌にも書かれていたし
縛られるのを嫌ったマードックが敬遠したのも当然だろうねw
斎藤文彦は著書の中で「結局、猪木さんにとってNWA幻想というのは
馬場さんそのものだった気がします。そのNWAを超えるために、アリやルスカと
異種格闘技戦をやったり、IWGPを発案したりしたわけだから。
NWA主流派vs反主流派といったストーリーもすべて馬場−猪木の対立構造だったんです。
日本のプロレス史を形成してきた馬場vs猪木の対立構造を理解するために欠かせない価値観
あるいは価値基準が世界最高峰NWAだったんだと思います。」と語っている。
>>619 スナイダーがNWA王者候補になったのは
ロジャースの後の63年か、テーズの後の66年頃でしょうね。
多忙というか、彼はNWAと敵対するAWAの経営にも参画していたから
候補から外されたとかGスピリッツにも書いてあった。
スナイダーは、風格も実力もありながら、ビッグタイトルには
恵まれていませんね。世界王座と言ったら、オマハ版AWAと
ブルーザーとともに起こしたインディアナポリス版WWAに
1年足らず就いたくらい。
自分でプロモーターもやっていると、全米を防衛ロードに飛び回る
NWA王者は無理ですね。
>>150 ピンパネールってすごい名前だな
日本ででっちあげた名前かも
>>625 メヒコのオカマ・ピンピネーラもずっと後の話だけど来たことあるよな
ユニバで見たかったのにスカしやがって
まあ団体の不手際の可能性もあるが
>>624 たった3回の来日なのにワールドリーグ準優勝、BI砲からインタータッグ奪取
最後の来日では世界王座争奪の2連戦
すごい厚遇されたレスラーだね。
盟友ブルーザーと一緒に来て欲しかった気もするが
日本で生傷男にベビーフェイスさせられないしねw
スナイダーは馬場が著書(ゴーストライターだろうが)で凄く評価していたレスラーなんだよな
おそらくバディ・ロジャースに次いでいたと思う
>>629 中年男性が「う~ん」と唸るようなカッコよさのレスラー
全盛期に頻繁に日本に来ていたら人気レスラーになっただろうと書いていたな
ビル・ミラーとスナイダーの最後の来日は全日だったが
両者ともに「敬意を評して来ていただいた」という感じだったそうだ
スナイダーはともかくミラーにしてもブラッシー、最後のキニスキーも
来たら来たでもう見たくなかった、みたいに評されたが
同年齢のときの馬場に比べたらどうかって思うんだよね。
劣化度は馬場がだんとつといってもいいくらいだ。
馬場批判はもってのほかだから外人を批判して当てこすってたのかもしれないけど
>>632 ミラーは覚えてないが、ブラッシー、キニスキー最後の来日は
確かに見たくなかったw
馬場は海外修行時代からスナイダーの実力を高く評価していたみたいだけど
日プロ首脳陣の評価は低く、米国での多忙もあって
常連レスラーにならなかったと何かで読んだが
大物外国人レスラーに金をケチったからスナイダーやオコーナーを頻繁に呼べず
ロジャースやロッカを招聘しなかったんじゃないかな?
いくら多忙でも稼げるマーケットだと足を運ぶのが普通
東郷のピンはねは有名だけど、芳の里もかなり酷かったみたいだしね
馬場は全日を旗揚げして早くに尊敬するレジェンドを招聘しているが
ロジャースもカムバックするまでのブランク期間がなければ呼んでたかも…
パット・オコーナーのような正統派テクニシャンを、
馬場がエースの日本プロレスで呼ばなかったのは、まだ頷けますよ。
馬場の相手は、やはり、生傷男とか魔王とか吸血鬼という
悪役、怪物ですね。
ドリーは、世界王者で馬場が挑戦するという立場だったし。
71年にジャック・ブリスコが来日した時も、馬場ではなく
猪木のUNに挑戦。
それに、オコーナーは、もう年齢的に、ピークを越していましたね。
私は、むしろ1973年春に「力道山ベルト争奪戦」にオコーナーが
参加すると聞いて
「なぜ?いまさらオコーナーが?」と思いましたよ。
NWA世界王者だったのは‘59年〜61年。初来日で力道山と
戦ったのが63年。その後、アメリカでも活躍は聞きませんでした。
ネットで調べると、オコーナーの生年は、
1924年説と27年説があり、27年としても73年来日時、45,6歳。
24年生まれとすると、75年暮れの「オープン選手権」は51歳だったのか!?
>>633 芳の里のピンハネ?
日プロの経理担当は遠藤幸吉で渉外担当も遠藤幸吉
ブッカーのミスター・モトは斡旋した選手のファイトマネーの25%をブッキング料にしていた
遠藤幸吉は経理担当だった事を利用して、モトにブッキング料として毎月数十万円を計上していた
BI砲が抜けて苦しくなった日プロはモトに直接ブッキング料の値下げ交渉
ブッキング料を貰ってなかったモトは最初なんの事を言っているのかわからなかった
遠藤幸吉は頻繁にロスへ出張してたのはモトへ直接ブッキング料を手渡すって名目だった
実際はロスに居た愛人に会ってモト渡すはずのブッキング料は愛人のお手当にしていた
円ドル為替が大幅に変わった頃だもんな、シャープ兄弟とかブラッシーとか陰謀論ではないけれど外国人に対する劣等感へのはけ口の為に呼んでたのかもしれんね。
シャープ兄弟はそれほど北米で大物とは違うかかもしれないけど。
>>634 ブリスコはアジアタッグにも挑戦しなかったんだよな
結局日本ではタッグ王座にもタッグリーグにも絡まず仕舞い
>>637 ジャック・ブリスコは、同じサマーシリーズに参加したメンバーとならば
ビクターリベラあたりと組んでアジアタッグに挑戦しても良かったと思います。
このシリーズは、アジアもインターのタッグも行われていないんですよね。
前のゴールデンシリーズにI・コロフ&D・サベージがインタータッグ(7月1日)、
B・ゴールドマン&エル・ゴリアスがアジアタッグ(6月17日)に挑戦してから、
サマーシリーズ、サマーミステリアスシリーズ、NWAタッグリーグ(このシリーズは
もともとタッグタイトル戦は組まれない)とタッグタイトルマッチがありませんでした。
アジアタッグなんか、暮れの12月1日まで5カ月半、下手すると6か月の防衛戦
タイムリミットをオーバーするところ。
こんなにタッグタイトル戦が開いたのは初めてだったでしょう。
やはり吉村の体調とかかな
あるいは年末に黄金コンビでアジアタッグの予定だったのかも
出羽ヶ嶽の動画が残ってるけど馬場の若い頃に比べたらかなりノロい
馬場はああ見えてかなり運動神経が良かったんじゃないかな
二十代の馬場のスピードは驚異的
あのサイズであれだけ動けたレスラーは他にいないんじゃないかってくらいに
ビッグショーは馬場よりデカいが、ミサイルキック、ムーンサルトプレスやってたぞ
少しサイズは落ちるが若い頃のドン・レオ・ジョナサンも馬場より遥かに動きは良かった
ドン・レオ・ジョナサンはアンドレと普通に試合が出来るからな。
馬場は細かい動きもできる
卓球めちゃ上手いだけあって器用
>>643
ドンレオジョナサンは巨人症のくくりには入らないだろうし、
ビックショーは確かにすごかったけど、東洋人の2M超えなのに動きが鈍くないどころかいいって話じゃないかなあ
東洋人とか巨人症とか狭い括りにしないと、馬場の動きを褒められないということかな
最後のメキシカンストレッチみたいな技は?
昔の映像見ろと、晩年のイメージが強いと思うけどさ。
>>650 ゴッチの海外映像探してたらヒットしたんだけど
WWWFタッグベルト巻いてるから、新日旗揚げ直前だよね。
>>650 どうしても日プロ後期や全日の頃のイメージがあるから
逆に補正がかかってしまってすごく早く動いているように見える。
いかんいかん、先入観なしで見ようと思って見直すと
やっぱり早いし、いちいち動きがわかりやすく大きい。
>>650 馬場の話がつづいてたの?
ゴッチ・グレイ組のツベに反応したのかと勘違いしましたww
馬場のアメリカ時代の映像を客観的に見ると、大きいけど動けるなあ、いいレスラーだなあとは思うけど、他にこのサイズでこれだけ動けるレスラーいない!とかは言い過ぎだろ
上に書かれてるビッグショーとか、モンスター・ロシモフ時代のアンドレとか馬場よりデカいのに動けるし巧いし
どうみても2M越えで動けるて話よりも2m越えの日本人は動けないのに馬場が動けたって話じゃね?
馬場と同体格のアーニー・ラッドも、
70年初来日時に、ドロップキックやリープ・フロッグを
見せていた。もともとアメフトでも一流選手だから、
運動神経が悪いはずはない。
ただ、プロレスセンスがちょっと足らなかった。
>>642の書いてることにレスしたつもりだが、「レスラー」の括りがいつの間にか日本人限定の話になったのか?
全盛期の馬場の象徴ってのはチョップを入れる度に場内がウォーって沸くとこなんだよな
伝説のハンセン戦はそれが蘇ったという点が大きかった
プロボクファイトゴング・・専門誌魚んでるようなファンから見ると昭和46年くらいには猪木の方が人気も評価も高いね、当時の雑誌見るとさ。
お茶の間(笑)Yとか世間の知名度や人気、集客力ではまだ馬場だったろうけどね
>>659 この年の猪木のベストバウトはやはりブリスコ戦かな
>>655 2m越えてる日本人プロレスラーなんて2〜3人しかいないんだから、動けたかどうかのサンプル数が少なすぎる
馬場が二十代の頃のリアルタイムでの観点ではロシモフはまだ欧州で無名だしラッドは二足の草鞋を履いていて本格的なプロレスラーとまでは言えないかも。
まあ、1965年にはラッドと馬場タッグ組んでたけど。もちろん、ショーはまだまだ現れてないからな。
あと二メートル超えてたのは後のコンビクトとかジェイク・ロバーツの父親、スカイハイ・りーとかくらいじゃないの。
ヒガンテと同じくらいのマックス・パーマーとはほぼ入れ違いだし一流でもなかったし。
馬場がサンマルチノと対戦した時は馬場のこと、世界最長身レスラーって触れ込みがあったね。
2m超の日本人プロレスラーは馬場、曙、北尾ぐらいか?
>>663 世界最長身レスラーは、アメリカの伝説上の巨人と同じ名前を名乗った「ポール・バニヤン」だったかな?
逆に最も低かった(ミゼットレスラーを除く)のはティト・コパの160センチ!
>>663 ジェイク・ロバーツの父親はグリズリー・スミスだっけ?
スカイ・ハイ・リーは、ガラスのコップをかじったり、皮膚に畳針をブッ刺したり…
コンビクトは「馬場より大きい2メートル14センチ」がウリだったけど、蓋を開けてみればとんだ木偶の坊だった。
彼らに共通するのは、決して一流とは呼べなかった事かな。
大きいだけで動きが鈍く、身体だけで圧倒できるうちは良いのだけど、テクニックで翻弄されたり、スタミナ切れを起こすともうダメだったり…
それらを引き合いに出すのは違うかもしれないけど、全盛期の馬場とか、2メートル越えではないけどゴリラ・モンスーン、ドン・レオ・ジョナサンがどれだけすごかったかは明白。
『ジャイアント台風』の中で、武者修行中の馬場がリングに登場すると
「ウソだ!ジャップがそんなにデカイわけない!」なんてヤジがとんでた。
ビルミラーやジョンクイン、サカ(グチ)
このあたり195くらいから頭にビッグと付いてくるんだから
2Mはもうやっぱりクソデカなんだよね。
プロレスラーとして歴代最長身レスラーにはエドゥアール・ボープレEdouard Beaupreの250cm前後というのがあるけどサーカスでのレスラーで
現代でいうプロレスラーとは違うな。
>>669 スペル・アストロは実寸160なかったろうなー
しかし「ミニ」ではないれっきとしたエストレージャだった
グラン浜田も実際に間近で見たが
160cmなかったと思うよ。
今、公称で162の石森太二とか161の
エル・リンダマンだって160ないだろ?
>>672 リングスのKOK観に行った時に会場の外走ってた公称2mのビターゼ・タリエルに握手してもらったが、同じ人間とは思えなかった
マジでバケモノの領域
>>639 吉村が引退してアジアタッグの価値が下がったなぁ
3年後に全日で復活するが、歴代日プロのエースが巻いてたベルトの顔が
極道コンビになるとは…
でも、全日で初防衛戦が行われた76年3月28日は国際のIWA世界タッグとのダブル選手権
この試合が両リンで引き分けに終わったから
馬場の評価はアジアタッグとIWA世界タッグが同格
インタータッグとIWA世界タッグは同格に非ずだったんだろうな。
そりゃそうだろ
馬場&鶴田と草津&井上が同格になるわけがない
ギリギリ木村&草津でないと
あと極道コンビのプロトタイプが小鹿&松岡
後楽園での防衛戦もここから
全日初期は「中堅レスラーが巻くベルト」でフットルースあたりから「将来のメインイベンターが巻くベルト」
あれはあれで上手く活用したと思う
天龍が「青春の忘れもの」と言って晩年にアジアタッグをとったがそりゃ天龍の頃は
「将来のメインイベンターが巻くベルト」ではなかったから
というかアジアタッグをどう使うについてはその時点での選手層の影響もありそう
ジュニアが多くなればジュニアタッグにもなるだろうし
アジア王座について調べてみたら、76年にアジアリーグ開催を発表したのは新日の方が先で
開催時期はアリ戦後の7月9日〜8月5日迄、全日からは馬場と鶴田
国際からは木村と井上を名指しして参加を促している。
記者会見(2月16日)では、旧日プロの両アジア王座は消滅したものと解釈し
全くの別物で、新しくコミッションから設立するとまで言っている。
ところが、両アジア王座をNWAの認可を受け復活させたのは
日プロの残務処理中だった芳の里の方が先で、3月25、26日ソウルで王座決定戦が行われた。
馬場が芳の里に手を回したのは明らかだが
前年オープン選手権で参加を呼びかけたのにも関わらず拒絶され
何を今更アジアリーグに出てくれだ、という思いだっただろうし
吉原にしても75年に木村が猪木に挑戦状を送った時に、格が違うと一蹴された怨みがある。
まあ、一方的に発表し参加できないと逃げた印象をファンに与えるやり方は
新日のお家芸だったな。
その辺はいいんだよ。まぁ約束事のアピール合戦みたいなもんだから。
準備が間に合わないとかいう理由はなくはないだろうし。
問題は新日版アジアタッグと旧日プロ版アジアタッグの統一戦をすれば
シンプルな解決になるのに両方ともそこにはほとんど言及しなかったのが
困ったもんだと思う。結局どっちも言い放しでやっただけなんだよね。
特に新日のアジアタッグはみんなきれいさっぱり忘れた。
そりゃあ統一戦ができれば一番よかったけど、
坂口&小林vs.小鹿&大熊
シンvs.大木
どうせ馬場・鶴田・木村・井上は出ないから、結果は見えてるなぁw
あと、スレチでどうでもいい情報だけど
今夜の「家、ついて行ってイイですか?」にターザン山本が出るみたいよ
新日も、アジア王座を復活させ
シングル王者にタイガージェット・シンを
就かせるまでは、まだ良いとして
タッグ王座に、当時北米タッグの坂口&S小林を
兼任させるって、どうかな?
思い切ってヤマハブラザースでも戴冠させれば
面白かったと思うが、ちょっと軽すぎるか?
あとは木戸か、永源しかいないし。
新日本版の王座は全日本に本家ベルトを復活させるためだけに終わった
今日はテリーの日本デビュー日
いきなりアジアタッグ王者に勝利で前年のレイスよりは上に扱われた印象
しかしインタータッグではストレート負け
>>686 国際から取ったIWA世界タッグをアジアタッグ的に使っていたな
後には旗上げ直後のNOAHがWEWタッグをそう扱ったが
新日の方は西アジア選手権
全日は東アジア選手権
参加メンバーからするとそんな感じだ
>>688 ストレート負けといっても反則含みだったし、それでブラジル兄弟のように
ファンクスが賢兄愚弟とは評されなかった。
2度目の来日では、この試合を最後に猪木追放が確定的だったとしても
BI砲を破ってインタータッグを取り、スレタイ2組と同格になり
最終戦では馬場のインターにも挑戦しているから
テリーを売り出すに値する選手と判断したんでしょう。
日プロん時の動画だとぉファンクスもぉどちらかっちゅうとぉヒールだゎなぁ。
こん時代はまだまだぁ外人=ヒールっちゅう図式がぁー色濃かったぞぇー。
ドリーはぁ元NWA王者っちゅう事でぇヒール色はぁあんま無かったとかぁ。
テリーのバワイはぁ初来日時はぁ無鉄砲な弟っちゅうキャラクだったらしいぞぇ。
まぁファンクスの試合中にぃ親父のシニアがぁ介入したりとぉあったかんな。
ファンクス、特にぃテリーがぁ日本で大ブレイクしたのはぁ77年だしぃー。
あのオープンタッグ決勝ん時のぉブッチャー シークとの試合だったぞぇー。
そっからぁ空前絶後のぉテリー時代到来っちゅう流れんなっちゃるんよぉー。
>>688 今日はテリーファンク日本第2戦の日
横浜文体で猪木とのシングルマッチが行われ、1対1からテリーの暴走反則負け
2本目に猪木がリバーススープレックスを初公開したんじゃなかったかな?
>>691 決勝フォールはテリーが馬場からなんだよな
ベルトを上下逆にしてたのもいかにもテリーっぽい
>>693 テリーの横浜文体となるとやはりブッチャーとのUN戦
あとフレアーとのNWA戦も
他スレで、1990年9月、猪木デビュー30周年に当たり、
グレート18クラブが発足。そのメンバーに、猪木と全く接点のない
バーン・ガニアが選ばれたことが話題になった。
(一応、メンバーは「猪木と対戦したことがある選手」が条件)
他に90年秋時点で猪木と、少なくとも日本で対戦経験がなかった
1流外人選手は、エドワード・カーペンティア、M.ルーイン、
R・フレアー(95年、北朝鮮で対戦)
リック・マーテルも入れておこうかな?仮にも元AWA世界王者だし、
1984年の第二回IWGPには参加が決定していたんだよね。ならその時、
猪木とシングル戦を組まれたはず。
シングルで対戦がなかったのは、
B・サンマルチノ、Hレイス、ディック・ザ・ブルーザー、
1流かどうか微妙なのは、ミスターレスリング、B・V・ラシク、Hホフマン。
あと90年夏に新日に初来日したロード・ウオリアーズも
猪木との対戦はなかった。
その時、猪木はセミリタイヤ状態だから仕方がないかったが。
>>696 マーク・ルーインが一流かというとちょい疑問符が付くな。
逆にミスター・レスリングは一流と言って良いのでは?(正体はティム・ウッズ。実はシュートレスラー。)
確か腕自慢の素人相手の試合で、指を噛みちぎられたお返しに目玉をくり抜いたエピソードがあったはず。
ホースト・ホフマンも一流と言える。
ヨーロッパスタイルの地味なレスリングが一般ウケしなかったけど、間違いなくテクニシャン。
ノートンもぉ猪木との対決はぁタッグ シングル含めて一度も無かったかんな。
後はぁゴディ スパイビー エースもぉ猪木との対決はぁ無かったぞぇー。
猪木と対戦した事あんのはぁディートンみたいにぃ意外なケースもあっちゃる。
しかもぉディートンのバワイぁ猪木 アンドレと馬場 アンドレとの対戦だかんな。
意外っちゅうかぁ本当にぃ凄い偶然っちゅう感じがぁしてもぉちゃるぞぇー。
馬場とスローターもぉアメリカでぁ対戦しちょるっちゅうのもぉ意外だしぃー。
後はぁ新日初来日こぉオブライトもぉ猪木とはぁ対戦はぁしちょらんぞぇー。
後はぁ猪木とカマタもぉ日本でぁ対決しちょらんがぁ、海外はあんのかぁ?
>>696 75年第2回ワールドリーグ戦に、当初ジン・キニスキーが参加予定だった。
当時ホームリングだったバンクーバーで試合をしていたマサ斎藤の誘いで
新日への初参加を応諾していたが、動きを察知した馬場が
新日の条件を上回るギャラを呈示し、あっさりキャンセルして
全日の第3回チャンピオンカーニバルへ参加
また、日プロのワールドリーグ優勝杯(大トロフィー)も
この大会に新日へ売買されるはずだったが、馬場がさらに高額で買い取り
結果的にオープン選手権で全日に贈呈された。
ワールド杯については前年じゃなかったかな
むしろ新日本側の態度が尊大だったのに芳の里がカチンと来たという説も
>>700 大トロフィー寄贈の件は、日プロ代官山の事務所に
新日営業社員が手ぶら(袖の下を持参せず)で取りに来たことが芳の里の逆鱗に触れ
「何故猪木が直々に取りに来ないのか!」と激怒したという話もある。
後出しの馬場に売った言い訳が猪木が来ないのがというんだから難癖そのもの。
そもそも袖の下がどうこうだけど
トロフィーが日プロの持ち物として新日が日プロに売って欲しいということだな。
会社の資産が欲しいと。額が合意していたのにもかかわらず
長谷川個人に手数料が余計にいるので売れないというのは
新日が違約料をとれる案件じゃないだろうか。
まぁ紙はなかっただろうけど。
日プロの雑収入とかになったのかね。
猪木はこれと言った人間には卑屈なくらいに腰を低くするのは昔から有名だからな
だから長く付き合える相手ではないと見切ったとも言える
>>697 1流か否かの反論は来ると、思ったが、
ひとつには、やはりアメリカの4大世界タイトルを取ったか
取っていないかがポイント。ルーインはWWA世界王者に就いた。
まぁ、4大の中でもWWAは落ちるけれど。あとオーストラリアの
王者(現地では世界王者)に長く就いていたし、日本でも
全日で第一回、チャピオンカーニバル決勝進出と活躍した。
ホースト・ホフマンは確かに実力者だが、「欧州のまだ見ぬ強豪」と
言われながら、初来日の国際第4回ワールドシリーズで潰されちゃった感がある。
予選リーグでS小林に破れ、敗者復活でジョナサンに破れ、決勝トーナメントにも
行けなかった。まぁ実力と言えばそれまでだが、通常のシリーズなら、
もうちょっと売り出すチャンスがあったのに、それ以降も国際、全日でも、
そう活躍はなかったでしょう?
>>696 猪木とガニアの接点って、アリ戦のクローズドサーキットの権利をガニアが買った時だけだよね?
シカゴでの、猪木・ガニア・ブルーザーが一緒に写った写真がある。
ロビンソンのブッキングにも絡んでいた模様
おそらくはビンスシニア経由だったんだろうご
それもあってか全日本が直接にガニアとの提携に動いた感じ
ロビンソンのブッキングにも絡んでいた模様
おそらくはビンスシニア経由だったんだろうご
それもあってか全日本が直接にガニアとの提携に動いた感じ
>>696 その中だとアメリカ修行時代にレイスとはシングルやってる可能性はあるかな
たしか同い年で当時親交があったみたいなことを猪木が言ってた
ディックザブルーザーとはデュークケオムカと組んでたテキサス時代なんか絡みあったか?
>>708 1964年4月30日カンザス州カンザスシティ
ハーリー・レイス(時間切れ)トーキョー・トム
7月21日カリフォルニア州ベーカーズフィールド
ディック・ザ・ブルーザー(反則勝ち)リトル・トーキョー
(引き分け説有り)
リングネームはあれだけど、シングルマッチはしてるね。
猪木が追放されてなければレイスとのUN戦はあったろうな
レイスやモラレス、マスカラス、シークともUN戦やってそう。
84年の今日は、馬場vsハンセン戦で個人的に一番好きな試合があった日
2日後には、新日も蔵前最終興行で猪木vs長州戦(ベストバウトだったかな?)があったなぁ
ラリアットの使い手に、スモールパッケージとグランドコブラもなにか似ているBI
>>711 当時WWWF認定ヘビー級王者だったP・モラレスは
1972年の新春シリーズに特別参加が、ほぼ決まっていたんだよね。
そこで、無論、猪木のUNに挑戦するだろうと思われたが、
71年暮れの猪木追放で来日がなくなった。
マスカラスは、71年春の初来日時(猪木UN王座獲得の直前)、
前橋で猪木と60分3本で対戦。当時のことだから、1−1から
両リンかと思ったら、意外にも3本目、マスカラスがリングアウト負け。
続くサマーミステリアスでの再来日時も猪木とのシングル対決はなし。
日プロ首脳陣は、マスカラスはあくまで子供のアイドルとして考え、
猪木とのUN戦は、考えていなかったのではないかな?
後はぁ猪木とリッキーもぉ結局はぁ全く対戦はぁしちょらんはずだったぞぇー。
リッキーがぁ新日初参戦した時ゃあ猪木はぁセミリだったからぁだかんな。
猪木30周年記念の時にゃあリッキーはぁムタと対戦しちょったんよぉー。
こん時にぃ猪木と顔合わせはしちょるとぁ思うがぁー対戦はぁなかったしぃー。
そんなリッキーもぉ新日にゃああん時だけだったっちゅう記憶しちょるがぁー。
あん時のリッキーはぁ最早あんま需要がぁー無かったっちゅうこったゎい。
元NWA王者っちゅうてもぉ落ちぶれた時期のぉNWA王者だったかんな。
リッキーはぁ結果的にゃ日本はぁ合いそぉで合わんかったっちゅう感じだぞぇ。
>>712 ラリアットに十六文をぶつけた場面がハイライトだったな
猪木の逆ラリアットとも実に対照的だった
>>708 最近の猪木の自著で若き日のレイスをボコボコにしたと書いてた
レイス追悼の一言まで載ってたから本当に最近のやつ
>>716 レイスをボコった試合は知らないけど、1度だけタッグを組んでる。
セントラルステーツ地区最終試合で、猪木&レイス組が
リー・ヘニング&ラリー・ハミルトン組にストレート負けw
(尚、リー・ヘニングとラリー・ヘニングは別人)
>>718 世界王者時代は守りに徹していたせいかそうでもないけど、転落後は強さを感じた。
馬場がNWAに挑戦したのもレイスまでで、89年のリッキーになると鶴龍すら挑戦していない。
リッキーvs三沢タイガー戦を最後に、全日にNWA王者は来てないんだね。
どうかなぁ〜
マグナムTAはアメリカのタッグトーナメントで馬場タイガー組と接点があり
三沢のライバルといわれていたし、馬場が彼をどう評価していたか?
それにNWAがクロケットJr.に独占され、WWF全米侵攻で弱体化していたから
最高峰をNWAから三冠王座へシフトチェンジしちゃうからね
マグナムTAはフィニッシュのベリートゥベリーがショボすぎる
>>719 馬場とフレアーもだが鶴龍とリッキーでも体格的にバランスが悪いんだよな
>>719 馬場対レイス、誰かが書いてた「超スローモーションのケレン味たっぷりの試合」→www
よくもまぁ、試合として成立させたもんだ。
スローモーションと言えば…
昭和44年のワールドリーグ、あれは猪木優勝がお約束だったせいもあって、決勝戦第一試合の馬場対ブラジルは消化不良気味。
ダラダラとした時間切れ引き分け試合だった。
まだまだ全盛期にあった馬場だったけど、試合後のヤジで「スローモーションの試合を観に来たんじゃねぇんだよ…」なんて言われていた。
馬場とレイスのベストマッチはやはりNWAを取った名古屋かな
後のハンセン戦みたいに早々に十六文をやるなど気合い満点で
>>725 しかし、権威ある(はずの)NWA戦を地方会場でしかできなかった当時の馬場。
翌年は佐賀だったし、最初に獲ったブリスコ戦は鹿児島だった。
余談だが、ブリスコは自伝でその試合を「東京郊外の鹿児島で行われた」と…www
(以上は柳澤健「1964年のジャイアント馬場」より)
馬場×レイスって必ずレイス、たまに馬場もが流血してしまうのがねえ。
あれもレイスのサービスなんだろうけど必要ないと思うんだ
確かオープン選手権の対決でも流血してた。
>>727 >>725のNWA戦もそうだった。
実況アナ(松永さんだったっけ?)が、「すごい試合でしたー!」と絶叫してたやつ。
「ジャンピング ネックブリーカードロップ」も思い切り噛んでた、あれ…www
スレタイに沿ってBI砲を考える時、唐突だけどどうしても当時の篠原リングアナの上手さを語らずにはおれん。
独特の癖のある節回しで、字で現すのはとても難しいのだけど、
「にひゃくーよんじゅうパウンドぉー、アントニオぉー いーのきぃー!」
「さんびゃくぅにじゅぅパウンドぉー、ジャイアントぉーばーばー!」
もちろん名前の韻のせいもあるのだけど、猪木のシャープさと馬場の重厚さが際立って聴こえ、試合の始まる高揚感をかきたてられたな。
逆にあまり上手じゃないと思ったのが、全日本旗揚げ当初のリングアナ(誰だったっけ?)。
デストロイヤーのコールで、
「ザっデストロイヤあーーー」
発音が硬く鈍重で、その割に最後の「ヤー」が自然にのばされずに わざわざ母音を引っ張るのが、先述の篠原アナや、力道山時代の小松アナの名調子からずいぶんと落ちたと感じたものだ。
小松アナだと「ザー デーストロイヤー!」と滑らかで、しかも力強く、レスラーの殺気が伝わってくるようだった。
>>730 連投失礼。
「母音を引っ張る」→母音を「引っ張りなおす」と言えばわかりやすいかな?
>>729 「あか〜コ〜ナ〜」と伸ばす篠原リングアナは名調子だったねぇ
子供の頃に聞きなれていたから、新日倍賞・全日百田リングアナになってから
イントネーションの違いに何か変な感じがしたよ。
あと、「ジャイアンツ馬場」の清水アナねw
>>732 貴君も同年代、ご同慶の至りですな。
清水アナも上手かったね。後の絶叫一点張りのスポーツアナウンサーと違って、抑制が効いていながらもエキサイティングな表現。
「詰めを欠いております、『ジャイアンツ』馬場、16文キックが出ました!」
「レフェリーの、沖 識名さんが、場外に投げ出されました」
「32文! 宇宙船、人間ロケット、抑え込みから、カウント3!」
>>726 佐賀では三十二文からの二大必殺技だったんだよな
>>735 フライングネックブリーカードロップで、樋口レフェリーが3カウント目を入れるのを一瞬ためらった、あれね。
なんか危険な状態だと思ったんだろうか?
レイスは本当に失神していたようだったけど。
本来のブックではレイスの防衛のはずだったのをレイスがわざと馬場に禅譲したとも言われますね
後に新間がNWA総会でこの映像を見せた時にレイスは失神による突発事態と嘯いたとか
少なくとも樋口は知らされてなかったみたいですがあるいはこれも三年後の猪木のヒントになったか
レイスがその辺は自伝で書いていたよ
馬場の三回目のNWA奪取は予定にはなかったが
馬場への友情からアクシデントで落ちちゃったふりをしてNWA王座を渡したそうだ
猪木はこの試合映像をNWA総会に持って行って抗議をしたんだけど
終わった事だから相手にされなかった
>>738 陥落もアクシデント的だったな
三度目は初防衛戦で陥落
あの辺は股間打ちとかじゃなくて気持ちよく負けてやればよかったのにな
それがレイスの恩義に対する返礼ってもんじゃないかと思うし
前王者のスケジュールを引き継ぐ義務があるNWA王座なんて、後々困るだけだったねw
あんなにインターやPWFを連続防衛していた馬場が、意図も簡単に奪回される
それも3度も続けてとなると、誰だって事情を察するよね。
(ブリスコに破れた時に"アレッ"と思ったし、2度目になると確信がもてた)
猪木のWWFも酷かった、、
長期に渡って日本を留守にする覚悟がないのなら
自由に扱えるPWFやNWFの価値をもっと上げるべきで
あくまでNWAを最高峰にするなら、3年に1度位の招聘でよかったんじゃないかな。
鶴田が日本人レスラー初のAWA世界王者としてのアメリカンツアーを行ったのは
馬場や猪木の前例を覆す意味もあったんだろう
鶴田の一番の偉業なんだよな
墓碑にもAWA王者姿で描かれてるし
BIのタイトル奪取はいずれも地方会場だよな
大会場での王座転落は許さん!みたいなこだわりあったのかねNWAとWWFには
>>742 新日本に取られるのを避けるためキープし続けるしかなかったって感じかな
そしてその必要が無くなった後は三冠を日プロ時代のインターのような絶対権威に
>>742 今の価値観で考えるからそう言えるだけだろ
51年前(71.8.5)のUNヘビー級選手権を見たけど、猪木やっぱりカッコいいわw
後のNWF戦より内容もいいし、特に2本目に決めたジャーマンの素晴らしいこと
まさに馬場に次ぐ若きエースの雰囲気満々
でも、4か月後に、、、
>>691 今日はシリーズ最終戦で猪木と大木の元アジアタッグ王者と引き分け
結局は三つとも猪木が絡んでるんだよな
猪木のWWF陥落は蔵前国技館
馬場のNWA陥落はいずれも地方会場
馬場のプライドも関係してたりして
蔵前でAWA奪取して、ミネソタ州の州都セントポールで王座転落した鶴田
そう思うと鶴田はUNは日大講堂、インターは蔵前だったな。
人気はないが舞台はちゃんとしてる。
逆に鹿児島や徳島だから、リアルに感じることもある。
「王座返上」て形でなればタイトルから外れない、卑怯者の新日本プロレスのカリスマさん
シンのNWF獲得もいったん猪木が返上してからの決定戦だから微妙と言えば微妙
>>757 そうかぁ?
まぁ、ものは考えようというか…
NWAタイトルマッチはギャラに観客数のパーセンテージが
加算されるから全日は大会場開催を避けたなんて話しをどっかで読んだことがある。
>>763 大会場でやっても客入らんだろ。
現に2度目の戴冠となった名古屋はガラガラだったし。
テリー全盛期の時にレイスとリターンマッチさせたらどうだったかな
来週また「プロレス総選挙」やるみたいね。
どうせ「新日本プロレス総選挙」の予感しかないけど…
前回(2017)の結果は
01.猪木
02.馬場
03.初代タイガー
04.オカダ
05.力道山
06.棚橋
07.鶴田
08.ライガー
09.三沢
10.ハンセン
以下、長州・武藤・小橋・天龍・オメガ・橋本・蝶野・ホーガン・真壁・アンドレ
>>766 >>767 選んだ人たち、世代としては新日ブーム真っ盛り、もしくは少し後の全日四天王プロレスの頃にいた層なのかな…
実質的に新日本選挙だからこそ鶴田が上位で藤波が選外の意義はより大きいんだよな
>>768 マニア含めて"プ女子"みたいなミーハーとか、いろんな層の投票だと思うけど
テレ朝の企画だから、どうにでも操作できる。
全日は票が割れないからな
新日だとオカダ、棚橋の現役世代から創始者の猪木まで選択肢が多い
全日は馬場、鶴龍、四天王だけ
鶴田ってどうせ人気なかった、プロレス下手で褒めるとこないから
妄想でしかない「最強」とか持ち上げるパターンだろ?
>>771 妄想が暴かれて暴落した新日本がどうしたって?
日本プロレス史「裏」総選挙なんかあったら面白いけど、誰も興味ないだろうなw
東郷、遠藤、豊登、松岡、草津、横内、上田、轡田、高千穂、トルコ、剛…
単なる不人気ランキングになるけど、重要人物には違いない。
>>772 何が暴落なのか知らんけど、暇ならインディーの全日応援してあげなよ
自転車操業だからお金落とさないとすぐ潰れちゃうよ?
>>771 「強い」でいいと思うのに最強っていってしまうから
反感を買うのではないかと思う
うちの中学生が、マックのポテト最強、とか唐揚げ最強
とか言ってるのに近いバカに付ける薬ない感が強いんだよ
>>771 鶴田がなぜ最強と祭り上げられるかが一番の鍵なんだよな
プロレスなんて妄想で出来た世界だろw
それを受け入れられない、現実を叩きつけられたのが新日信者というだけでねw
鶴田はそれがまだ保たれているから強いから最強まで現役メディアで紹介されてるだけだろ。
鶴田が最高のレスラーじゃないことだけは確かだな。
新人の頃から期待値だけは物凄いものがあったけど
ドリーのコピーにしか見えなかった。
>>777 すぐコバエみたいにわいてくるなあ
汚れるから自分の巣に帰りなさい
NGするからレスしても無駄
>>775 それはあるなあ
20年前とかならまだしも、令和の時代に最強とか頭悪すぎ
>>778 鶴田とドリーとなると凱旋のインタータッグでフロントスープレックスを初披露した場面か
鶴田はセンスがないのがな
長州とのフルタイム戦の最終盤にボストンクラブやるとこなんか最悪
こんな技で勝負が決まるとは客の誰も思うわけもなく、ただ時間稼ぎと自分のアピールだけやってる頭の悪さ
鶴田最強に拘っているのは幻想を奪われた新日信者だけだ
>>782 時間切れ引き分けの場合、最後に攻めている方が優位に見られるという
ただ単純に教科書通りの判断があったんじゃないの?
ボストンクラブのチョイスは笑っちゃうけどね。
優位はともかく。ドリーと猪木だったように思うが
お互いドロップキックの相打ちから立ち上がったところでタイムアップ
みたいな試合はやろうったってできるもんじゃないけど
それまでギブを奪ったことのない逆エビで終わろうというのはあかんな。
長州だって最後に掛けられれば不利に見られるのは分かってるんだから受けなきゃよかった話だ
それが体力が尽きたのか受けざるを得なかったわけだ…
ボストンクラブ自体はプロレス的な技ではあるがそれに持ち込むテクニック、防ぐ技術もある。
鶴田はボストンクラブに持ち込むのが上手かった上に長州のサソリを返していたのも判定材料になるんだな
ボストンクラブだったからこそ力強い怪物キャラへの転換になったと思う
その続きが翌年の浜口戦
ドリーと猪木
2戦目の福岡は覚えていないけれど、
第1戦の大阪は、猪木がコブラを掛けたところで
時間切れだったんじゃないかな?
あれを見たら、指を骨折しながら最後にコブラを
決めた猪木の方が強く見えた。
>>789 福岡の試合は60分3本勝負で
1本目ダブルアームでドリー、2本目人間風車をリバースで返し原爆固めで猪木
3本目は猪木のコブラをドリーがロープに逃れタイムアップ(前年と似ているラスト)
キーロックの応酬が多かったけど、猪木が足4の字を出したり
前年と比べ遜色ない内容だった。
テリーが猪木の足を引っ張る場面もあったがw
71年の猪木追放がなかったら、スピニング・トー・ホールドと卍固めで取り合って
3年続けてドローだったかな?
日本人レスラーでドリーと一番手が合ったのは、猪木なんだと思う。
>>790 だから、ドリー対猪木は、両方とも最後は、
「猪木がコブラを掛けたところで時間切れ」だよね?
でも、786の言っている
>猪木と誰かが、お互いドロップキックの相打ちから
>立ち上がったところでタイムアップ
というシーンも覚えている。
誰との試合かな?
60分タイムアップというのは、ボブ・バックランドが思いつくんだが。
>>71 71年の対決で、スピニング・トー・ホールドのフィニッシュは
ないと思うよ。もう初来日の時でさえ、「なんで、あんな技が決まるんだ?」
という反応だったから。3度目の対猪木戦で、ドリーがフォールを取るのは
前年と同じダブルアーム、では能がないなら、坂口を葬ったバックドロップかな?
で、猪木がNWA王座奪取はないにしろ、3年連続ドローというのも能がない。
3本目、テリー乱入で猪木の反則勝ち、でもルールにより王座移動はなし。
しかし、大阪だったら、下手すると暴動になるな(苦笑)
猪木の暴走反則負けもあるかな?
>>789 大阪の試合は白熱の名勝負と謳われ『ゴングorプロレス』のグラビアを飾ったのが
ドロップキック相打ちショットだったから、それと勘違いしたのでは?
>>794 >テリー乱入
ファンクスって、アメリカではヒールなんだよな、アメプロ事情に詳しい友達の兄貴に教えてもらった。
ドリー&シークのコンビがあったくらいだから。
70年福岡の3日前、インター選手権で馬場が脱水症状になったんだよね。
「お母さん助けて」と叫んだとか
インタビューで「試合中に逃げたいと思ったのは、あの試合だけだよ」と語っていた。
この頃にBIは並んだか、鼻の差で馬場有利と思っていたなぁ
まぁ、ドリー猪木戦はトルコのストーリー作りが良かったことと
誰とでもきっちりと試合を組み立てるドリーのおかげだが、、
その後ドリーは全日のブッカーになり、馬場とも何度かシングルで対戦したが
名勝負といわれる試合はなかった気がする。
もしドリーが馬場と組まず、猪木と組んでいたら…なんて考えてしまうw
猪木と暫く名勝負数え唄が行われたかもしれないが、精神論や道場論がどうなっていたか?
>>798 「試合中に逃げたいと思ったのは、あの試合だけだよ」
→でも馬場は、実はドン・レオ・ジョナサンも苦手にしていた。「あいつだけは…」と。
インター戦で先制され、2本目にフライングネックブリーカードロップでタイ、3本目はジョナサンのドロップキック自爆後、32文でフォール。
見応えのあった試合だったけど、今思い出すと大変な相手に試合を成立させていた馬場さん、えらくしんどかっただろうなぁ…
猪木「こんなプロレスをやっていたら10年持つ体が3年持たないかもしれない」
馬場「こんなプロレスをやっておけば3年しか持たない体が10年持つかもしれない」
すまない。仰向けじゃない腹ばいだ
朝だから頭がボケていたようだ
>>800 スパーの強さとか日プロ時代から猪木が持ってた価値観だから、そこは変わらないだろ
>>793 ドリー×猪木がどんな場面で引き分けたか、はおれの記憶違いかもしれないわ。
でも合っているような気もするし、我ながらいろいろと怪しいわ。
>>803 3年じゃなくて「本当なら10年もつ選手生活が1年で終わってしまうかもしれない」
凄い揉み上げした猪木が言ってた。
>>801 苦手でいうと、ブラジルやエリックにも相当苦戦していたね。
猪木もキニスキーやデストロイヤーとは相性が悪いはず
>>802 801です。失礼しました。
記憶(だけ)でモノを書くべきではないね…
馬場対ジョナサンのインター戦は
1967年のゴールデンシリーズに予定されていたが、
流れたんだよね。
>>785 それってレイスやフレアーがローカルチャンピオンが強く見せるための様式美なんだけどな。
全日の取締役だったんだから次に繋がる試合できない時点でな。
もっとも鶴オタに言わせると長州がゴングが鳴った瞬間に倒れ込んだんだそうだw
何度指摘してもコピペ繰り返して、鶴田の試合なんか見る価値ないから見てないってカミングアウトするんだもんw
>>813 強く見せるためもあるし
このまま締め上げてギブアップとれる、勝てる、ロープ逃げはできなそうだ
でもあと2分しかない、それまでチャンプが我慢できるか、できんだろう
でもあと30秒だ!?
というヒートにしたいし、なるんだよね。
すれてしまって冷笑的な学生の頃の自分でもやっぱりタイムアップ直前って
ちょっとだけ手に汗握るもん。
そこでボストンクラブやるのは頭悪すぎだろって話なんだよな
もっと頭が悪いのはゴングが鳴った長州が倒れ込んだって言うコピペしまくりの全日オタだな。
鶴田の試合なんか見てない見る気もしないって言ってるもんだからな。
今までに見てきた試合の中で、最後まで一番ハラハラしたのは猪木ロビンソン戦だな。
いい試合を見せることが力道山の供養になると、大見得を切ったのに
ロビンソンに逃げ切られると思ったからね。
鶴田長州戦はシングルで対戦することに意味があり
フルタイムマッチの中では凡戦の部類じゃないかな。
途中から長州の息が上がっていたのがわかったし
プロレスの試合だから決めにいかなかっただけでね(あそこで白黒着ける訳ないんだし)
60分戦いました、という結果を引き出したいだけ、みたいな試合は
意味ないし内容も薄くなるよね、当たり前だけど。
前座の15分、20分よりもメインが60分なのは
対戦者の実力が拮抗しているので短時間で決着が付かないから、
という建前なんだけど、60分のためにのんびり試合をやるんでは完全に本末転倒
いつぞやの鶴田×フレアー、長州×マーテルの15分1本の方がましだとも思える。
フルタイムで思い出したけど、昨日は 88.8.8藤波vs猪木戦の日だった。
もっと昔の74.8.8 は日大講堂で最後の猪木vsゴッチ戦が行われ、通算で猪木の2勝3敗かな?
同日、吉田光雄がエル・グレコとのデビュー戦をサソリで飾り、ドイツに武者修行。
>>820 期待の新星のデビュー戦がおかまルチャドールとはな
ウソです別人です
アッチの方は「ギリシャ人=ホモ」というものすごく直球のキャラ設定だったんだろうけど
実力世界一決定二番勝負なんかじゃなくて、NWF防衛戦にして欲しかった。
翌年、テーズには賭けたんだからねぇ
それとも神様を挑戦者にはできなかったのかなw
新間案のリングネームはストロング吉田またはナイト吉田
猪木がそれを遮って長州力と命名
藤波は新日のブレーンの梶原一騎が
リングネームをドラゴン藤波にしようとしたが
新間が「本名の藤波辰巳のままが良い」と通した
猪木対藤波とか寝てるだけで少しも面白くなかったんだが
>>823 メキシコ遠征前の長州は変なパーマ頭で、身体も小さいし、見た目もカッコ悪いしで、全然その後の飛躍が想像できなかったな
「長州力」とか今考えても酷いリングネームだが、現在の本人のキャラにハマり過ぎてて笑う
>>823 リングネームを募集したのに猪木が名付けたのね。
長州はイヤだったろうなw
でも豊登が在籍してたら、とんでもネームになってた可能性がある。
あと鶴田や藤波、剛もファン公募したはず(武藤もしたような…)
原の阿修羅は野坂昭如だったかな?
信州力とか筑前力もありえないことではなかったか。
ん、慶州力とかか?
>>818 いつもの試合開始20分過ぎの鶴田のバッグドロップで長州悶絶か?
本当は30分過ぎなのにな、全日オタって全日の試合なんか見ないもんな。
>>828 お前は鶴田の試合なんか見てないもんな。
>>823 >ストロング吉田
すでに、ストロング小林が新日の所属に
なっているのに、そのリングネームはないでしょう!?
>>825 あとになって「消臭力」が出てくるとは思わなかっただろうな…www
気の毒だった?のはTBSプロレス→国際プロレス。
「グレート草津」「サンダー杉山」「ストロング小林」「マイティ井上」「ラッシャー木村」
…みな名前の割に華がなく、単独エースとして長く君臨する事ができなかったり、人気の点でBIに迫る事は叶わなかったり。
ストレートに言ってしまえば「名前負け」 だった。
後に井上は業師として通好みぶりを発揮したり、木村は「金網の鬼」とマイクパフォーマンスで人気が出たけど…傍流感は否めない。
>>822 ゴッチが挑戦者になるのを嫌がったという説も
>>832 まあ見てくれが比較的マシなグレート草津を促成栽培でエースにしようとしたが、テーズに仕掛けられてKOされてるしな
それでも本人が努力すれば違う道があったかもしれんが、練習嫌いだったらしいし
>>834 発狂してるのは鶴田の試合なんか見てないことがバレたお前だよな。
ゴングが鳴ったら長州は倒れ込んだだよな。
80年頃は新日はぁカタカナ+名前のリングネームがぁ少なかったかんな。
藤波はぁドラゴン藤波 D藤波でも良かったっちゅうにぃ思うちょるんよぉー。
坂口はぁビッグ坂口 B坂口っちゅう方がぁーやっぱりぃ良かったっちゅうにぃー。
木村健吾もぉ一時期はぁサンダー木村 T木村っちゅう案もあったとかだぞぇ。
やっぱぁカタカナ+名前っちゅうのぁプロレスらしくていいと思うかんな。
マシーンが素顔んなった時にもぉストロング平田 S平田と候補あったしぃー。
でもぉ80年代にはぁそのカタカナ+名前はぁ時代遅れともぉ言われたかんな。
長州はぁ異質だったがぁー、結果的にゃあそれで良かったと思うちょるぞぇー。
>>833 ゴッチは日プロで馬場のインターに挑戦するはずがケガを理由にキャンセルしているね
もし挑戦したら間違いなく馬場の勝ちだったし
そうなると後に新日が神様と持ち上げることもなかったからゴッチにとって正解だった
ゴッチは力道山にもシングルで負けてないだろ
馬場とやって負けるとしても反則負けとかで、ピンフォール負けは呑まないと思うが
>>841 マツダ、吉原、ゴッチの密会だね。
たとえゴッチが感染症と診断されなくても、ノンタイトルの可能性が高かったでしょうね。
>>842 インターの初防衛戦でテーズに2−1で勝ったくらいだから
ゴッチにもピンで勝つんじゃないかな。
まあ、よくある1−1のあとリングアウトか反則で、というパターンだと思う。
A猪木 B坂口 D藤波 T木村 こぉゆぅ表記ならぁ見映えも良かったぞぇー。
長州はぁ最初にゃあパワー吉田 P吉田っちゅうのも候補に挙がったらしいかんな。
因みにぃ小鉄と星野のバワイはぁ下の方がぁリングネームだったんよぉー。
当時はぁ全日や国際はぁカタカナ+名前っちゅうのぁそれなりにぃおったしぃ。
馬場正平 猪木寛至ではぁピンとこないからぁやっぱぁリングネームだぞぇー。
橋本は若手ん頃にゃあ『拳王橋本』に改名するっちゅうにぃ言うちょったんよぉー。
そんでもぉ結果的にゃあ改名せずにぃ本名そのまんまでやっちょったかんな。
武藤や蝶野も同じくだしぃ、三沢 川田 小橋とこの年代はぁ本名時代だぞぇー。
>>844 仮にシングルマッチが実現しても
>>649のようなアメリカンな試合するだろうか?
ドロップキックやモンゴリアンチョップやってるんだからw
おそらく日本ではWWWFのような試合じゃなく、負けブックだとしても
自分の方が優位に見える戦い方をするよね
ロビンソンと同じでロープに振られても16文は受けないだろうし、、
>>844 >>846 対力道山戦では、実力差を誇示しながらもジャーマンの形が崩れた事にしてダブルノックダウンを演じたよね。
どう試合を成立させるにしても、ゴッチは自分の実力が劣るような見せ方は許さなかっただろう。
でも、ゴッチは初来日時、吉村道明には
3本勝負、2本フォールを許して負けているんだよね。
ゴッチが
「吉村は力道山より上だった」と高く評価しているのは
自分のプライドを維持する為もあるだろう
ゴッチは吉村と計十四戦して通算三勝してるから一回は星を返した感覚なのかもな
初公開のジャーマンをセルしてくれたのも吉村だし
>>848 61年7月22日富士吉田 -45分3本勝負-
吉村道明(2-1)Kクラウザー
吉村(15分43秒体固め)クラウザー
クラウザー(5分21秒原爆固め)吉村
吉村(1分46秒逆さ押さえ込み)クラウザー
ゴッチが日本で唯一の2フォール負けした試合ですね
あと、ゴッチは68年1月3日の隅田川決戦蔵前大会にも参戦し
ジェリー・ロンドンを原爆固めで破っている。
同じ日、日大講堂ではテーズが岩石落としで草津をノックアウト
隅田川を挟んで神様と鉄人と共演していたのは知らなかった。
>>820 で猪木vsゴッチの通算戦績を猪木の2勝3敗と書いたが
69年5月21日 香港で引き分け試合をやっていたので、猪木の2勝3敗1分けです。
>>851 馬場がリソワスキーを時間無制限1本勝負でリマッチして、 32文一撃で粉砕した あの日だね。沖識名さんのビリビリのシャツが懐かしい…w
同日の草津対テーズは悲惨だった。
それにしても「岩石落とし」ってのが懐かしい呼び名だね。
大木金太郎は原爆頭突きでキノコ雲のガウンだったからなあ
ああいうのが問題視されるようになったのはいつ頃だろう
セブンの12話が封印されたのは70年だっけか
>>853 よくOKされたものだよ…考えてみれば。
他にも…
・大木金太郎の「原爆頭突き」
・尾てい骨割り=アトミックドロップ(→これもちょっと…)
・アトミック・ボムズアウェー(→訳さない方が好ましい…)
いや、そもそも女性水着のビキニが
ビキニ環礁での原爆の破壊力に例えられたのが起源だからね。
いまだに島住民は帰島出来んのだろ?
コンプラとかなんて、双方のパワーゲームで決まるようないいかげんなもん。
国や地域によってタブーだったり、またはそれに対して鈍感だったりってのはあるだろうな。
ンな事言ったら、先のゴッチのジャーマンだってドイツ式に踵を揃えてブリッジしていたり、キラー・カール・クラップなんかのドイツ式敬礼だってひっかかる。
あと、その手のタブーとは違うけど、ボボ・ブラジルが九州ではそのままではコールできなくて、ただ「ブラジル」とコールしたとか…w
本人が後で理由を聞いて「まったく、何処の国の連中も考える事は同じなんだな」と苦笑したとかしなかったとか…
>>856 故郷とはいえ汚染された地に帰るなどバカのやること
ビッキーニ バカ帰る♪ は林寛子だっけか
原爆男ウイルバースナイダー
先日亡くなったのは黒い核弾頭だったっけか?
>>856 そうだったんだ?
ビキニ環礁あたりの島で女性の衣装がああなんだと思ってたよ
>>857 ブラジルの件は都市伝説だと思う
ボボブラジルとコールして客席がざわめいただろうことは想像できるが
だからといってコールを変えるかどうかは?
発音が同じといっても、外国人の名前と区別はするだろ
笑ったり眉をひそめるぐらいはするだろうが、放送しない、発音自体しないとかないだろ
>>859 >>857の「ボボ・ブラジル」は、「件の2文字部分が地元TVでは放送できなかった」ってハナシだったかもしれない。
いずれにしても、都市伝説の域を出ないのは確かだね。
スレチ気味の話が続いたろうから、BI砲絡みで…
BIそれぞれを頭突きで苦しめたブラジル。
68年、馬場のインターの防衛記録をストップさせたり、翌年のWリーグでは開幕戦で猪木を黒星スタートにさせていたり…(この年は馬場もモンスーンにフォールされて黒星スタートという波乱ぶり)。
>>860 続けて失礼。確かにね。
だったらインカ帝国の初代皇帝の名前も放送できないだろうし…
ただ、指揮者の「マルク・ミンコフスキ」やも本来ならフランス語読みで(…中略…)なんだけど、なぜか「ミ」ンコフスキ表記なんだよね…
スレチ修正しておきながら蒸し返しでゴメン。
NHK教育テレビの「インカ帝国」の特集で
思いっきり、マンコ皇帝と言っていた。
あと、普通、ボボ・ブラジルは、ブラジルと呼ばれが、
馬場は「ボボ」と言うんだよね。
試合後、インタビューで「今日、ボボが、いきなり襲い掛かってきた!」
「ボボの動きは激しかった!」とか「ボボ」「ボボ」連呼していたから
九州では大うけだったろう。
ババがボボを語る
しかし方言とはいえ母国で笑われる馬場は余計気の毒
>>864 いや、「ババ」は関西の一地域でしょ。
それにしても
>>864…www
スヌーカは全日でエース外人になれたと思ってます。
81年に全日に初参戦。
当初はリッキーの抗争相手でシークのパートナーという立ち位置でした。
アメリカでのリッキーとの抗争を日本でも再現と。
そしてシークのパートナーに抜擢。
しかし結果的にはリッキーやシークを上回る高評価を得ました。
あの人を誉めない事では最強の鶴田でさえもスヌーカを大絶賛。
『スヌーカは凄くいいレスラーですね』
『シークは反則封じたら簡単に仕留められます』
『スヌーカはそうはいかない』
『あの跳躍力は凄くてパワーもラフもある』
『僕のUNに挑戦してきたらウカウカしてられないです』
あの鶴田がスヌーカをここまで誉めまくりで。
そんなスヌーカもブロディとは組まない方が良かったとも思いますね。
結果的にブロディのパートナー ブロディの子分的な存在になってしまいました。
スヌーカという素材を考えたら勿体なく残念ですね。
九州の方言は知らないけど、玉ちゃんはNHKで普通に呼ばれるようになったからねw
単位なんかは普通に女子アナが「1万個、2万個」って読むんだし
「青梅国際マラソン」とか「スイスのレマン湖」とか…
クレーム対策なのはわかるが、差別や虐めに結びつける方が意識しすぎてるんじゃないかな?
そういえば、ブラジルは第11回Wリーグ最後の公式戦で吉村に負けてたんだね
モンスーンが小鉄に落としたり、猪木初優勝の調整も大変だw
>>868 業界内部暴露のあの本が出て以来…といっても、前々から「見せるスポーツ」には純粋な勝敗だけではないモヤモヤがある事は感じていたけど、今となってはよくわかる事情だね。
マイナーリーガーのオチンコが
来日したら、あるいはメジャー昇格してMLB中継に出てきたらどうなるか
大盛り上がりだったのが早やなつかしいな
ユーリ・アルバチャコフが来日したらユーリ海老原と言うリングネームにされたが
ロシアでは「エビ」って猥褻な言葉なんだよね
だからすげえ嫌がってリングネームをアルバチャコフに戻した
>エビ」って猥褻な言葉
女性のあそこを示す言葉と聞いた。
そして「ハラッショ」はロシア語で「素晴らしい」
つまり海老原将軍は、、
>>873 高千穂って、ある時期から昇格していたね。
TVマッチで、あの篠原リングアナのコールを聞く事が結構あった。
日プロ末期にはUNベルトを巻いたっけ?
>>874 追記。BIが抜けてしまって(確か坂口も)、大木がインター王者だった頃。
今思い出しても、一気に華がなくなってしまって、国際プロにも見劣りするような有り様だったな。
>>874 最後のテレビマッチでバレンタインから奪取
>>874 猪木を追放しても馬場がいるから安心していた日プロ幹部は
馬場の離脱宣言に焦って、大木が馬場のインター王座に挑戦するカードを発表
馬場はインターヘビーとタッグ王座を返上するんだよね。
結局、馬場vs大木を予定していた田園コロシアム大会は坂口vsシークのUN選手権に変更
その坂口も日本プロレスを辞め、残留組は
インター王者が大木、インタータッグが大木&上田
UN王者が高千穂、アジアタッグが小鹿&松岡
まあ、この中で華がある?のは若い高千穂になるのかな…
高千穂は「ヤングプロレス」の頃から露出が多かった気がするし
BIが抜けたあとのNWAタッグリーグでも優勝させているから
一縷の期待はされていたんだろう。
高千穂は芳の里とベッタリだったからね
日プロがあのまま続いていればエリートコースだったはずが
日プロ崩壊で天龍に「源ちゃんには帰る場所があるじゃないか。俺には帰る場所がないんだよ。」と
こぼす立場になってしまった
>>875 >国プロにも見劣りするような有様
大木<ストロング小林であるけどインター王座>IWA王座
上田>草津
高千穂<井上
国プロ優位だな、となると外人次第か。
>>879 1972年は秋から4団体時代なんだよね
大木坂口がWエースの日本プロレス
IWA3冠(シングル・タッグ・Wシリーズ)小林がエースの国際プロレス
新間が入社し、豊登が助っ人参戦した新日本プロレス
鶴田が就職し、魔王が加入した全日本プロレス
この年、今まで日本プロレスとの興行戦争に負けていた国際プロレスが
11月の愛知大会で(金網タッグで暴動)日プロに観客数で勝っている。
TBSの放送時間短縮等あったが、この時期が国際プロレスの最盛期かな
年末では馬場を草津の前に歩かせる事も出来たわけだし
魔王加入はその後なのも面白い
口八丁手八丁でS小林を口説き落して引き抜きを成功させて
完敗ブックまで飲ませた新間の辣腕ぶりが凄い
草津のパワハラが要因だからな
むしろ国際側の迂闊といった面の方が強い
>>877 72年9月初めのシーク参戦は、馬場が日本プロレス離脱宣言(7月29日)する前から
内定していたんじゃないかな?
前年、同時期の初来日キャンセルの埋め合わせとして、当然、馬場が離脱しなければ、
インター挑戦、そして坂口のUNにも挑戦かな?いずれにしろ9月6日の田コロと7日の
大阪府立は大物を呼んでタイトル戦にしないと格好がつかない。
もし、万が一にも馬場が大木の挑戦を受けたら、9月6日は、馬場対大木のインター戦
&坂口対シークのUNダブルタイトル戦かな?
いや、そうなったら馬場対大木だけで超満員になるから、シークの来日は日プロ側から
キャンセル。7日大阪は坂口対クリス・マルコフのUN戦で乗り切る。
>>883 草津って最後までプロレスを舐めていたと思う。
65年に日プロに入団するも、程なく道場での練習にも参加せず
そのうえ先輩レスラーに生意気な態度だったため袋叩きにあい、怪我を理由に退団
国際に拾ってもらったのに、海外修行中にマツダ吉原の承諾も得ず
カナダのフットボールチームの入団テストを受け、2軍扱いが嫌になり転身を断念(なんじゃそれ)
それでもTBSがエースとして全面バックアップすることを聞き帰国
記者会見では、かつて付き人を務めていた馬場に「今は対等な立場…
…お互いに頑張りましょう」発言
隅田川決戦の試合が近づく中、東郷が草津のトレーナーになるも手抜き練習がバレ
練習相手の小林の方の素質を見抜き小林を指導するありさま
テーズに一発喰らわせてもらって本当によかったよ。
>>885 当時のTBSも「スターの売り出しに鉄人ルー・テーズ氏が一役買ってくれる事になりました」と、運動部長だか誰だかが局長に言う有り様。
テーズとしてはそんな負けブックに簡単に乗るなんて事も納得するはずがなく、草津の驕りにも反感を持っていた上に、社長の吉原からも「TBSはレスラーのプライドなんて考えていない。貴方は全力で草津を叩き潰す事を考えてくれれば良い」とまで言われる始末。
テーズとしては、バックドロップで1本を取り、草津が失神KOという事なら「あれは不可抗力」という事で収まりがつく。
…そんな状況下での決着があれ。
運動部長は試合後「とんでもない事をしてくれた」と青くなったらしいが、当のテーズは「とんでもない事をしていたのはアナタ達の方だ」と憮然といていたらしい。
(流智美氏の記事を うろ覚えの上で書いたので、細かな誤りがあったらスミマセン)
歴史にたらればは禁物だけど、草津にもう少し心・技・体が整っていたら、結果は違ったものになっていたんだろうか?
>>886 TBSからすれば「上手くいった草津」が沢村忠でTBSは草津をああしたかった
沢村の試合がほとんどケツ決めだったのは今では常識
ただし沢村は草津とはちがってきちんと練習していたという証言が多い
真面目にプロレスに取り組んでいたら、草津もいいレスラーになっていただろうな
猪木もスタートは敗北だったが、意味がまったく違う。
真面目にプロレスに取り組んだ草津は
ちょっとだけ歴史が変わっただろうがおもに国際プロレスのなかの話
ハイセルに入れ込まなかった猪木は
おおきく日本のプロレス界(おもにリング外だが)が変わったことだろう
>>888 なるほどね…極めて納得。
沢村忠も懐かしいな。殆どケツ決めがあったとしても、当時は随分と楽しませてもらったよ。
BI砲にしても然りで、今となっては虚構の部分を知ってしまったけど、もういいでしょう、あの頃は楽しかった。
>>888 沢村の相手は話のわかるタイの二流選手。
草津の相手は業界最強と知れ渡った男。、
>>894 今見直してもデビューから2年位のグリーンボーイの草津を
VSテーズでしかも勝たそうとしていたらプロレスを舐め過ぎだよね
馬場はエリートだけど
日本で前座デビュー→海外遠征
→アメリカでレーティング上位に入るほど売れて最高峰のロジャースに挑戦して大観衆を集める
→アメリカのプロモーターから「日本へ帰らないでくれ」と引き留められる
→帰国後に豊登を追い抜いてエース就任
だからちゃんと段階を踏んでいるし
テーズが馬場の地元の日本で負けブックを飲めるステイタスのレスラーだった
>>894 話のわからないタイの強豪サマンは沢村と真剣勝負で対戦し4ラウンドKO勝利
沢村は全身37ヵ所打撲、肘打ちで後頭部が陥没、出血13ヵ所で奥歯が5本抜け
結果、16度のダウンを喫した。
>895
隅田川決戦の日大講堂には、日本プロレスと折り合いが悪くなっていた
百田敬子未亡人に息子の義浩と光雄、力士時代の天竜(17歳)も観戦に訪れていたらしい
当時の四股名は島田か嶋田、関取になって天龍
力士時代天竜だったことは一度もない
>>896 >日大講堂には、日本プロレスと折り合いが悪くなっていた百田敬子未亡人に
>息子の義浩と光雄も観戦
長男・義浩の社長就任を反故にされ、日プロを乗っ取られた敬子未亡人は、
ともかく、光雄は、もう日プロに入門していたんじゃなかったっけ?
と思ったら、この68年の2月入門だった。
もしかしたら光雄は国際プロレス入門も視野に入れていたのかな?
でも、草津の負けっぷり、その後の迷走を見て、やはり日プロにしたとか?
>>897 それは知りませんでした。
天竜三郎という力士がいたから、その流れかと勝手に思っていたw
力士時代の改名歴を調べてみると、昭和43年1月は島田源一郎でした。
>>898 力道山の死後、力道山の作った"日本プロレスリング興業株式会社"の巨額の負債を回避するため
豊登・芳の里・遠藤・吉村は別法人
"日本プロ・レスリング興業株式会社"を設立しているから
この時期の関係は良くなかっただろうね。
もちろん力道山の実績や名前は日本プロレスに付いて回るから
話し合いは持たれたんだろうけど。
負けブック?何それ??
美味しいの???
どんな味するのか教えてよ
>>900 全日の法人名称、プロとレスの間にナカグロがあるのが
長い間変なの、と思ってたが、この流れを汲んでいるんだね。
ナカグロを入れれば別法人だとして受け付ける法務局もあれだが。
>>903 ナカグロというか、渋谷区代官山(日プロ)と港区赤坂(敬子夫人)で自治体が違うから
同じ名前の会社登記ができたみたいよ(詳細は『日本プロレス事件史』)
しかし、国際プロレスも馬場の全盛期からBI黄金期に突入していく時代に
よく勝負したよね。
TBSも本気だったら、一夜にしてスターを…なんて考えずに
長い目で見守って欲しかったな。
同日興行戦争では、68年1月3日の隅田川決戦が一番有名だが
67年8月14日には、日プロが大阪球場で馬場vsキニスキーのインター選手権(20,000)
国際が府立体育館でマツダ&サム・スティムボートvsロジャー・カービー&ビル・ドロモ(4,200)
68年8月3日、日プロが横浜蒔田公園特設リングでBI砲vsサンマルチノ&Sマーフィー(8,000 ノンタイトル)
国際は横浜スカイホールで豊登&杉山&草津vsプリンス・クマリ&ブル・デービス&ホワン・ラマス(2,000)
71年3月2日、日プロが蔵前国技館でBI砲vsマスカラス&アリオンのインタータッグ(9,000)
国際が東京体育館でバション兄弟vs杉山&草津のAWA世界タッグ
木村vsザ・?の金網デスマッチ、一時帰国の井上vsビル・ミラーの3大マッチ(3,000)
日本プロレス崩壊後で一番有名なのは、75年12月11日かな?
>>898 日本プロレス残党を預かることになった時の記者会見での百田夫人の怒りと困惑の混じったなんとも言えない顔が忘れられない。
彼女だって当時アラサーくらいだから今考えると無理はないんだが。
>>905 91年9月23日に新日が横浜アリーナ、FMWが川崎球場でやってた。
新日・全日間では一方が蔵前や東体、もう一方が後楽園ということが
ちょくちょくあった。
>>906 自分が日プロから追い出された経緯があるからね
トロイカ体制の中でも特に遠藤が力道山を嫌っていたというし
リキパレス問題で吉原を追放したのも遠藤だったし…
力道山の莫大な借金は、没後からおよそ30年かけて完済したらしい。
>>905 しっかし国プロの華のなさと観客動員数いったら…
まぁ、当時のBI砲の実力と人気が凄すぎたわけだけど、国際にBIと同等のスターレスラーがいたら少しは違っただろうか。
>>910 今となってはだが、67年旗揚げ合同興行をやった猪木を獲得できていたら
その後のBI砲もなかった訳だし、すべてが変わっていたよね。
国際に猪木が入団して猪木ラインで新間が国際に入社
そして吉原を追放
これなら国際は今も生き残っていたかもしれない
小鉄と藤波の運命は変わっていたが
あの時点では猪木と新間は喧嘩中だったからな
まあ猪木の事だからTBSを懐柔出来た可能性は高そう
>>909 遠藤は元々自分の方がキャリアが上だという自負があったからな
レスラーのこういう性癖は相手が力道山であってもぶつけられるわけで
馬場の名言
「この世界のトラブルは全てヤキモチから産まれる」
力道山VS木村政彦も
「柔道界で鬼の木村と呼ばれた俺が何で関脇で終わった力道山より下なんだ?」ってのが
根本にある
>>915 古すぎて田鶴浜ワールドみたいな話だけど
関脇の力道山より、はるかに格上の第40代横綱・東富士が入門したとき
「プロレスではワシの方が上だ」と酒に酔い荒れ狂ったらしい。
危機感を持った力道山は、東富士とジェス・オルテガのシングルマッチで
オルテガにセメントを命じ、防戦一方で動けなくなった東富士を救出することで
プロレスでは自分の方が上ということをファンに印象付けた。
では何故東富士を日プロに入れたのか?
調べてみると、力道山の後継者で日本プロレス協会の理事長だった永田貞雄が
ワンマンになりつつあった力道山体制を牽制する思惑で口説いたみたいだ。
元関脇にいいように踏み台にされた元祖横綱レスラーは、僅か4年で引退した。
>>915 馬場はいつどういう状況で言ったの?
>>916 永田貞雄じゃなく新田新作じゃね?
後継者は後援者の間違い?
>>916 何かあるとすぐ酒で荒れ狂う力道山
あの死はやはり必然だったんだよな
>>917 エスエル出版会の本に載っていた
1986~1987年頃のインタビューで馬場がそう言ったと書かれていた
>>919 ありがとう
プ板以外で見たことないから詳しく知りたいな
>>916 永田貞雄は興行界の顔役と言われたニッシンプロモーションの社長で興行師の大物
新田新作は新田建設社長で力士時代から力道山のタニマチ
力士廃業後、力道山は新田建設で働きその頃ハロルド坂田と喧嘩になり、それが縁でプロレスの道へ
プロレス修行の為の渡米資金も新田が支援
力道山が帰国後、日本プロレス起ち上げて時には資金調達は新田と興行のまとめは永田が行った
新田にとって子飼いだった力道山をコントロールしようとしていたが、力道山は自ら社長に
横暴になって新田や永田が尽力して設立日本プロレス協会メンバーを疎かにする様になってきたので元横綱東富士をプロレス転向させた
新田は元々東富士のタニマチでもあった
>>921 詳しい説明ありがとう!
やはり力道山の横暴が、東富士のプロレス転向に繋がるんだね。
Wiki なんかは、力道山が東富士をプロレスに誘ったように書いてあるw
>>915 >「この世界のトラブルは全てヤキモチから産まれる」
離脱した選手や引退した選手の言い分を聞いてると、つくづくそう思うね。
坂口は離脱が起きるたびに「黙って行け。悪口言うな。黙って辞めるんだよ。
『お世話になりました』って。唾を吐いたら自分にかかってくるよ」と言っていたという。
実力だけでは上に行けない世界だから、愚痴がでるのも仕方ない部分ではあるが
あまりいい気分しないよね…
広島の原爆が上空500メートルで炸裂したと聞くとふーんけっこう高いなあと思うが
総武線に乗って遠目にスカイツリー見るとその低さに気づいてゾッとする
いくら、ブルーザーでも
広島や長崎で「アトミックボム・ザ・ウエー!!」と
叫ばなかっただろうね。
Atomic bomb's away じゃないのかな。
原子爆弾の放り出し
自然な感じで踏みつけるダイビングフットスタンプ、みたいな感じの技でしたっけ
トップロープから片足で踏み潰すように落下してくるエグい技
フットスタンプは両足のイメージだが、ブルーザーの場合急降下のストンピングに近い
ブルーザーと猪木のシングルマッチを探してみると
馬場がインター王座争奪戦で対戦したおよそ1年前、64年8月20日に対戦しているね
当時、ロスとインディアナポリスのWWA、NWA、AWAで売れっ子だったブルーザーは
カリフォルニア州ベーカーズフィールドで、若干21歳のリトル・トーキョーと引き分けている。
>>930 ダブルフットスタンプならエグいけど片足ならいくらでも加減できるよな
ついでに草津の海外修行時代を見てみると
隅田川決戦の1年前、67年2月7日フロリダ州タンパでテーズと対戦している
ルー・テーズ(8分0秒体固め)タキ・ヤマグチ(草津)
同年カナダではビッグ・クーのリングネームで
ATブッチャーやTJシンとも対戦している
>>932 そういう単純な技でも迫力のあった当時のプロレス。
ブルーザー来日の少し前くらいまでは、ボディスラムでフォールを取っていたような時代だからね。
モラレスのビッグボムズアウェイもどんな技かと思ったら
ロープ最上段からのヒップドロップで拍子抜けした記憶がある
>>935 ふーん ラテン系なんだからセントーンやればよかったのにねえ
>>934 昔は必殺技をマネすることを禁じているような、暗黙の了解があったね。
それが前座の若手レスラーが使うようになり、観客の見る目が肥えていくと
受け身が取りづらい危険な技が増えていき、究極の四天王プロレスに行き着く
馬場もBI砲でアトミックボムズアェーやったことあるよな
猪木からタッチ受けてこの技だけでフォール
実況もブルーザーの技とか全然触れないで
ドカーン!と最上段から馬場が降ってきましたみたいな事言ってたが
馬場は仰向けに倒れた相手のお腹に両足で乗ってドーンドーンと足踏みするムーブも良くやってた。笑いも起こってたけど冷静に考えるとなかなかエグい。
>>938 BI対スパイロス・アリオン&ミル・マスカラスの試合だね。確かその1本目。
アリオンは期待はずれだったし、マスカラスにしても「国際に行く」という思い違い?もあったから、ツブしてまえという事か、最後は猪木の卍固めでギブアップだった。
一本目はマスカラスが猪木からピン取ってるし潰すとかは全く無いと思うが
馬場は、1971年第13回ワールド戦のタッグマッチで、確か
コーナーポストからの二―ドロップかストンピングで
ジョー・ルダックを、負傷させ、途中帰国に追い込んだ。
国際の「あなたがプロモーター」の1位2位を日プロが強奪
これはどっちかというと強奪よりも
順位発表⇒その後にレスラーと交渉しよう
という吉原の緊張感の無さが話にならん
馬場が「吉原さんは立派な人でした。だけど「ああいう人だから国際は潰れてしまったんだ」と
言う人もいます。」と評したのもわかる
というか他人の企画をただのりで持っていってしまうような
よくいえば豪腕、わるくいえば恥知らずな真似をしてくる人が
日プロにいることを想像できなかったのがピュアなんだな。
>>946 吉原も日プロ出身なのにわからなかったのかな?
>>945 前にも書いたけどアリオン1位は仕込みだよ
人気投票締切りが7/27で来日中止になったシリーズ開幕が9/9
集計、パンフ擦りとか考えたら交渉期間はほとんどないから事前に決まってたとしか思えない
で人気投票実施中に「アリオン秋に国際参戦か」という情報がゴングに出てた
つまりアリオンとは既に交渉中でほぼ内定、箔付けのためにヤオで1位にした
しかしお得意のブッキングミスでキャンセルされただけ
>>948 マスカラスはAWAのガニアを通じてオファーがあり、ギャラの問題で国際を断っているが
アリオンの場合はダブルクロスだろうね。
日プロもしたたかで、アリオンが参戦する予定だった70ダイナマイトシリーズに凱旋し
金網デスマッチで話題をよんだラッシャー木村の力道山タイツを
普段ショートタイツのアリオンにギャラの上乗せで履かせ、BIにやられる演出
国際のイメージダウンを図ったとする文献もある。
>>950 「たまにはオレもエンターテイナー」に載っていたから1983年
>>949 そこまでやらなければならないって所に逆にどれだけ国際とTBSを意識していたかが伺えるんだよな
>>953 猪木を厚遇で呼び戻した事も「国際に獲得されたらマズい」が理由だったからね
興行では同日にぶつけたりとTBS&国際を意識しまくっていた
しかしTBSに見捨てられた後は猪木から「後楽園ホールも満員にできない団体」と
言われるほどとるに足らない存在になった
12チャンネルという延命装置で生き延びただけで実質はS小林が引き抜かれて
猪木に負けて終わったんだと思う
BIとインタータッグ戦当時のザファンクスは若くてかっこよかった
11年後に最強タッグで大学の後輩にボコボコにされるとは
新日に来てたらもう少し若さと体力を維持できたのに残念
>>956
大学の後輩 って一瞬ピンとこなかったなw
玉ちゃん「日本の小僧にとっちゃウエストテキサス大が一番なんだよ
ハーバードなんてだれも知らねえんだから!」
ハンセン「ワッハッハッハ!!」 なんでファンクスってあんなに体が萎んしゃっんだ?
病気とか離婚で精神的なものもあったかもしれないけど。
特にドリー。まだ40歳そこそこなのに。
完全にお爺さんだった。
>>956 新日に行ってたら
ヒーローにはならなかったな
・馬場→力道山や豊登の人気に迫ったけど、先輩レスラーを追い越そうとはしなかった。
自然な流れでエースの座に就き、力道山なき後の安定王者として君臨したが、トップゆえに誰かに挑戦する姿勢を見せる事がなかった。
・猪木→そんな馬場に(NETのプッシュがあるにしても)事あるごとに対戦を迫り、追い越そうとした。ワールドリーグ優勝やUN王者に就き、「馬場と肩を並べた」事をアピールし、日プロ離脱後もずっと馬場への対戦姿勢を続けた。
両者を比べれば、挑戦的な姿勢を前面に強く押し出していた猪木の方が、ある時期からは人気が上がり、支持されていったのは当然だろう。
個人的には馬場派だけど、これだけは確か。
言われ尽くした事だろうけど、この2人の対立図式が、70年代以降のプロレスを面白くしていた。但し個人的には、そんな盛り上げ方はすごく嫌だった。
そうだね。同じリングで同じ相手で競いあうのは
見ていてスポーツライクで気持ちの良いもんだけど
間違いなくリングでは一緒にならないのにやれ/やれない、ウチが先とか
マネした/してないの争いは届かない遠距離砲を撃ち合ってることだからなあ
今の時代なら普通に馬場猪木戦が実現し、
交代交代でエースを務めていたかもしれんな。
>>963 猪木が79歳…
馬場さんがご存命なら84歳になる。
馬場さんの目の黒いうちは、業界内でおかしな事はできなかったと思うが…もし84歳の馬場さんが目を光らせていたらと思うと…
>>964 >>965 興味深い説だな…w
…別に意図的ではないんだがね。
馬場さんは故人だし、猪木「さん」はなんか似合わないと思うのだよ。
レスラーとしては老いた、ある時期からの馬場はどーしても「馬場さん」のイメージだけど、やはり「馬場!」と言えた全盛期の馬場に魅力を感じるからね。
ならば、猪木さん(…やっぱ似合わね…)にしても、引退してもなお「イノキ!」と呼ばれるのは、やはり現役時代のカリスマ性あっての名残だと思うよ。
>>964 馬場は鶴田の死も、三沢・小橋らの大量離脱も、その三沢のリング上の死亡事故も
何ひとつ知らないんだよな。
猪木にしたって、国会で「元気ですか〜っ」発言で議長の注意を受けたり
昔は笑われることをあれだけ嫌っていたのに
タガが外れ、面白おじさん化した時期は馬場が死んでからになるんだろうな。
現在は難病と闘う昭和のスーパースターとして、壮絶な生きざまを我々にさらして
勇気を与えてくれているけどね。そこらへんは尊敬しちゃうわ。
馬場はさんになってから違うステージになってたのはそのとおりだし
猪木も「さん」はつかないけど、いノキ と イのき へと呼び名が変わった
のは同じようなステージチェンジじゃないかな。
選挙に出て猪木氏と呼ばれだしたあたりからカリスマが消えた
中島らもだったかな
「『馬場!』だとなんか汚いものな感じがするからみんな『馬場さん!』とせめてさんをつけた」説
これが一番納得したw
>>960 >日プロ離脱後もずっと馬場への対戦姿勢を続けた。
それだけ馬場の存在が大きかった証拠だけど
独立してからは、むしろ猪木の後ろにいる新間と戦っている感覚じゃなかったのかな?
口撃は常に猪木だけど、参謀の新間を意識しまくっていた気がする。
「馬場のプロレスはショーだ、偽物だ」なんて公言されたら、営業妨害で訴えてもいいが
裁判になるとプロレスの内情が世間に晒されてしまう…
そういうのを見越した上で猪木に発言させていたんだと思う。
>>968 業界関係者が「猪木さん」を「アミノ酸」と同じアクセントで言うのはなぜ?
>>971 まさに挑戦者の強味なんだよな
後には前田にこれをやられる皮肉
前田も高橋義生にやられて、安生には実際に殴られるという・・・
まあ馬場と猪木は年齢違うとはいえ同期だからな
力道山木村政彦のショックがあったとはいえ、前座時代しかやってないのは不自然だろ
>>973 86年の次期シリーズ「ニューウェイブダッシュ」の主要カード発表時点では
猪木vs前田、藤波vs藤原とあったのに、猪木のクレームで消滅してしまった。
UWF代表が藤原なのに、何で2番目の前田とやらなければならないのか?
もっともなんだけど、この頃から猪木は前田から逃げたイメージがついていったね
常々「いつ何時、誰の挑戦でも受ける」と言っていたのに…
>>975 「この試合に勝てば猪木VS前田が実現」って試合で前田に当てた相手がマードックだったという
そりゃマードック相手じゃ恐くてブック破りなんてできない
>>975 それについてはオープン選手権の参加拒否で既に破られていたが
>>978 今の猪木をしっかり目に焼きつけたけど、見たくなかった気も…
でも、猪木の力になるんだったらヨシとするか。
馬場の辿った道を、結局は猪木も辿った事になるよね。則ち…
・馬場に散々「挑戦」しておいて、受けない=逃げているというイメージを世間に流したけど、後には自らも、前田の挑戦から逃げているというイメージが付く事に。
・老境に差し掛かった馬場(馬場さんと呼ばれるようになった頃)が、お笑いプロレスで前座のリングに上がっていたけど、もはや居てくれるだけで良い存在(レジェンド)となっていった。
引退して長い今の猪木だけど、猪木もまた そういう意味で既に「レジェンド」でしょ。
居てくれるだけで良い。
もう二度と出てこないであろう、唯一無二のスターだからこそ、全盛期に我々を楽しませてくれた、それで良いと思う。
>>980 猪木ポエムの『ロウソクの言葉』の中に「私は、もうじき死ぬ。身を削って、
苦しみと悲しみの中で灯りを作り出している。でも、燃え尽きるまで周りを照らしていきたい」
というのがあるが、全盛期を知ってるだけに弱々しい姿を見たくない思いもある。
もしかして、プロレスを信じて応援してくれたファンへの罪滅ぼしで
命懸けの真剣勝負を見せてくれているのか? …なんて考えてしまう。
罪滅ぼし?
長年プロレス見てきたはずなのに
まだこんな認識の奴いるんだな
長年見てきたけど、すべて金で動いてるとは思いたくないんだよなw
>>975 だから若い頃の鶴田の言葉が重くなるんだよ
「猪木さんも歳を取ってから、若い人に挑戦されたら困ることになるんじゃないですか」
それが前田だった訳で、鶴田は見事に未来を予知していたことになる!
どんなアスリートでも、鍛えている事の有無に関わらず、年齢には勝てないわけでさ。
自らの衰えを自覚して、隠居老人みたいになって全盛期とは別の愛され方をされた馬場と、それでも虚勢?を張り続けた猪木と、どちらが魅力的だったか、或いは晩節を汚さなかったか、意見が分かれるのは今更言うまでもない事だよね。
>>973 まさに挑戦者の強味なんだよな
後には前田にこれをやられる皮肉
すっかり魔法をかけられてるな
猪木が「いや、俺の方がまだ強い、最強は俺だ」なんて言ったこともないし、猪木はなるべく俺のことをサゲろと後輩に言ってる
皮肉でもなんでもないスキャンダルの基本
>>983 自身はB型肝炎隠してリアルキラーでありリアルヒールを実践したのが凄いよな。
プロレスのお約束の怪我させないどころか不治の病に感染させるリスクがあっても平気で破れる神経が常人離れしてるな。
>>983 未来を予知、は大袈裟だろ(笑)
中年女が若い娘にあんたもやがてこうなるのよ、っていうくらいのこと。
そもそも
>>983が何言いたいのかイマイチわからんから
それにアンカー違いのレスがつくとカオス
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